照る日曇る日 第1351回
モーセの後釜がヨシュアなんだけど、先輩に比べるとあんまり精彩なく110歳で命終、いや昇天してしまう。「ヨシュア記」なのに、御仕舞ごろには主語がモーセになってしまうのは哀しいが、こころへんは古代の聖書編集者の手抜きと思われる。
んで、前編の「申命記」もそうだったが、「ヨシュア記」になると、神の支援を受けたイスラエルの武力侵略ぶりが物凄い。王様と男だけでなく女子供、ウシ、ロバ、ラクダまで皆殺しにしてしまうが、こんな見境なしの民族虐殺が許されるのだろうか?
読者はほぼ全員がイスラエル側だろうから、痛快無比の領土回復物語!と快哉を叫ぶのだろうが、無宗教で中立の小生などは、読んでいて戸惑い、吐き気がするほど腹立たしい。
ヨシュアを指導者とする武装集団が占領したのは、章末に誇らしげに記されているように、ヨルダン川の東岸西岸はもちろん、北はヘルモン山周辺のアラム地方からエルサレムよりずーーと南に下がって、死海の西岸までの広大な地域なのだ。
その中にはもちろんエジプトに脱出するまでに先祖が住んでいた場所も、一部あるにはあるが、その大半が、別の宗教と文化を守っていた先住民たちの古来からの領地だ。それを文字通り「神懸った」集団が問答無用の通り魔の如く襲い掛かり、住民を皆殺しにして領地を籤で山分けした!というから只事に非ず。ではない。これでは彼らの天敵、ナチのホロコーストに匹敵する恐るべき凶行ではないか。
彼らの故国は「ヨシュア記」にも記されているごとくユーフラテス川の遥か向こう側にあった。それがなんで彼らの神が勝手に約束した土地に侵攻を図ったのか? 宗教的偏向から解放された正気の読者は、まずそのことで躓き、こんな「怒れる=イカレタ神」を担ぐユダヤ教に疑惑の眼を注ぎ続けることだろう。
宗教は一皮むけば狂気なり「愛と平和」を唱えながらも 蝶人