神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

日本武尊の足跡石

2011-11-11 23:02:03 | 名石・奇岩・怪岩
日本武尊の足跡石(やまとたけるのみことのあしあといし)。
場所:静岡県御殿場市中清水347にある「山神社」境内。国道246号線「札場」交差点から東に約400m、そこから狭い道を北に少し入る。駐車場なし。
小山枯柴著「駿河の伝説」(昭和18年3月)に、次のような記述がある。「御殿場市中清水の山神社の境内にある巨石は、手洗鉢になっているが、水溜めの窪みは足跡のようで、深さ1尺(約30cm)、大きさも普通のよりも大きい。日本武尊が東征のとき、この石に登り、四方をご覧になった。その足跡が残っているのだという。」(要旨)
現地に行ってみると、正面鳥居から入って直ぐ左にある手水舎の手洗石は比較的新しい加工物で、「足跡石」ではないことは明らかである。そこで、社殿に近づいてみると、向って左手前に注連縄が張られた石が据えられている(写真2、3)。説明板も何もないが、どうやらこれが「日本武尊の足跡石」のようだ。側面に、履の跡のような窪みがあり、上面は小石が溜まっているが、やはり窪みがあり、その形は足跡のように見えなくもない。
もちろん、いかに日本武尊が超人でも、石に足跡が残るはずはないが、似たような伝承のある石は他にもある。こうした石の持つ意味として、一つは、この石がかつて磐座であったのではないか、というものである。磐座とされる石には、上面が平らで、カップホール(杯状穴)という窪みがあることが多い。もう一つは、この石が日本武尊の刻印だとすると、まさに、この地をヤマト政権が押さえた(制圧した)印だったのではないか。意図的にそうしたものとして作られたとも思えないが、そうした意味を持つ石として尊崇された可能性はあるのではなかろうか。また、これまでも(このブログで)出てきたように、日本武尊の東征ルートと古代東海道とは関係が深く、あるいは、当神社も古代東海道の守り神だったのかもしれない。


写真1:「山神社」正面鳥居。祭神:大山祇神。


写真2:社殿前の「足跡石」? 側面に足跡のような窪みがある。


写真3:「足跡石」? 上にも窪みがある。

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駿河国の古代東海道(その12・横走駅)

2011-11-08 23:00:21 | 古道
古代東海道では、近世東海道の三島~箱根ルートは支路であって、本路(駅路)は「長倉」駅(静岡県駿東郡長泉町本宿付近?)から真っ直ぐ北に向かい、足柄峠を越えて相模国に入った、と考えられている。「長倉」駅の次は「横走(よこはしり)」駅であるが、遺称地はない。しかし、「富士山を横に見て走る」という意味から、富士山の東麓と箱根山外輪山の西麓の間を通るルートのどこかにあったことは間違いないとされている。現在も、JR御殿場線、東名高速道路、国道246号線は、このルートを通る。
ところで、天暦10年(956年)の「駿河国司解」という資料に「清見横走両関」とあり、「息津」駅に近くにあった「清見関」(2011年7月20日記事)のほかに、「横走関」があったことがわかる。また、ここでも、菅原孝標女が「更級日記」に「横走関」の様子を次のように書いている。即ち、「横走の関の傍に、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。」。通説では、「岩壷」とは、現在の「駒門風穴」のことであるとして、その付近に「横走関」及び「横走」駅の所在地を想定している。「静岡県史」によれば、「駒門風穴」の約1km北に御殿場市駒門の小字「関家塚」があり、この付近に「横走関」があったとする。この周辺には「堰田」、「堰上」などという小字もあるらしい。では、「横走」駅家はどこにあったのか。「更級日記」は、寛元4年(1020年)に父の上総国司の任期が終わり帰京するところから始まるので、最初は紀行文のようになっているのだが、駅のことは全く記されていない。国司の旅行なのだから、当然、駅路を通ったはずなのだが、どうやら既に駅家の機能は廃れていたらしい。「横走」駅の所在地の手がかりはないのだが、「清見関」と「息津」駅が近くにあったように、「横走関」と「横走」駅家は近接して置かれていたとみるのが自然のようである。こうしたことから、「横走」駅は、「横走関」の少し北で、足柄峠方面(古代東海道の本路)と籠坂峠~甲斐国方面(同支路)の分岐点となる御殿場市柴怒田(しばんた)付近に想定するのが通説のようである。
さて、「更級日記」には、その頃の富士山の様子について、「山の頂のすこし平ぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。」とも書かれている。富士山がなお火山として盛んに活動していたことが窺われるが、この足柄峠越えのルートは、「日本紀略」によれば、延暦21年(802年)5月に富士山が噴火して噴石が足柄路を塞いだので、代替として筥荷(箱根)路が開かれたが、翌年5月には足柄路が復活している。度々の噴火によって、地形も変わってしまったところもあるはずで、こうしたことも古代道路や駅家の調査を難しくしているようだ。


「駒門風穴(こまかどかざあな、こまかどふうけつ)」
場所:静岡県御殿場市駒門69。国道246号線「駒門風穴」交差点の南東、約300m。駐車場有り。


伊豆・駿河観光ガイド『駿河湾★百景』HPから(駒門風穴)


写真1:「駒門風穴」観光案内所少し奥に鳥居がある。


写真2:左側・蚕養神社(こがいじんじゃ、祭神:大気都比売神)、中央・風神社(祭神:志那津比古神・志那津比売命)、右・子安神社(祭神:木花咲耶姫神)


写真3:「駒門風穴」入口


写真4:同。中から見上げる。
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三嶋大社(伊豆国一宮)

2011-11-04 23:06:33 | 神社
三嶋大社(みしまたいしゃ)。
場所:静岡県三島市大宮町2-1-5。JR「三島」駅の南東、約1km。駐車場あり(有料)。
伊豆国はもともと駿河国の一部だったが、天武天皇9年(680年)に分割して設置された。このときまで、駿河国の国府は駿河郡(現・沼津市大岡付近?)にあったが、安倍郡(現・静岡市)に移転したという。そして、伊豆国の国府は田方郡(現・三島市)に置かれた。
三嶋大社は延喜式の神名帳では「伊豆三島神社」(名神大)であるが、創建時期は不明。元は三宅島(現・富賀神社)→下田市白浜(現・伊古奈比命神社)→伊豆の国市(現・広瀬神社)→現在地と遷宮したともいわれる。このあたりは、主祭神とも関連してくるのだが、一説には伊予国一宮「大山祇神社」の分社であるともいい(逆に、「大山祇神社」が当社の分社であるともいう。2010年3月19日記事参照)、また一説には出雲国御穂崎に隠棲した事代主命が海を渡って三宅島に到って鎮まったとされる。前者の説では祭神は大山祇神となり、後者の説では事代主命となる。現在では、この2神をもって「三嶋大明神」と称し、同座として祀っているというが、俗に「恵比寿さん」とも呼ばれており、永らく事代主命が主祭神だったことを窺わせる。
しかし、「三島」というのは、やはり元は「御島」であり、人格的な神ではなく、海底火山の噴火や新島の隆起など「自然の驚異」に神威を感じて祀ったものだろう。駿河国一宮「富士山本宮浅間神社」と同様、噴火などの自然災害がある度に神階が上がっていった、とみられていることもこれを裏付ける。
ところで、現在地への遷座は、平安中期以降に伊豆国の国府の近くに新宮として祀られたことによるといわれている。国府の場所は確認されていないが、かつて当神社の近くに長谷町という地名があった。長谷は「ちょうや」と読み、ここに「庁屋」(=国庁。国府の中枢建物)があったとされる。また、当神社が伊豆国の総社を兼ねていたらしい。当神社の西、約900mのところには、「伊豆国分寺」(2011年11月1日記事)もあり、当神社周辺に伊豆国の主要施設が集中していたようだ。
なお、伊豆国には、古代東海道の駅はない。駿河国の「長倉」駅の位置は不明であるが、仮に現・静岡県駿東郡長泉町本宿付近とすると(2011年10月21日記事参照)、当神社付近(≒伊豆国府付近)まで約3kmと近く、駅を設ける必要がなかったものとみられる。江戸時代になると、東海道は箱根峠を越えるルートとなり、当神社の前を東西に通じている。


三嶋大社のHP

玄松子さんのHPから(三嶋大社)


写真1:「三嶋大社」正面鳥居(大鳥居)。この鳥居前の道路が旧(近世)東海道。


写真2:大鳥居を潜って直ぐ右手にある「たたり石」。「たたり」は「祟り」ではなく、糸のもつれを防ぐ道具であり、当神社前を通る旧東海道の中央にあって人の往来の整理をするために置かれていたものらしい。現在のように自動車が行き交うようになると当然邪魔になり、当神社の境内に移された。交通安全に御利益があるという


写真3:「腰掛石」。神門前の参道脇にある。治承4年(1180年)、当神社に源頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参をした際に腰掛けたとされる石(向って左)。自動車のシートみたいな形をしている。なお、向って右側は北條政子が腰掛けた石という。


写真4:「三嶋大社の金木犀」。樹齢1200年以上ともいわれ、国内で現在知られている金木犀の中で、もっとも古く、巨大なものという。高さ約10m、目通り周囲約4m。国の天然記念物。


写真5:社殿。観光客が絶えない。


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伊豆国分寺

2011-11-01 23:17:30 | 寺院
伊豆国分寺(いずこくぶんじ)。
場所:静岡県三島市泉町12-31。伊豆箱根鉄道駿豆線「三島広小路」駅の北西180m。駐車場有り。
「伊豆国分寺」は、天平13年(741年)の聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺の1つだが、その所在地については、諸説あって一定しなかった。そのなかで、日蓮宗の「宝樹山 蓮行寺」という寺院が国分寺の旧地であると言い伝えられ、昭和31年の発掘調査によって同寺境内から塔址等が発見されたことなどから、所在地がほぼ確定された。発掘調査を行った日本大学教授軽部慈恩氏の推定によれば、講堂・金堂・中門が一直線に並び、約60mにも及ぶ塔は回廊の外、中門の手前の西側にあったとされる(東大寺式伽藍配置)。
「伊豆国分寺」は、平安末期には真言宗の寺院となり、門前の左右に塔頭寺院が並んでいたらしいが、天文年間(1532~1554年)頃、北条氏と武田氏の戦火に遭って焼失。現「伊豆国分寺」は、三島代官・井出正次が慶長5年(1600年)に日蓮宗「蓮行寺」として再興したが、安政の大地震で被災、ようやく大正12年に日蓮宗「称蓮寺」が建立されて、昭和29年に「最勝山 伊豆国分寺」と改称したものという。
現「伊豆国分寺」境内には、塔の礎石8個が東西2列に並べられている。これが塔址の北半分で、南半分は消失している。軽部慈恩氏の推定によれば東西80間(約145m)・南北100間(約182m)という寺域があったされるが、その主要部はむしろ現「伊豆国分寺」の本堂の裏に広がっていたことになる。
ところで、国指定史跡にも指定されている「伊豆国分寺塔跡」だが、肝心の塔心礎がない。塔心礎は、明治23年に造営された小松宮彰仁親王の別邸(現在の「三島市立公園 楽寿園」。場所:三島市一番町19-3)の茶室の蹲踞とされ、後に東京・浅草の宮邸に運ばれたらしいが、その後は行方不明になっているという。


三島市のHPから(伊豆国分寺塔跡)


写真1:「伊豆国分寺」


写真2:本堂。本尊:釈迦如来


写真3:塔址。本堂の裏手にある。国指定史跡。
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