こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

それでいいのだ

2016年09月03日 | あの頃のこと…思い出話

一体全体自分はいったい何のためにこんなことやっているのだろうかと思うけど,運命というか流れというか、そう言ったものにあらがってまで自分の人生を変えていこうとは思わない。

 

今の私に不満はありません。

 

というようなことを、40歳になった頃ある人に言ったら、こっぴどく叱られた。

曰く、君はそんなことに満足しているのか?そんなことでは、君にこの先の向上は無い。

狂ったようにそう言われ、私はうろたえ、ずいぶん落ち込んだ。言われたのが旅先だったので、部屋に帰って一人になったときには、孤独感と相まって自殺しようかとさえ考えたほどだった。ちなみに、言った方は今では何も覚えていないに違いない。

その時はなんとか乗り切ったけど、その言葉はずっと心に引っかかっている。私が、今だにのびないのもそんな”甘え”があるからだろうけど、それを克服しようという気にもならない。たぶん、あの時もそうだったに違いない。結局、やれることというのには限度があるのだ。

 

だが、どうだろう。頑張りにも限度があって、未だに、能力がいまひとつでちょっと足りないせいで、仕事ではあれこれ苦労してる。けれども、なんとかかんとかいっても私と一緒にいてくれる家族はいるし、本当につらいとき手を差し伸べてくれる人もいる。結局、それから一回り(12年)経ったけど、今の私はあの頃の私と何も変わっていない、という意味で、不満は無い。

人間の欲望はきりがない、もっと多くの何かを得るための努力が必要なのかもしれないが、今に感謝し、満足していれば、それでいいのだ。

 

 それでも私にはきついけどね

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祖父母のお出迎え

2016年07月22日 | あの頃のこと…思い出話

お盆でお墓参りに行った。ずいぶん暑い日だった。着いたときには何も聞こえないでいたのだけど、掃除をしているうちに、シジュウカラが機嫌良さそうにさえずり始めた。そのことに気がついた妻が「(コロ)健ちゃんがお墓参りに来たのが嬉しくてさえずっているようね」と言った。ホトトギスの声も聞こえる。

山のほうをみると、そのさえずり声がひときわ高くなったような気がする。

私は祖父母にずいぶんかわいがって育ててもらった覚えがある。私に物心が付いた頃から、東京に出てきた父の家で一緒に暮らしていたけれど、いろいと面白い人たちだった。祖父はその地方では大きな会社を曾祖父から引き継いでいた。先の大戦で、祖父は南方に行かされたり、終戦の年の春まで広島にいたりとかいろいろあったそうだが、一家全員生き延びて故郷に帰ることができた。終戦後、仕事を再開したが、ある知人の保証人となったことで、財産のほとんどを失うことになった。そのことで父もずいぶん苦労をしたようだったが、幸い屋号だけは残って商売を続けたらしい。そこで人のよい祖父に代わって商売をしたのが祖母だった。明治生まれの女性としては珍しく、女子大を出ていた祖母は、水を得た魚のごとく仕事に精を出して、父と叔父の2人を大学まで、卒業させた。

 

その後は比較的早くにリタイアして、あとは店をついだ叔父の店の店番ぐらいをして暮らしていた。その後、東京で医者としてそれなりに成功した父のところで年の大部分を暮らすようになった。2人とも明るく、他人に優しかった。少しつまずいたことのあった私に対しても、「ケセラセラ」と、生きることを言ってくれ、二十歳を過ぎた孫の頭を優しく撫でてくれた。人生、些細なことを気にしてもしかたないということだったのだろうか。戦争とその後の混乱期を生き延びてきた人にしてみたら、命の安全がある程度保証されている現代社会で起きていることなど、たいしたことではなかったのかも知れない。

お花を供えて、お線香を焚き、お墓にをあわせた。そのあと、お墓の向こうの山を見ると、まだ鳥のさえずりが聞こえてくる。そちらの方に向かって「ありがとう、じゃあ、またね」と言ってから、お墓をあとにした。

鳥のさえずりはまだ続いていた.

