碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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「追伸」と書いて、その後をどう続けるのか

2008年10月17日 | 本・新聞・雑誌・活字
番組出演の仕事で札幌に来ている。

かなり涼しい、いや寒いかも、と思っていたら、意外とそうでもない。日中は14度。北海道の秋らしく爽やかだ。

札幌の街なかで、明日18日から始まる映画の看板を見た。「P.S.アイラヴユー」。どんな内容なのかは知らないけれど、タイトルが気になった。

「P.S.」って何だっけ? 意味は分かる。手紙の本文を書き終えた後、付けすことがあって再度書き込む。「追伸」だ。

で、思い出した。「P.S.」って、確かpostscriptの略だったはず。scriptを本文とするなら、その後で(post)ってわけだ。

で、またまた思い出した。今、真保裕一さんの長編時代小説『覇王の番人』を読んでいる最中(飛行機の中もずっとこれ)だけど、その真保さんに『追伸』という作品があった。

この小説、全編が手紙だけで構築されている。そう、かなり野心的な一作。

登場するのは、50年の時を隔てて重なり合う2組の夫婦だ。1組目は、仕事でギリシャへと赴いた悟と、夫についていかなかった奈美子。

二人の間を行き来する手紙からは、一緒にいたときには見えなかった各々の姿が浮かび上がってくる。

妻が隠していたこと、夫が言わずにいたこと。離婚を求める妻、拒む夫。互いを傷つけまいとしながらも、二人は歩み寄れない。

そして驚くべきは2組目の夫婦の手紙である。それは奈美子の祖母父が交わしたものだが、祖母はこの時殺人容疑で煉獄の中にいたのだ。

なぜ祖母はそんな事態に陥ってしまったのか。祖父は何を知り、何を知らずにいたのか。古い手紙に書き込まれた運命の物語は、現代を生きる二人に、また読む者にも鋭く突き刺さってくる。

電子メールは確かに便利だけど、デジタル信号と液晶ディスプレイが作り出す文字たちは、どこか空疎で真実味がないと感じるときがある。本来その向こうに見えるはずの相手の顔も思い浮かばない。

その点、たとえワープロ打ちであっても手紙は違う。手書きなら尚更で、書いた人の息遣いさえ聞こえてくるようだ。

追伸・・・と書いて、その後をどう続けるのか。伝えたい、でも言えない、いや、やはり書こう。なーんて光景を思い浮かべてしまう。

「P.S.アイラヴユー」。やっぱ、見に行こうかな。

追伸
真保裕一
文藝春秋

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