神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

富神明神社(出羽国式外社・その9?の1)

2016-07-09 23:06:14 | 神社
富神明神社(とかみみょうじんしゃ)。通称:おみんつぁま(お明神さま)。
場所:山形県山形市柏倉。山形県道17号線(山形白鷹線、通称「狐越街道」)「山形信用金庫門伝支店」のところから南に入る。約400m進んだところで右折(西へ)、道なりに約1km。駐車スペースあり。なお、途中かなり狭い道路なので、注意。遠回りになるが、「富神山」の北麓、県道17号線から広域農道に入って南下、「富神山」山裾に沿って約1.2km進んだところ(橋を渡ったところ)で左折(南へ)すると、境内の横に出る。こちらのほうがわかりやすいかも。
当神社の由来は不明。神が宿る山として「神体山」という言葉があるが、その多くはピラミッド型をしている。当神社はきれいなピラミッド型をしている「富神山」(標高402m)の南麓に鎮座しており、「富神山(に宿る神)」を祀った神社と考えられている。昭和52年に圃場整備事業に伴って行われた発掘調査によれば、当神社社殿を中心に半径20~24mの環状列石が発見された。そのほかに、石器や土器片なども出土しており、縄文時代後期頃の遺跡とされた。環状列石については、未発掘部分も多く詳細は不明ながら、土坑など埋葬の跡が発見されていないこともあり、祭祀施設と考えられている。なお、当神社の御神体は約1mの木造の男神像で、烏帽子や袍などを着用しており、14世紀頃の作と推定されているという(非公開)。なお、「日本三代実録」貞観13年(871年)条に「出羽国の利神に従五位下の神階を授与した」という記事があるが、一説に、その「利神(とのかみ)」が「富神山」の神であるという。
さて、その「利神」であるが、これがよくわからない。「神」を除くと「利」の1字で、神社の名は好字2字を使うのが普通であるので、珍しいものと言えるだろう。ただ、遠江国式内社に「利神社」がある(現・静岡県掛川市)。現在では「としじんじゃ」と読んで、大歳御祖神を祀っている。しかし、近世には「戸神大明神(とかみだいみょうじん)」と称されていて、志賀剛著「式内社の研究(第9巻)東海道」でも、「としじんじゃ」という読み方は無理で、祭神も大歳御祖神ではなかったのではないか、としている。とはいえ、その由緒が全く伝わっていないため、正しい祭神は?、となると、不詳というしかないらしい。
ところで、「富神山」という名は、単に「トンガリ山」が訛ったものと言われることもあるが、資料によって「戸神山」・「戸上山」とも書かれており、「富神山」として定着したのは明治以降らしい。ただ、「とかみ」という呼び名は一貫している。その名についての有名な伝承は、次のとおりである。即ち、戦国時代、「関ヶ原の戦い」のとき、石田三成方(西軍)についた上杉景勝の武将・直江兼続が徳川家康方(東軍)の山形城主・最上義光を攻撃しようとして、この山に上って眺めたが、山形城には霞がかかって見えなかった。そのまま10日待っても霧は晴れず、その間に石田三成軍の敗北の報が入り、撤退を余儀なくされた。このことから、この山を「十日見山(とうかみやま)」、山形城を別名「霞城」というようになったというものである。いかにも、こじつけくさいが、どうだろうか。「利神」の「利」の字は「鋭利」という単語などに使われるように、(刃が)鋭いという意味もある。そこで、ピラミッド型の尖った山のことを指すのではないか、という説もある(因みに、遠江国式内社「利神社」は平地にあり、その例に当たらないようだ。)。
なお、「富神山」の登山口はいくつかあるが、西麓の「西登山口」(「新道口」)には駐車場もあり、最も登り易い。山頂まで登山道を約35分。


西山形振興会 「西山形の散歩道」HP


写真1:「富神明神社」境内入口。当神社と「窪縄文遺跡」の説明板がある。


写真2:当神社は「富神山」南麓にあり、「富神山」のピラミッド型の美しい姿を仰ぎ見ることができる。


写真3:社殿。扁額は「富神社」。この社殿を中心にして、環状列石が出土したらしい(現在は埋め戻されている。)。


写真4:「富神山」山頂の「山神塔」と石祠。「富神大明神」と「秋葉大明神」が祭られている。


写真5:「富神山」山頂からの眺望(山形市街地方面。写真中央のやや左側の緑が濃いところが山形城跡)
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大ノ越古墳

2016-07-06 23:00:44 | 古墳
大ノ越古墳(だいのこしこふん)。
場所:山形県山形市門伝字大ノ越1119。国道458号線と山形県道17号線(山形白鷹線、通称「狐越街道」)の交差点から県道を西へ約700m。「社会福祉法人やまがた市民福祉会 とかみふれあいセンター」の東側。県道沿いだが、一段高くなっているので、道路からは見えにくい。駐車場なし。
「大ノ越古墳」は直径約15mの円墳で、幅約2mの周溝を備えるが、葺石・埴輪の有無は不明。昭和53年の圃場整備工事中に発見され、発掘調査の結果、墳頂部で上下に2基の組合せ箱型石棺が発見され、この中から単鳳環頭大刀、直刀、鉄剣、工具、馬具、土師器など豊富な副葬品が出土した。築造時期は5世紀後半頃とされ、菅沢古墳2号墳(前項)とともに、現・山形県村山地方で最古の古墳。昭和53年に山形市指定史跡に指定され、出土品も昭和54年に山形県の指定有形文化財(考古資料)に指定されて山形県立博物館に収蔵されている。副葬品の多さ、豊かさは有数のもので、特に環頭大刀は朝鮮半島南部の百済または伽耶で造られた品と考えられている。このように、「大ノ越古墳」は山形盆地全体を支配した有力豪族の墳墓と推定されている。


山形県観光協会のHPから(大ノ越古墳)

山形県立博物館のHPから(大ノ越古墳出土品)


写真1:「大ノ越古墳」。県道から少し入ったところ。西側から見る。道路より一段高いところにある。


写真2:全景


写真3:墳頂付近に石棺の一部が露出している。


写真4:同上
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菅沢古墳2号墳

2016-07-02 23:20:18 | 古墳
菅沢古墳2号墳(すげさわこふんのごうふん)。
場所:山形県山形市菅沢字山崎727-46ほか。国道458号線と山形県道17号線(山形白鷹線。通称「狐越街道」)の交差点から、国道を南へ約1.5km、「菅沢住宅団地」方面へ右折(西へ)、約250m走り、カーヴしていく手前の右側(北側)に「菅沢古墳二号墳入口」という標柱が立っている。その先に上っていくが、すぐに未舗装になり、道も狭いので注意。駐車スペースも無いわけではないが、自動車で行くのはお勧めしない。
「菅沢古墳2号墳」は、山形盆地の南西に広がる標高167mの「山崎丘陵」上に円墳が3基あるとされる「菅沢古墳群」の1つ。1号墳は丘陵の北端にあり、一部削平を受けているが、直径約20m、高さ約2.5mの円墳とされる。2号墳は1号墳の南側にあって規模も大きい円墳であるが、3号墳は2号墳の西側の円墳状の高まりで、古墳とは断定されていないようである。2号墳は直径約51~53m、高さ約5~6mという東北地方最大級の円墳で、2段築成、幅8.3mの周溝があった。1段目は地山の削り出し整形であるが、2段目は盛り土らしい。葺石はないが、下の段の周囲に約1m間隔で円筒埴輪・朝顔形埴輪を立てて並べてあった痕跡がみられた。また、墳頂部の平坦部には、円筒型埴輪等のほか、家形、甲冑型、盾形、馬型などの形象埴輪の破片が多く発見されたという。内部主体は未発掘であるが、木棺直葬の可能性が高いとされる。築造時期は、古墳時代中期(5世紀後半)頃と推定されている。「菅沢古墳群」として昭和44年に山形市指定史跡となり、このうち2号墳が昭和48年に山形県の指定史跡となっている。


山形の宝 検索naviのHPから(菅沢古墳二号墳)


写真1:


写真2:


写真3:
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