 いつまでたっても孫は孫

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それぞれの記憶

2016年05月08日 | あの頃のこと…思い出話

高校の同窓会の準備ということで昨日集まりがあった。ただ集まって話し合うというわけがなく、一杯やりながらやっている。昨日も仕事帰りに参加したので、ビールが喉にしみたが、妻にはいつもただの飲み会ではないかと疑われている。それはさておき、今朝は二日酔いで少々頭が痛かった。それでも今日は研究関連の会議がある。なんとか起き出して、ナイトの散歩に行った。



話し合ううち、余興にでもならないかと、学生時代のトリビアを皆で出し合った。すると、意外と自分がいろんなことを間違って記憶していたのだということがわかる。「あの時は俺さぁー」と、話すのを聞くと、いかに自分が都合良く解釈していたかがわかる。さすがに、そう話すのを、「違うよ、それは」などとさえぎるようなことはせず、黙って話しを聞いていた。彼が言うのだからきっとそうだったのだろうし、例えそれがそうでなかったにしても私が困ることはない。


 母の日

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今年のボツ記事 2015

2015年12月30日 | あの頃のこと…思い出話

今年もボツとなってしまったかわいそうな記事たちを。『』内は、書きかけだった文章。推敲も何もしていないので、あしからず。そもそもボツということで、お許し下さい。

スロージョギングの減量効果:スロージョギングをはじめたときに、1ヶ月後に効果があるかを確かめようかと思って書いたのだが、ジョギングをやめてしまったし、効果もなくあえなくボツ。

ダジャレが上手なのは誰じゃ?:いいダジャレを思いついたのだが、恥ずかしくなってボツ。

他愛のない話:『今日の昨日の記事の最後のひと音、「いいこともあったし」のいいこと。」ちょっといいことがあったのだが、照れくさくなった(?)ので、ボツ。

ことわざ辞典:『ことわざ辞典という本があり、アトランダムにページをめくって読んでいる。時々は合点のいく解釈が書いてある。最近気になっているのは“女人と小人は扱い難し”。この本解説をそのまま引用すると「」とある。たしかにそうだと思う。』人の悪口になってしまいそうになったので、ボツ。

お引っ越しの時は誰でもそうよ:『山を出ることを決意したまではよかったが、その先のことをあれこれ考えていたら、ずいぶんと不安になった。「この年で専門を変えるというのは大変かな」と気持ちを伝えたら、「なにを言っているの、誰だってお引っ越ししたら、近所の人がいい人かどうか心配になるでしょう?職場とか、仕事だって同じこと。変わろうと思って変わるのだから、そのことを楽しみにしなくちゃいけないわ」。』妻の名言だったのだが、山を出るだのなんだの、ややこしくなりそうだったのでボツ。

セクハラされる気持ちが少しはわかった:『以前こういうことはセクハラ行為だというなかに、裸の写真を壁に貼るとか、そういったグラビア雑誌をこれ見よがしに机の上に出しておく、なんてことがあった。私はそういうことをした覚えはないが、若い頃は漫画雑誌を電車内で読むのが普通だったので、そういうページを開いたことが絶対に無かったという自信はない。 先日、けっこうガラガラの電車に乗ることがあった。私は横須賀線のベンチシートの』私がセクハラされたような気がしたのだが、ちょっとおかしな話になってしまうので、ボツ。

嘘つきには振り回されないように:『世の中には色々な人がいるが、一番始末に負えないのは嘘つきだと思う。嘘つきは周りの人を平気で利用し、陥れる。新美南吉の物語にというのがあったが、あの中に出てくる君と語り手の主人公は嘘つきと嘘つきに振り回される人との関係そのものだ。まあ、人間誰しも嘘つきの気はあるわけで、自分自身嘘をつかないように気をつけていなくてはいけないし、なまじ調子のいい話に騙されないよう、最後は自分で決めるように生きていなくてはいけない。』嘘つきなど、相手にしないほうがいいだろうと、ボツ。

安全なスポーツを探せ!:『そんなことをいうのであれば、運動会なんてやめてしまえばいいのではないかと思う。体格差、体力差のある生徒が混じって同じスポーツを行うこと自体始めから無理な話なのだ。』運動会での事故が相次いだのだが・・・。現場の苦悩を考えて、ボツ。

それぞれの感じ方:『映画「マイ・インターン」を妻と一緒に観た。テレビCMでは、』中年が観るのと、若者が観るのとではどうかと書こうと思ったが、世代間のつまらない話になりそうで、ボツ。

