神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

氷石

2011-09-13 20:40:35 | 名石・奇岩・怪岩
氷石(こおりいし)。
場所:静岡県富士市浅間上町21-9。国道139号線「国久保二丁目」交差点から西に約100m、「泰徳寺」境内。駐車場有り。
「富士山 光照院 泰徳寺(ふじさん こうしょういん たいとくじ)」は、富士地区唯一の時宗寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、創建は天長2年(825年)に空海が開創、弘安2年(1279年)に一遍上人の弟子覚阿了玄が時宗に改宗したとされる。本堂前には一遍上人の銅像も置かれている。
さて、本堂の裏手から書院の庭に回ると、人の背丈ほどの立石がある。これが「氷石」(写真2)で、原田の老人ホーム「鑑石園」前の「鏡石(かがみいし)」、今宮の飯森山の「壷石(つぼいし)」とともに「富士の三石」と言われ、人々の信仰の対象となっていた。即ち、「氷石」は阿弥陀如来、「鏡石」は勢至菩薩、「壷石」は観音菩薩の三尊に当てられていたという。「氷石」という名の由来は、この石が夏でも氷のように冷たかったから、という伝承がある。石が汗のような水滴を付けたともいう。冷たいのは、地下に水脈があり、その地下水で冷やされていたからだとされ、地下水が減った現在では冷たくならなくなってしまったらしい。
しかし、東平遺跡(2011年9月9日記事)が発見されて以来、当寺を含む広い地域が富士郡衙所在地と想定されるようになった。また、当寺付近から布目瓦が出土したとされ、「三日市廃寺跡」と名づけられている。「三日市」というのは当地区の地名から採られたものだが、当地区にはかつて定額寺として「法照寺」があったとの伝承があり、「三日市廃寺」が「法照寺」であった可能性があるとされる。当寺の空海開創という寺伝は、(空海というのは疑わしいとしても)当地に古代に創建された寺があったことを伝えるもので、それが「法照寺」だったということは十分あり得ることであり、富士郡家を支配した当地の豪族の氏寺だったのではないかとも思われる。
そうしてみると、「氷石」というのは、本来「郡石」で、行政上の何らかの標識として機能した立石だった可能性が高くなる。因みに、甲斐国山梨郡の式内社(論社)「山梨岡神社」(山梨県笛吹市)は、社伝によれば、「崇神天皇の御代、日光山高千穂峯(不明、背後の御室山?)に祀ったが、成務天皇の御代、郡境を定める時に、麓の梨樹を伐り拓き神戸を遷して山梨岡神社とした。」とされ、境内にその郡境を示す「郡石」がある。同神社の「郡石」は立石ではないが、官道の分岐点等に置かれたのは立石が多く、当寺の「氷石」は確かにそのイメージに合う気がする。信仰の対称になったというのも、元々は官衙の権威による不可侵が転化したものではなかろうか。


富士市のHPから(ふるさとの昔話:伝法の泰徳寺の氷石)PDFファイル


写真1:「泰徳寺」。正面は本堂


写真2:「氷石」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東平遺跡(静岡県富士市)

2011-09-09 22:37:38 | 史跡・文化財
東平遺跡(ひがしだいらいせき)。
場所:静岡県富士市伝法。東名高速道路「富士」IC付近。復元家屋は同ICの北、約600mのところにある「広見公園」内にある。また、公園西端に「富士市立博物館」(場所:富士市伝法66-2)もあって便利。駐車場有り。
「東平遺跡」は、奈良~平安時代初期(8~9世紀前半)の大集落跡で、少なくとも1km四方の広がりがあり、写真1の高床倉庫のような掘立柱建造物跡が約70棟、写真2のような竪穴住居跡が約300戸、発掘されているという。また、当遺跡からは、「布自(ふじ)」という字が書かれた墨書土器のほか、武器等も発見されていることから、当時の駿河国富士郡衙跡ではないかと考えられるようになっている。因みに、東名高速道路「富士」ICの南、約1.5kmのところには式内社「富知神社」の論社である「富知六所浅間神社」が鎮座している。
ところで、古代東海道は、貞観6年(864年)に(元は富士川の西にあった?)「蒲原」駅家を富士川の東に移したとされる(2011年8月30日記事参照)。その移転先については、諸説あって定まらないが、仮に移転前の「蒲原」駅家が近世「蒲原」宿付近とすれば、JR東海道本線「新蒲原」駅~東名高速道路「富士」ICの間が直線距離で約9kmなので、原則の駅間距離約16kmの半分(約8km)に近い。あるいは、交通に必要な諸資材が調達しやすい富士郡衙付近に移転した可能性も考えられるのではなかろうか。


