照る日曇る日第656回
長編「女ざかり」を中心に「鈍感な青年」「夢を買います」「墨色の月」「おしゃべりな幽霊」「今は何時ですか?」の中短編小説を集めたすこぶる読み応えのある集成です。
この作家の特色はわが国伝統の私小説に断固として背中を向けていること。その作品のなかにその時々の流行思想や学説を取り入れていること。そしてその文章がつねに温かいヒューモーとウイットに満ちていることで、こういう変則的な要素を3拍子揃えた小説家はこの人だけではないでしょうか。
どんな作物においてもその文章にはどこか女性的な柔らかさがあり、読み進むに従って読者の前にはまるで絵巻物のような面白おかしいプロットが次々に繰り広げられてゆく。ここには西欧小説をお手本にして日本語に翻訳したような物語世界の楽しさが溢れています。
「女ざかり」は新聞社の論説委員をヒロインにした社会小説で、「マルセル・モースにはじまってレビ・ストロースに至る」贈与論の学説が援用されているのですが、私はむしろこういう衒学的な蘊蓄を交えないほうがもっと高尚な純文学になったのではないかと思ったことでした。
当時流行のフェミニズムに塩を贈るような著者の及び腰の視点もちょっと嫌みがあり、私がこの本で一等感心したのは「今は何時ですか?」におけるスケールの大きさと意表をつく構成の妙でした。
こんな意欲的な小説の冒険を目の当たりにすると旧態依然たる私小説が、それが私小説というだけで不勉強な怠け者の落書きのように思えてくるから困ったものです。
なにゆえにかえって親しみが湧くのかしら2箇所ばかり誤植のある本 蝶人