神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

久能山東照宮

2011-02-08 22:27:43 | 神社
久能山東照宮(くのうさんとうしょうぐう)。祭神:徳川家康公(東照公)。
場所:静岡市駿河区根古谷390。駿河湾に面した国道150号線(通称:久能街道)沿い、コンビニ「ローソン久能山入口店」のある交差点を北へ入って正面。ただし、こちらには駐車場がなく、長くて急な石段を上ることになる。そこで、「日本平パークウェイ」で日本平山頂まで行き(無料駐車場あり)、そこからロープウェイ(運賃:一般往復1千円)に乗るのが便利。なお、当神社では拝観料(大人5百円)が必要。
「久能寺」(2011年2月8日記事参照)が武田信玄によって有度山東麓に遷された後、「久能山」は自然の要害として山城となっていたが、元和2年(1616年)に徳川家康公が駿府で死去すると、その遺言によって久能山山上に葬られた。翌年には、その神廟(写真5)の前に社殿(写真4)が完成し、「東照大権現」の神号が授与された。正保2年(1645年)には宮号も許されたため、「東照宮」と称するようになった。現社殿は創建当時のもので、江戸時代初期の「権現造」社殿の代表的建物として平成22年に国宝に指定された。なお、楼門を入ってすぐのところに五重塔があったが、明治の神仏分離により破却されてしまった(惜しいことをした。)。
家康公は死後も江戸の西方を守っているのだ、と考える説もあるが、本人の意識としては、やはり久能山が南に開けた駿河湾の向こうに観音浄土を見ていたのではないだろうか。表参道の石段を上りきったところから振り返ると、真下に青い海が広がっているのが見える。「久能寺」の山号は「補陀落山」であるが、徳川家康公の遺骸が改葬されたという「日光東照宮」の「日光」は「二荒(ふたら)」を音読みにした「にこう」が元で、これも補陀落=ポータラカが語源だという。


久能山東照宮のHP


写真1:「久能山東照宮」表参道鳥居。石段は1159段ある(上るのは「いちいちごくろー」さんだ、とか。)


写真2:楼門


写真3:五重塔跡


写真4:きらびやかな社殿


写真5:神廟
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補陀落山 鉄舟寺(駿河七観音・その5)

2011-02-04 22:02:20 | 寺院
補陀落山 鉄舟寺(ふだらくさん てっしゅうじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市清水区村松2188。県道198号線(駒越富士見線)沿い、「竜華寺」交差点(清水第四中学校の角)の北西、約300m。駐車場有り。なお、宝物殿入場は有料。
寺伝によれば、推古天皇の治世(在位:593~628年)、秦川勝の子、久能忠仁が有度山に狩に出かけたとき、杉の大木から光を発しているのが見えたので、これを射落としたところ、黄金製の五寸余の千手観音像であった。これを山中の平地(現・「久能山東照宮」の鎮座する場所)の小堂に祀ったのが最初である。養老7年(723年)、行基菩薩が7体の千手観音像を作り、そのうちの1体を「久能寺」本尊とし、再興した。黄金製の千手観音像は、その本尊の胸の中に納められた、という。その後の詳細は不明だが、少なくとも中世には、園城寺(三井寺)末の天台宗寺院「補陀落山 来迎院 久能寺」となっており、最盛時には寺中360坊という駿河国を代表する大寺院となっていた。因みに、1223年成立?の紀行文「海道記」にも当寺の様子が描写されており、「三百余宇の僧坊・・・」とも記載されているので、まんざら大袈裟でもないようだ。また、山号も、かなり古くから「補陀落山」と称していたようで、梵語のポータラカ=観音が住む南方浄土の信仰があったらしい。
当寺も学問道場として有名で、「東国の叡山」と呼ばれ、後の聖一国師(京都の臨済宗大本山「東福寺」開山。1202~1280年)は、5~18歳の間、当寺で修行した。また、文治2年(1186年)には西行法師が鎌倉に下る途中に当寺に立ち寄り、「涙のみ かき暮れさるる 旅なれや さやかに見よと 月は澄めども」という歌を残している。
しかし、永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河国に侵攻すると、当寺を有度山東麓の現在地に移転させ、跡地に駿河支配の拠点として「久能城」を築いた。その後、徳川家康公の支配に移り、その死後は「久能山東照宮」の神境となったため、当寺が元の場所に戻ることは不可能になった。また、武田信玄により、当寺は真言宗に改宗させられたという。江戸時代を通じて存続はしていたが、次第に寺勢は衰え、明治初年の廃仏毀釈によって打撃を受けて廃寺同然となった。これを惜しんだ山岡鉄舟が、明治16年に臨済宗「鉄舟寺」として再興した。
「久能寺」という名は無くなってしまったが、秦氏の創建という伝承があること、観音堂本尊の千手観音像は奈良~平安時代初期のものとされること(静岡県最古クラス)など由緒の古さは確か。また、国分尼寺が衰退した後、書写された「大般若経」が当寺に施入されたことなど、中世には、駿河国で最有力の寺院であったと思われる。また、その「補陀落山」という山号からしても、「駿河七観音」の中心であったことがうかがわれる。