富士宮市のHPから(富士宮市郷土資料館通信№10)

富士市立博物館のHP


写真1:東平遺跡高床倉庫(復元)


写真2:東平遺跡竪穴住居(復元)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雁堤

2011-09-06 23:45:47 | 史跡・文化財
雁堤(かりがねつつみ)。
場所:静岡県富士市松岡。県道396号線(富士由比線、旧・国道1号線)の富士川に架かる「富士川橋」の左岸(東岸)に「水神社」があり、そこから県道396号線に並行して東に堤が続き、約900mで今度は県道176号線に並行して、「岩本山」(標高193m)下まで北西に堤が続く。この逆「く」の字の堤を、雁(がん)が群れ飛ぶ様になぞらえて「雁堤(かりがねつつみ)」という。
富士川は「駿河」の名の由来ともなったといわれるほどの急流で、その渡河は、薩埵峠越えに続く難所だった。古代東海道については、承和2年(835年)の太政官符によれば、「富士川と相模川(鮎河)は急流で度々難船が起きるので、浮橋を置け」という命令が出ている。「浮橋」というのは筏や舟を並べて橋にしたものだが、富士川の渡河地点がどこであったか、不明である。富士川自体、現在の川筋よりも東を流れていたといわれているが、いくつかの枝川に分かれ、河口の三角州の上を乱流となって位置を変えていたのではないかともいわれている。現在でも、富士川の左岸(東岸)に五貫島、森島、宮島、水戸島などといった「島」の付く地名が多いのは、それぞれが川中の島だったからなのではないかと思われる。それが広い平野となったのは、江戸時代初期に、この地の豪族・古郡氏が「雁堤」という堤防を築き、富士川の川筋を変え、洪水を抑えた大工事を行った結果だという。戦国時代に加島荘籠下村を開いた古郡氏は江戸時代には郷士となり、その当主であった古郡重高が元和7年(1621年)に富士川の治水工事に着手した。その後、家督を継いだ子の古郡孫太夫重政、孫の古郡重年の三代にわたって工事を続け、現存するような「雁堤」が完成したのは延宝2年(1674年)だったとされる。
この工事では、「(松岡)水神社」(写真1)の鎮座する「水神の森」の地下に巨大な岩盤があり、この大磐石を堤防の基礎とした。このとき、この岩盤は川中にあり、富士川右岸(西岸)の庵原郡に属していたが、この工事後に富士郡に属するようになったという。なお、近世東海道では、ここに渡船場があったらしい。
さて、これだけの大工事で、その完成までには相当の苦難があったと推察される。それを示すのが、人柱伝説である。即ち、「今より3百余年前、大水が出て、この堤の辺りが切れそうになった。そのため、領主は人柱を立てて、堤を固めることとした。人柱は籤引で決めることになったが、当たったのは領主の信頼厚い家老だった。家老は潔く人柱になろうとしたが、そのとき、旅の六部(巡礼僧)が代わりに人柱になることを申し出、堤の底に埋められた。」(鈴木暹著「東海道と伝説」(平成6年3月))。籤引ではなく、千人目に通りかかった者を人柱にしたとか、人柱になったのは旅の武士であるとか、異なる伝承もあるが、それが単なる伝説だけではない遺跡がある。「(松岡)水神社」から堤防上を東に進むと、屈曲点に「護所神社」という小社があって、人柱の霊を祀っている。また、その境内に「人柱之碑」もある。


富士市のHPから(かりがね堤と人柱伝説)Flash Player

「日本の川と災害」(河川ネット)さんのHPから(水神社)


写真1:「水神社」(場所:静岡県富士市松岡1816-1)。祭神:弥都波能売神


写真2:「水神社」境内にある「富士川渡船場跡」の石碑


写真3:「護所神社」。祭神:人柱之霊


写真4:「護所神社」境内にある「人柱供養塔」と「雁堤人柱之碑」


写真5:岩本山から見る「雁堤」。「く」の字を連ねたような堤防の跡が見える。現在は「雁堤公園」になっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝・織田信長公の首塚

