照る日曇る日第718回
とこうタイトルを書いただけで、あの懐かしい温厚な声音が耳元に響いてくる吉田秀和翁の番組をそのまま書物に編んだもの。
あの番組のいわば脊梁部をなしていたウォルフガング・アマデウス・モーツアルトの音楽と生涯について、翁が1980年4月からおよそ7年間にわたって訥々と語り続けた内容が、ライヴCD付きでこれから5巻にまたがって聴けるとはまるで夢のような話である。
本巻では最初期の旧ケッヘル1のクラヴィーア作品から1772年に作曲された劇的セレナータ「スキピオの夢」までが収録されており上流の滑川から下流の由比ヶ浜まで小舟でくだるような気持ちであっというまに読了したのだが、その間たえず彼の美しい音楽が鳴り響いていたことは言うまでもないだろう。
それにしても翁が指摘されているように、1764年に書かれたモーツァルトの最初のシンフォニーk16の第2楽章の後半部の第2部のホルンのパートに、彼の最後の41番の交響曲ジュピターの最終楽章の最後のメロディがすでに登場しているのは、何度聞いても単なる偶然とは思えない。
吉田翁は、「もし僕がモーツァルトについての通俗的な伝記小説を書いたとしたら、この節をライトモティーフに使ったでしょうね」と語られているのだが、鳴呼、ついにこの通俗的な伝記小説が書かれなかったことの無念さよ!
なにゆえに虎は死して皮を遺し、翁は死してモザール夜話を遺したのか 蝶人