写真1:「鉄舟寺」山門


写真2:境内の山岡鉄舟像


写真3:山上の観音堂(行基菩薩ゆかりの千手観音を祀る。)


写真4:観音堂からの清水港~富士山の眺め
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大窪山 徳願寺(駿河七観音・その4)

2011-02-01 21:55:16 | 寺院
大窪山 徳願寺(だいあさん とくがんじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市駿河区向敷地689。長田北小学校前から南に約300mのところ(案内板あり)から西へ。正面は急な石段の参道で、自動車は右折(北へ)して狭い農道を約1.5km登る。駐車場有り。
寺伝によれば、養老2年(718年)、行基菩薩の開創で、「駿河七観音」の1つが置かれたという。往古は「大窪寺」(山号不明)という山岳密教の寺院で、「扇松平」という、現在よりも更に山の上のほうにあったらしい。しかし、その後の消息は殆ど不明で、康正2年(1456年)頃、現在地の少し上のところ(「大段」)に移転し、曹洞宗に改宗したのが文明8年(1476年)、越渓禅師の入山によるといい、このとき曹洞宗の「大窪山 徳願寺」となったらしい(寺号は「得願寺」とも。)。その後、伊勢新九郎(北条早雲)の妹で、今川氏6代義忠の正妻である北川殿の菩提寺となった(北川殿の法名は「得願寺殿慈雲妙愛大姉」。享禄2年(1529年)没)。
ところで、「大窪山徳願寺史誌」(平成20年9月)に掲載の写真をみると、当寺本尊の千手観音像は坐像である。他の「駿河七観音」はいずれも立像のようであるが、なぜだろうか。これらの仏像は殆ど秘仏で、なかなか実見できないのは残念だ。
さて、当寺は、華やかではないが、禅寺らしい自然な美しさがある。それにもまして素晴らしいのは、当寺からの静岡市街地を見下ろす景観(写真4)である。慶長19年(1614年)、京都「方広寺」の鐘銘事件(大仏殿の梵鐘の銘「国家安康 君臣豊楽」が、徳川家康の「家」と「康」を分断して徳川家を冒涜するものと言いがかりを付けたもの。)のとき、申し開きのため下向してきた豊臣家の重臣・片桐且元が、駿府に入る前に当寺から駿府の動静を窺ったという。因みに、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の「府中」の図は、安倍川の川越えを描いているが、その正面に見えているのが「徳願寺山」である。


写真1:「徳願寺」山門。山門を入ると、山茶花のトンネルができている。


写真2:本堂


写真3:北川殿墓所。北川殿を当寺の開基とする。この墓所は、元は本堂の裏にあったが、平成19年に現在地に移した。


写真4:山門前から静岡市街地を見下ろす。運が良ければ富士山も見える。





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