体育祭の思い出:「運動会の思い出は?」というお題がでたので、書こうと思ったら、『体育祭の思い出、というのを3年前に書いていた。』という訳で、ボツ。

主婦という孤独な仕事:『午後9時過ぎに家に帰り着くと、「おかえりなさい」と妻が笑顔で迎えてくれる。子供たちも相前後して帰ってくる。朝、家人が仕事や学校に出かけ行って帰ってくるまで、妻は家のあれこれ、掃除、洗濯、家計のこと、などなどを一人でやっている。考えてみると、主婦業とはずいぶん孤独な仕事だ。』当たり前のことを書いてもしょうがないのでボツ。

最近の満員電車:『中学高校が試験休み、冬休みに入って、朝の通勤電車の混雑もずいぶん楽になってきた。ここのところ通勤電車で悲惨な目にあうことは少なくなって、これに関する記事も書いていない。スマートフォンのマナーもだいぶ改善してきている。今月は忘年会が試験ストレスが。』冬休みにはいって、のことだが、別に書く機会があるだろうと、ボツ。

源氏物語の読者数:『読書メーターに登録している人数は第一巻から順に、376人、115人、84人、59人、52人、50人、45人、41人、34人、32人となっている。いわゆる“須磨返し”の須磨は十二帖、第三巻に収められている。』源氏物語読破の話は、そろそろいいかとボツ。

 今年はほかにもいろいろありましたが・・・忘れましょう

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強い人たちはもっと強くなる

2015年01月25日 | あの頃のこと…思い出話

全豪オープンテニスで錦織圭選手がベスト16に残った。トーナメント大会後半のことをセカンドウィークという言い方をするようだが、似たような思い出が私にもある。

不肖コロ健、中学1年から大学卒業までバスケットボールをやっていた。中学、高校のチームはそれほど強くなかった。後輩達には関東大会まで進んだ代もいるのだが、地区大会を勝ち抜けたら御の字で都大会などとても無理だった。大学は医歯薬学部の大会なので、インカレレベルには到底かなわないのだが、そのなかでも、私の入学当初は弱かった。だが、学年が進むにつれて私たちのチームは強くなった。同期にバスケットボール経験者が何人も入って、一つ下にでかいのが何人か入り、その下に例の氷雨そして、その下にとてつもなく強い奴が入って黄金時代を迎え、数年続いた。

そして、そこで知ったことがあった。勝ち続けるといつまでも試合がある。それぞれの大会ごとに最後の試合までやって、私たちのチームはどんどん強くなった。相手も強いので、決勝とかで負けたりもしたが、いずれにしても私たちは試合をすることで強くなった。

不遜な言い方だが、中堅レベルのチームとの差が、大会ごとに開いていくのを実感した。

 

錦織圭選手は去年から、参加するトーナメントでは決勝の常連となってどんどん強くなって、ツアーファイナルにまで出場した。多くの強豪と試合をすることによって、ますます強くなっている。彼にとっては、今の状態は”快進撃”ではなくて、”進化”しているに過ぎない。

これから、彼が試合ごとにどんどん強くなっていくのがとても楽しみだ。

そして、一流のところにたどり着いたところから、さらに一流を超えていく。超一流とは、そういう限られた人たちだけが到達しうる境地なのだろう。


暗いニュースが多い中で 
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ずいぶんとカラオケに行ってない

2015年01月15日 | あの頃のこと…思い出話

今日は昼前から雨。冬なので当然冷たい雨、氷雨である。

氷雨といえば、日野美歌の、”飲ませてくださいもう少し♩”だ。学生時代、カラオケでいつもそればかり歌わされている奴がいた。バスケットボールのとても上手な奴で、私たちが(医学部のなかではあるけれど)、強豪チームでいられたのは彼のおかげだった。そんな奴だったのだが宴会は好きだったが、歌にはあまり興味が無く、氷雨を誰かに勝手にリクエストされて、 帰りたくないなら帰らないでいいし、飲ませてくれと言うなら飲めと、飲まされていた。

部活ではそれぞれ持ち歌のようなのがあったが、私自身は、替え歌中心だった。ブルーハーツのトレイントレイン、爆風スランプの大きなタマネギの下でとかコンプレックスの恋をとめないでなどを叫いていた。アンルイスの六本木心中などはずいぶんひどい替え歌だった。ほかにもいろいろあったが、だいぶ忘れてしまった。

