猿はハーモニカを手放そうとしなかった。なぜなら……。歩み寄って音量を上げようとすると砂嵐になってしまった。テレビの方式が変わり操作方法も変わってしまったのだ。今度はリモコンを持って元に戻そうとするが、誤って旧式の操作をしてしまう。「ばか」と遠くで兄の声が聞こえ僕はあらゆる操作意欲を失った。リモコンを投げ捨てテレビに近づくと電源を切った。「あら」と遠くで姉の声がした。どこか遠くへ行きたかったけれど、硝子越しに雨音が威嚇していた。窓に映る僕の頭は時を操る科学者のようにくしゃくしゃだった。
2階に上がると雨が少しだけ近づいて、板の間の上に寝転がって雲の厚さを想像した。通路と部屋との境に僅かな段差があって、それが高い壁となって虫たちの進軍を妨げもするが、人間が足を取られることもあるし、小指には痛い記憶が沁みついている。木でできた部屋全体は雨で湿っぽくなり、こうして寝転がっている間にも何かが確かに失われている。そんなことを考えずに済めばその方が楽だったが、考えなしに生きることなんてできない。僕は起き上がって窓を開けた。
「この部屋におばあちゃんでいい?」母の声がした。
飛び出すことをやめて風呂に入ることに決めた。脱衣所のドアは中央に大きな穴が開いていて、勢いをつけたライオンが飛び込んだり、気の利いたお弁当を差し入れたりすることができた。遠くで、話に飽きた父が腕を回したり膝を折ったりしている姿が見える。父は、今にもその穴をすり抜けてこちら側に飛び込んできそうだった。脱衣所の窓は開いたままになっていて、外では作業服を着た男たちが配線の工事をしていた。
「9ミリが欲しい」とおじいさんは言った。
梯子に上ってペンライトを近づける。「ラークですか?」「メンソール」とおじいさんは答える。「気をつけて」おじいさんの足元に光を投げかけた。おじいさんはゆっくりと梯子を登ってくる。兄が通りかかったら、手助けをしてあっさりと問題を解いてしまうだろう。そうなってはまずい。「ありますか?」おじいさんはゆっくりと自販機に顔を近づけ、僕はおじいさんの顔に光を当てた。白く伸びた顎鬚が煙となって梯子の下に流れ落ちて行くのが見えた。「ない」抑揚のない声でおじいさんは答える。僕はもう一度自販機の端からペンライトを走らせた。その時、誰かが入口のスイッチを押した。明かりは打ち上げ花火のようではなく、靴底に染み渡る雨のようにゆっくりとついた。そこは遊園地だった。
「閃いた!」ピーちゃんは片言の言葉をしゃべることができた。
「そのアイデアはいただきだ!」取立て屋が言った。
「お前らは鬼か!」せっかくの思いつきを横取りすると聞きおばあさんが怒った。新しいスイーツが売れればお客さんも増えて店も繁盛するかもしれない。話題が話題を呼んでテレビの取材が殺到するかもしれないし、一気に人気に火がついて全国的なチェーン展開をする話もとんとん拍子で進んでいくかもしれなかったのだから。ピーちゃんがやってきた時は小さな猿で(今でも小さな猿だった)最初は素っ裸だったけれど、今では人と同じように洋服を着ているし、みんなと一緒に働いたり遊んだりする中で人の暮らしにも慣れて、人の言葉を理解したり少しなら自分の意見を口にしたりすることもできるようになったのだ。
「さあ逃げよう!」父がみんなをつれて逃げた。
父を先頭に2人ずつ並んでジェットコースターに乗り込んだ。姉の隣で、ピーちゃんは可愛らしいピンクの洋服を着ていた。早く出せという父の声は、冷静な係員の安全管理によって制御されている。追っ手の姿はどこにもなく、そうでなくてももう満席に近かった。
「大丈夫よ」
後ろからおばあさんの声がした。
「ここにいてもいいんだからね」
ピーちゃんへの言葉を、僕は自分の胸の中にも流し入れた。ゆっくりと、ジェットコースターが坂を上り始めた。
2階に上がると雨が少しだけ近づいて、板の間の上に寝転がって雲の厚さを想像した。通路と部屋との境に僅かな段差があって、それが高い壁となって虫たちの進軍を妨げもするが、人間が足を取られることもあるし、小指には痛い記憶が沁みついている。木でできた部屋全体は雨で湿っぽくなり、こうして寝転がっている間にも何かが確かに失われている。そんなことを考えずに済めばその方が楽だったが、考えなしに生きることなんてできない。僕は起き上がって窓を開けた。
「この部屋におばあちゃんでいい?」母の声がした。
飛び出すことをやめて風呂に入ることに決めた。脱衣所のドアは中央に大きな穴が開いていて、勢いをつけたライオンが飛び込んだり、気の利いたお弁当を差し入れたりすることができた。遠くで、話に飽きた父が腕を回したり膝を折ったりしている姿が見える。父は、今にもその穴をすり抜けてこちら側に飛び込んできそうだった。脱衣所の窓は開いたままになっていて、外では作業服を着た男たちが配線の工事をしていた。
「9ミリが欲しい」とおじいさんは言った。
梯子に上ってペンライトを近づける。「ラークですか?」「メンソール」とおじいさんは答える。「気をつけて」おじいさんの足元に光を投げかけた。おじいさんはゆっくりと梯子を登ってくる。兄が通りかかったら、手助けをしてあっさりと問題を解いてしまうだろう。そうなってはまずい。「ありますか?」おじいさんはゆっくりと自販機に顔を近づけ、僕はおじいさんの顔に光を当てた。白く伸びた顎鬚が煙となって梯子の下に流れ落ちて行くのが見えた。「ない」抑揚のない声でおじいさんは答える。僕はもう一度自販機の端からペンライトを走らせた。その時、誰かが入口のスイッチを押した。明かりは打ち上げ花火のようではなく、靴底に染み渡る雨のようにゆっくりとついた。そこは遊園地だった。
「閃いた!」ピーちゃんは片言の言葉をしゃべることができた。
「そのアイデアはいただきだ!」取立て屋が言った。
「お前らは鬼か!」せっかくの思いつきを横取りすると聞きおばあさんが怒った。新しいスイーツが売れればお客さんも増えて店も繁盛するかもしれない。話題が話題を呼んでテレビの取材が殺到するかもしれないし、一気に人気に火がついて全国的なチェーン展開をする話もとんとん拍子で進んでいくかもしれなかったのだから。ピーちゃんがやってきた時は小さな猿で(今でも小さな猿だった)最初は素っ裸だったけれど、今では人と同じように洋服を着ているし、みんなと一緒に働いたり遊んだりする中で人の暮らしにも慣れて、人の言葉を理解したり少しなら自分の意見を口にしたりすることもできるようになったのだ。
「さあ逃げよう!」父がみんなをつれて逃げた。
父を先頭に2人ずつ並んでジェットコースターに乗り込んだ。姉の隣で、ピーちゃんは可愛らしいピンクの洋服を着ていた。早く出せという父の声は、冷静な係員の安全管理によって制御されている。追っ手の姿はどこにもなく、そうでなくてももう満席に近かった。
「大丈夫よ」
後ろからおばあさんの声がした。
「ここにいてもいいんだからね」
ピーちゃんへの言葉を、僕は自分の胸の中にも流し入れた。ゆっくりと、ジェットコースターが坂を上り始めた。