●飛車をめぐる不思議な攻防
将棋は飛車を取るゲームである。
そう思えるくらいに飛車はやっぱり偉大だ。ゲームの鍵を握っている。実際にはすぐに取れたりしないものだが、取らないにしても「取り」が発生することによって、局勢が大きく動くということが多い。
強いから(偉大だから)、簡単に無視することができない。「取り」に対しては、だいたいが逃げるのだ。すると「取り」は先手で入ることになる。将棋は一手一手交互に指すゲームで、手番は平等に一手一手巡ってくるものだ。素人目にはそのように映ることも不思議ではないが、棋士というのはやたらと「手番」を重視したがる。(形勢判断の要素に含まれることもあるくらいだ)
一手ずつ指しているはずなのに、相手の駒ばかりが活躍している(前進している/増幅している)ような思いをすることはないだろうか。それは自分の手番を有効に生かせていない時だ。将棋は相手との対話だから、いつでも自分の好きな手(価値の高い手)を指せるわけではない。実質的な手番は、一手ずつ平等ではないのだ。
何かが「先手」で入るということは、相手の一手を無力化し、続けて自分の手を指し続けられるという意味合いを持つ。
「将棋は飛車を攻めるゲームかもしれない」
飛車取り(飛車版王手)の先手を取ることによって、好きな位置に駒を置くことができる。場合によっては2手も3手も、4手も5手も、続けて好きな手を指せる。あるいは駒を打てる。
(将棋は飛車を追いながら盤上の駒を増やしていくゲームかもしれない)
そうした局面では、相手は飛車しか動かしてなく(見た目は一手しか動いていない)、自分ばかりが好きに指すことができる。
動いたから(増えたから)すべてが好転するというわけではないが、そういうテクニックが占める割合は小さくないと思う。
飛車手/王手をかけまくることによって盤上を制圧してしまう。そうした夢のような勝ち方だってできる。それも飛車の偉大さなのだろう。
●王手は大いなる手
「王手は追う手」
詰みもみえていないのにやたらと王手をかけては、単に玉を安全な場所に逃してしまう。実際そういったことはよくある。特に時間に追われた時など、着手の逃げ場所として手が王手の方へ自然と動いてしまうこともある。
格言というのはとてもありがたいものだ。
それを知っているだけで役に立つことがある。迷った時は、とりあえず格言に従っておけば、だいたい上手くいくこともある。格言の多くは棋理にかなっているし、広く応用の利くものでもある。しかし、複雑な実戦の中では、常にそれが正しくフィットするというわけではない。ある局面では、むしろ格言の真逆をいく手が最善手であったりする。
例えば、大駒は離して打てと言われるが、近づけなければならない時。桂は控えて打てと言われるが、ダイレクトに打ち込むべき時。金底の歩は堅いと言われるが、底に角を打つべき時。馬は自陣に引けと言われるが、竜を引かねばならぬ時。王手にしても同じことが言える。悪い王手ばかりではない。むしろかけるべき時に王手はかけなければならないのだ。
「王手いいじゃないか」
王手は追う手。玉は下段に落とせ。玉は包むように寄せよなどと言われている。だが、いつもいつも格言にばかり従っていては、いつまで経っても玉を包み込めないという事態も起こり得る。(守る方だって玉を包むようにして守っているのだ)
実戦の終盤で、一度も王手をかけずに寄り形にまで導かれるというケースは希である。むしろ終盤の強い人ほど王手を有効に使っている。時には下段に落とすどころか中段に引っ張り出して、守備駒に包まれないようにして寄せている。
(時には夢でも追いかけ回すのがいい)
王手は攻め方の絶対権利。それを有効な利かしとして用いることによって、寄せの速度を上げることもできるのだ。
(どこで何を利かせられるか。勝負の綾はその辺に存在する)
絶対権利(先手)である王手には、様々な効果が考えられる。
玉を危険地帯に引きずり出す。(守備駒が整う前に)
態度を決めさせる。(応手によって攻め方を選択する)
攻め駒を近づける。
合駒を使わせる。
手順にはがす。
拠点を増やす。
王手Xをかける。
逆王手を用意して玉頭戦を制する。
即詰みがなければ王手はつまらないわけではない。必至へと至る順の中でも、王手は重要だ。どこで王手をかけ、どこでかけないかという選択が寄せの鍵だとも言える。
王手は大いなる一手なのだ。
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