中にはあの飲み会は楽しかったと、今でも覚えているものもある。たぶん参加者のほぼ全員が楽しかったのだろう。人生にはこういう種類の良い思い出というのもある。

そんなカラオケだが、もう何年も行っていない。あの頃のパワーで歌うのは今さら無理だし、一緒に騒ぐ気の若い友人もいない。集めようと思えば、そういうメンツも集めることもできようが、そうまでして自分の馬鹿をさらけ出すのも気が引ける。

 

帰りはほんとに氷雨だった 
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今年のボツ記事 2014

2014年12月29日 | あの頃のこと…思い出話

今年もこの記事がやってきた。今回で3回目。

在庫一掃、というわけではないが、お蔵入りしてしまった記事の数々…今日の時点で60近くあった。

カテゴリー別に整理すると。セミコロンのあとにある文章は書きはじめの一文。何も書いてないのは、題だけだったものです。

”病理のこと”

病理医による若い臨床医の指導;不肖コロ健のところにも、病理の勉強に若い医者がやってくる。

マスクのサイズ;この間、感染性の検体を処理することになって、N75という感染対策用のマスクをつけることがあった。

素晴らしい技師さん;手術を見ていると看護師さんがハサミとかメスを外科医が出した手に掴ませるように差し出す。学生のときその動きを見てずいぶん驚いた。テレビドラマでも同じような場面をよくみる。

可愛い後輩;かわいい、といっても見た目は中年の立派なおじさんなので何とも言い難いのだが、やっぱりかわいい後輩の送別会を昨晩開いた。

後継者探し;いろんな施策を打ち出しているものの、病理医の数はなかなか増えないでいる。その数少ない病理医の多くは臨床の場で消耗、疲弊している。

自分に1番厳しいのは自分;この間、ある発表の予演会で、あまりうまくできなかったことを上司に謝った。

プレゼンテーションのコツ;こういうテーマのハウツー本は世の中にあふれるほどあって、不肖コロ健も何冊か買って参考にした。だが、そういうプレゼン本、何かが足りないといつも感じていた。

アリの一穴:感染症はまさにアリの一穴を突破してくる。

もう少し、自分で勉強してよ;病理に丸投げの臨床医というのは、多い。

迅速病理診断と昼食

病理解剖について考える(1)

・・・死者との対話(2)

・・・臨床病理カンファレンス(CPC)/死者から学ぶ(3)

・・・病理外来/死者を受け入れる(4)

・・・おわりに(5)

病理医をめざしたわけ(2)病理医をめざしたわけ 1 があるのに、2が無いことに、先日記事を書いていて気がついた。そこで、二つめの理由を記事にしておこうと思う。

STAP細胞論文の感想(3)・・・問題を巡るすれ違い

”医療を哲学的に考える”

医療を哲学的に考える(17)・・・STAP細胞論文と医療;STAP細胞に関する論文について、これまで2度書いてきた。

医療を哲学的に考える(18)・・・このテーマ次のステージに;このテーマ、次のステージに進もうと思う。
哲学的に考えるということを行ってきたが、これまでの工程は「医療という概念が具体的にどのように使われているか」の整理であった。

”私の半世紀”

忘れたいこと、忘れてはならないこと、忘れたくないこと。(1)、(2)(3)・・・とあるのだけど、何も書き出しがない。なにを書きたかったのだろう???

“あの頃のこと”

同人誌に書いていたこと・・・高校時代の話だが、これまた何も書いていない。

思い出の上書き

若かりし頃

”女性に優しい社会とは”

私にとっての女性とは;もう、6年も前の記事になるが、死んだ祖父に「お前(コロ健)には女難の相がある(ので、女性には気をつけるように)」といわれたことを書いたのを先日もコメントで思い出させていただいた。

女性に甘えるのならそれなりの対価を;基本的に女性は男性に対して甘い。これが母性といわれるもののせいなのか、男性へのあきらめからなのか、男性からの逆襲が怖いからなのかはわからない。

”生き方について考えてみる”

いまさらやっても仕方がない;最近、哲学関連の本を読むことが多い。もともと、不肖コロ健、哲学者になりたいと思っていたこともあって、この分野の勉強には興味があった。それに「医療を哲学的に考える」を書くため、多少は専門的な知識も必要だったということもあった。
人生は一度きり

