kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

ステイタスとは

2015-08-28 | 陸上競技
思うことを少し。

数年間、様々な場面で指導をさせてもらっている。これに関しては面白い部分もあるし難しい部分もある。一番丁寧に練習をやっているはずの自分の学校もあれば、県合宿や国体合宿のように数日間しかみない場面もある。更には卒業生のようにしばらく直接指導をしていなかったのにまたタイミング良く指導することもある。それぞれの場面で色々と学ぶことがあるのです。

様々な場面で指導をする。今年は県で中四合宿の引き受けのためそこでも指導することになるという話。ある意味名誉なことなのかもしれない。本当は指導したくてもそういう機会を与えてもらえない指導者もいるかもしれないので。基本的に自ら進んでそこの場面に出たいとは思わない。要請があっても断る人もいると聞いている。他者の目に晒される場面となるので「指導方法の評価」を受けることになるだろう。それを嫌だと思うのは当然かもしれない。他県で指導を見たときにそれなりに感じることがあるので、同じように見られるのだから。

大きな場面で指導をする。これによりある意味「地位の確立」というのが成立するのかもしれない。「あの人はすごい」と認められる部分が出てくるから。私自身ははっきりいってどうでもいい。これまた批判されるかもしれないけど。そこにステイタスは一切感じない。誰かに認められるためにやっているわけではないから。管理職志向というのと同じなのかもしれない。私はそういうものに全く興味がない。偉くなろうとか他者から認められたい、人の上に立ちたいという願望は全くない。「スタンドプレーが多い」と言われるかもしれない。他者との調和が取れていないと言われるかもしれない。そうだとしても「大切なものは何か」という部分を自分の中で持ったおきたいと考えている。

教えたくてたまらない。そういうもの感覚もない。誰かに何かを教えて優位に立つという感覚もないから。誰かに何かを伝えてそこで変化があるというのを目の当たりにするのは楽しい。選抜合宿などになると「競技の指導」だけをしておけば良いから特にそう感じる。細かいことをいう必要がないから。クラブチームなどの指導も同様。取り組みの姿勢や生活指導はないから楽だと思う。関わりが深くなればなるほど細かい所の指導が必要になるので軋轢が生まれる。当然のこと。

こういう感覚を他者に求める意味はないと思っている。指導するスタイルが違ったり価値観が違うので。だからこそ私の指導スタイルを貫きたいと思っている。あれこれ言われる可能性はあるが。どこを基準にするかという話になるんだと思う。他者の基準に合わせて指導する事も時として必要だと思う。が、100人いたらやはり求められる所は違ってくる。1人だけを指導して99人を指導しないというのは通常ありえない。が、意欲というか強くなりたいと前面に出してくる選手と受け身で指導を受ける選手を全く同等に扱うのは難しいと思っている。「不平等」だと言われるかもしれないが、逆に何を持って「平等」だとするのか。これはそれぞれの価値基準でしかない。

私の指導を受けたいという選手もいる。逆も然り。特別な場面での指導はあくまで「非日常」でしかない。「日常」の指導の中で何をするかって話になる。「非日常」で指導と「日常」の指導では大きく異なる。合宿などで「指導を受けたくない」と言われてもなかなか難しい所がある。人生の中で一度だけ合宿の練習で最初から最後まで指導に乗ってこない選手がいた。中国合宿だった。これはこれで考えさせられた。コミュニケーションがほとんど取れない中で進めていく感じだったので。本人は合宿中、ずっと絵を描いていた。もっと上手いアプローチができたのかもしれない。

何の話か分からなくなってきたが、様々な場面で指導する事で学ぶ事はある。が、そこでの指導にステイタスは感じない。指導したから認められるという気にもならない。まー特別な事ではなく当たり前の事を当たり前にやっていきたい。

雑文。
コメント
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