2011-09-02 22:53:38 | 史跡・文化財
伝・織田信長公の首塚(でん・おだのぶながこうのくびづか)。
場所:静岡県富士宮市西山671。富士川沿いを北上し、JR身延線「芝川」駅付近から県道75号線(清水富士宮線)で北へ約5km。「富士山 本門寺」(通称「西山 本門寺」)境内。駐車場有り。
「西山 本門寺」は、康永2年(1343年)、日代の開山になる寺院で、法華宗興門流の本山。日蓮を宗祖とし、本尊は「日蓮聖人御真筆」とされる。第18代日順のとき、後水尾天皇の姫君常子内親王の帰依を受け、当寺に後水尾天皇の尊牌(位牌)を納めたため、下馬下乗の禁札を門前に立てることを許されたという。
さて、当寺本堂の裏手に「織田信長公の首塚」がある。織田信長は、明智光秀の謀反により、天正10年(1582年)、京都・本能寺で殺害された(本能寺の変)。遺体が発見されなかったこともあって、本能寺では死なずに脱出したのではないかとの説もあるが、「彼(信長)はどのように死んだかは判っていない。・・・毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかった・・・」(ルイス・フロイスの「日本史」(松田毅一・川崎桃太訳))というのが史実のようである。
英雄が志半ばで亡くなるのを惜しむのが世の常なのだろうが、有名なところでは、源義経が大陸に逃れてチンギス=ハンになったとか、信長を討った明智光秀が南光坊天海僧正となって徳川家康公を助けたとか、比較的最近でも、西郷隆盛やアドルフ・ヒトラーにも生存説があった。流石に、信長の場合、生存説には何ら根拠はないが、信長公の廟所・墓所は各地にある。現代人の感覚だと、墓所には当人の遺骨が納められていると思うのが当然だが、かつては故人の縁のある場所などに立てた供養塔も墓所と称するケースが多かった。信長が焼き討ちしようとした「高野山 金剛峯寺」(和歌山県高野町、高野山真言宗総本山)境内にも「信長の墓所」があることは比較的知られているのではないかと思うが、これは供養塔である。一方、「蓮台山 阿弥陀寺」(京都市上京区、浄土宗)には「織田信長公本廟」があり、信長の首が埋葬されているという。これは、信長が生前帰依していた「阿弥陀寺」の清玉上人が、本能寺の変を知って駆けつけたが、既に信長は切腹していた。そこで、清玉上人が首だけを寺に持ち帰り、埋葬したものとされる。後に、豊臣秀吉が、信長の遺骨が「阿弥陀寺」にあると聞いて、法事を行うように求め、法事料として300石の朱印が下されたが、清玉上人が受取りを拒否したため、秀吉は怒り、「龍寶山 大徳寺」(京都市北区、臨済宗大徳寺派大本山)の塔頭寺院「総見院」内に信長廟を建立させた、という。ほかにも、「本能寺」(京都市中京区、法華宗本門流大本山)、「正法山 妙心寺」(京都市右京区、浄土宗妙心寺派大本山)、「神護山 崇福寺」(岐阜県岐阜市、臨済宗妙心寺派)、「高岡山 瑞龍寺」(富山県高岡市、曹洞宗)などにも廟所・墓所がある。また、信長が建造した安土城二の丸跡(滋賀県近江八幡市)にも廟所がある。これは、信長の死後、安土山には埋蔵金があるとの噂が立ち、山に入るものが多かったが、武士の亡霊に襲われて奇怪な死に方をする者が続出した。このため、秀吉が安土山への入山を禁止し、信長の霊を供養するため、安土城に廟所を建てたものという。
さて、長々と書いてきたが、「西山 本門寺」の首塚には次のような話が伝えられている。即ち、本能寺の変で討死した信長の首は、囲碁の名人・本因坊日海の指示により、原志摩守宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ち出し、当寺に納めて首塚を築き、傍らに柊(ヒイラギ)を植えたというもの。このヒイラギの木は、根回り4.6m、高さ17m、樹齢は推定500年という大木(静岡県指定文化財)である。ヒイラギの葉にはトゲがあるのが特徴だが、老樹になるとトゲがなくなるといい、この木にはトゲがない。
上に書いたように、信長の首が埋まっているとは思えないが、黒門前の禁札などにみるように、京都とのつながりが深かったことが窺われる。

参考文献:信長の首塚については、志村有弘著「神ともののけ」(平成11年9月)ほかに依る。


写真1:「西山 本門寺」黒門(写真が小さく、見難くて恐縮)。下馬下乗の禁札がある。ここから、緩やかだが上りの長い参道があり、本堂まで約800m。


写真2:本堂。境内で落ち葉焚きしていて、その煙が漂っていた。


写真3:本堂裏の「信長公首塚」の石碑とヒイラギ


写真4:信長公廟所
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする