富神明神社(とかみみょうじんしゃ)。通称:おみんつぁま(お明神さま)。
場所:山形県山形市柏倉。山形県道17号線(山形白鷹線、通称「狐越街道」)「山形信用金庫門伝支店」のところから南に入る。約400m進んだところで右折(西へ)、道なりに約1km。駐車スペースあり。なお、途中かなり狭い道路なので、注意。遠回りになるが、「富神山」の北麓、県道17号線から広域農道に入って南下、「富神山」山裾に沿って約1.2km進んだところ(橋を渡ったところ)で左折(南へ)すると、境内の横に出る。こちらのほうがわかりやすいかも。
当神社の由来は不明。神が宿る山として「神体山」という言葉があるが、その多くはピラミッド型をしている。当神社はきれいなピラミッド型をしている「富神山」(標高402m)の南麓に鎮座しており、「富神山(に宿る神)」を祀った神社と考えられている。昭和52年に圃場整備事業に伴って行われた発掘調査によれば、当神社社殿を中心に半径20~24mの環状列石が発見された。そのほかに、石器や土器片なども出土しており、縄文時代後期頃の遺跡とされた。環状列石については、未発掘部分も多く詳細は不明ながら、土坑など埋葬の跡が発見されていないこともあり、祭祀施設と考えられている。なお、当神社の御神体は約1mの木造の男神像で、烏帽子や袍などを着用しており、14世紀頃の作と推定されているという(非公開)。なお、「日本三代実録」貞観13年(871年)条に「出羽国の利神に従五位下の神階を授与した」という記事があるが、一説に、その「利神(とのかみ)」が「富神山」の神であるという。
さて、その「利神」であるが、これがよくわからない。「神」を除くと「利」の1字で、神社の名は好字2字を使うのが普通であるので、珍しいものと言えるだろう。ただ、遠江国式内社に「利神社」がある(現・静岡県掛川市)。現在では「としじんじゃ」と読んで、大歳御祖神を祀っている。しかし、近世には「戸神大明神(とかみだいみょうじん)」と称されていて、志賀剛著「式内社の研究(第9巻)東海道」でも、「としじんじゃ」という読み方は無理で、祭神も大歳御祖神ではなかったのではないか、としている。とはいえ、その由緒が全く伝わっていないため、正しい祭神は?、となると、不詳というしかないらしい。
ところで、「富神山」という名は、単に「トンガリ山」が訛ったものと言われることもあるが、資料によって「戸神山」・「戸上山」とも書かれており、「富神山」として定着したのは明治以降らしい。ただ、「とかみ」という呼び名は一貫している。その名についての有名な伝承は、次のとおりである。即ち、戦国時代、「関ヶ原の戦い」のとき、石田三成方(西軍)についた上杉景勝の武将・直江兼続が徳川家康方(東軍)の山形城主・最上義光を攻撃しようとして、この山に上って眺めたが、山形城には霞がかかって見えなかった。そのまま10日待っても霧は晴れず、その間に石田三成軍の敗北の報が入り、撤退を余儀なくされた。このことから、この山を「十日見山(とうかみやま)」、山形城を別名「霞城」というようになったというものである。いかにも、こじつけくさいが、どうだろうか。「利神」の「利」の字は「鋭利」という単語などに使われるように、(刃が)鋭いという意味もある。そこで、ピラミッド型の尖った山のことを指すのではないか、という説もある(因みに、遠江国式内社「利神社」は平地にあり、その例に当たらないようだ。)。
なお、「富神山」の登山口はいくつかあるが、西麓の「西登山口」(「新道口」)には駐車場もあり、最も登り易い。山頂まで登山道を約35分。
西山形振興会 「西山形の散歩道」HP
写真1:「富神明神社」境内入口。当神社と「窪縄文遺跡」の説明板がある。
写真2:当神社は「富神山」南麓にあり、「富神山」のピラミッド型の美しい姿を仰ぎ見ることができる。
写真3:社殿。扁額は「富神社」。この社殿を中心にして、環状列石が出土したらしい(現在は埋め戻されている。)。
写真4:「富神山」山頂の「山神塔」と石祠。「富神大明神」と「秋葉大明神」が祭られている。
写真5:「富神山」山頂からの眺望(山形市街地方面。写真中央のやや左側の緑が濃いところが山形城跡)
場所:山形県山形市柏倉。山形県道17号線(山形白鷹線、通称「狐越街道」)「山形信用金庫門伝支店」のところから南に入る。約400m進んだところで右折(西へ)、道なりに約1km。駐車スペースあり。なお、途中かなり狭い道路なので、注意。遠回りになるが、「富神山」の北麓、県道17号線から広域農道に入って南下、「富神山」山裾に沿って約1.2km進んだところ(橋を渡ったところ)で左折(南へ)すると、境内の横に出る。こちらのほうがわかりやすいかも。
当神社の由来は不明。神が宿る山として「神体山」という言葉があるが、その多くはピラミッド型をしている。当神社はきれいなピラミッド型をしている「富神山」(標高402m)の南麓に鎮座しており、「富神山(に宿る神)」を祀った神社と考えられている。昭和52年に圃場整備事業に伴って行われた発掘調査によれば、当神社社殿を中心に半径20~24mの環状列石が発見された。そのほかに、石器や土器片なども出土しており、縄文時代後期頃の遺跡とされた。環状列石については、未発掘部分も多く詳細は不明ながら、土坑など埋葬の跡が発見されていないこともあり、祭祀施設と考えられている。なお、当神社の御神体は約1mの木造の男神像で、烏帽子や袍などを着用しており、14世紀頃の作と推定されているという(非公開)。なお、「日本三代実録」貞観13年(871年)条に「出羽国の利神に従五位下の神階を授与した」という記事があるが、一説に、その「利神(とのかみ)」が「富神山」の神であるという。
さて、その「利神」であるが、これがよくわからない。「神」を除くと「利」の1字で、神社の名は好字2字を使うのが普通であるので、珍しいものと言えるだろう。ただ、遠江国式内社に「利神社」がある(現・静岡県掛川市)。現在では「としじんじゃ」と読んで、大歳御祖神を祀っている。しかし、近世には「戸神大明神(とかみだいみょうじん)」と称されていて、志賀剛著「式内社の研究(第9巻)東海道」でも、「としじんじゃ」という読み方は無理で、祭神も大歳御祖神ではなかったのではないか、としている。とはいえ、その由緒が全く伝わっていないため、正しい祭神は?、となると、不詳というしかないらしい。
ところで、「富神山」という名は、単に「トンガリ山」が訛ったものと言われることもあるが、資料によって「戸神山」・「戸上山」とも書かれており、「富神山」として定着したのは明治以降らしい。ただ、「とかみ」という呼び名は一貫している。その名についての有名な伝承は、次のとおりである。即ち、戦国時代、「関ヶ原の戦い」のとき、石田三成方(西軍)についた上杉景勝の武将・直江兼続が徳川家康方(東軍)の山形城主・最上義光を攻撃しようとして、この山に上って眺めたが、山形城には霞がかかって見えなかった。そのまま10日待っても霧は晴れず、その間に石田三成軍の敗北の報が入り、撤退を余儀なくされた。このことから、この山を「十日見山(とうかみやま)」、山形城を別名「霞城」というようになったというものである。いかにも、こじつけくさいが、どうだろうか。「利神」の「利」の字は「鋭利」という単語などに使われるように、(刃が)鋭いという意味もある。そこで、ピラミッド型の尖った山のことを指すのではないか、という説もある(因みに、遠江国式内社「利神社」は平地にあり、その例に当たらないようだ。)。
なお、「富神山」の登山口はいくつかあるが、西麓の「西登山口」(「新道口」)には駐車場もあり、最も登り易い。山頂まで登山道を約35分。
西山形振興会 「西山形の散歩道」HP
写真1:「富神明神社」境内入口。当神社と「窪縄文遺跡」の説明板がある。
写真2:当神社は「富神山」南麓にあり、「富神山」のピラミッド型の美しい姿を仰ぎ見ることができる。
写真3:社殿。扁額は「富神社」。この社殿を中心にして、環状列石が出土したらしい(現在は埋め戻されている。)。
写真4:「富神山」山頂の「山神塔」と石祠。「富神大明神」と「秋葉大明神」が祭られている。
写真5:「富神山」山頂からの眺望(山形市街地方面。写真中央のやや左側の緑が濃いところが山形城跡)