なぜ、死ぬことは怖いのか;なぜ、人間死ぬのが怖いのだろうか。これまで、その理由がわからなかったのだが、最近、その一つがわかった。

”いじめとタバコと飲酒”

日本(だけ)をダメにしているもの;ギャンブル依存症の人の割合が、5%、男性に限りいえば9%近くに上るとの報告があった。これに不肖コロ健のような元ギャンブル依存症の人間を加えたら、日本人の2割ぐらいが、さまざまなギャンブルの被害を受けているといえる。

飲み会が嫌い;最近、酒が弱くなった。特に、飲み会がだめだ。

”家族”

あー言えば、こう言う。;今日は犬のエサにもならない、夫婦の話。

”妻の名言”

一緒に食事ができるのもあと少しなんだから;疲れて家にたどり着き、風呂を済ませて、配膳を少々手伝ってから、食卓で待っていると息子がいなかったりする。

優秀な人は時間の使い方も上手だから

”物語”

人の流れは砂模様(上);この間、三十分寝坊してしまった。目覚ましをかけ忘れていたようだった。

人の流れは砂模様(中);次に来たのは急行列車だった。遅刻の身としては一分一秒でも早く行きたい。ただでさえ乗り換えのために時間がかかっている。五6分頑張れば何とかなる。

人の流れは砂模様(下);もちろん駅からはバスに乗った。かろうじて遅刻せずに済んだ。

どんな話だったのだろう・・・。

”料理レシピ”久々のレシピだったのだが。

ミカンのソース;幼稚園ぐらいの男の子がお母さんとしりとりをしながら歩いていた。「み」から始まる言葉で、男の子は「ミカンのソース」と言った。

”電脳化社会”

実はいつも暇なだけなのか;歩きながらスマホ、というか、スマホしながら歩き、どっちでもいいがとにかくそんなことが問題になって久しい。携帯電話、携帯ゲーム機も同じようなものだが、面倒なので、ここではスマホ(スマートフォン)にしておく。

”通勤”

難所

 

最後は”こんきも”

狭い世界;大学受験では、理系学部、とくに医療系学部の人気が高いそうだ。景気回復が遅れ、安定した就職も望みにくいとなれば、手に職を持って、一生安泰にと考える若者がいてもおかしくない。

古老の消失;宇宙の始まりがいつなのか、なぜ人と人とのいさかいは絶えないのか、といったわかないことは沢山残っているが、インターネットの発達で、今知り得る知識の九割方は五分以内に人よりも多く得ることができるようになってしまった。

日本維新の会の分裂と石原慎太郎という人;このブログで、石原慎太郎という人に触れた記事は5つあった。

OBとかいう人たち;先日、わが母校(医学部)のバスケットボール部の試合が横須賀であるというので、久しぶりに応援に行った。この大会30数年前の現役の時、一度優勝したことがあり、不肖コロ健の輝かしい青春の一ページを彩ってくれる懐かしいものだ。

人間、個人個人の利害が一致することはない;一つの国に王様は二人いることはできない。

それでも言うべきか;先日、仕事を終えて病院の玄関をでたら、いきなりタバコの煙りが顔に当たった。暗闇に目を凝らしてみると、お見舞いのカードを首からかけた人物が立っていて、手の先には赤い火が灯っている。

格差社会と希少動物;時々寝付けない夜があるが、そんな時の原因の一つに自然破壊についての心配がある。

一人というのはヒマなもの;昨晩、妻は友人達との集まりで、息子はバイトで、、娘は塾で、と、みんなが帰ってきたのは午後10時過ぎだった。

暇なのか、忙しいのか。;医局を見回すと、いつもいる医者がいる。

頭のいい人の口癖;なるほど、という言葉、言いたくてもなかなか出てこない。

頭のいい嫌なやつの人の口癖(1)「そんなことも知らない」

いつもと違う音;このあいだ、役所に行く用があって、午前中年休を取って行った。

ゲームをやってる人の顔;隣のおじさんがスマホでゲームをやっている。私はテトリス世代なので、ゲームに中毒性があるのはわかる。おじさんは一生懸命人差し指を左手に持つスマホの上をすべらしている。その動きは、まるで指揮者のようだ。ネコだかなんだかわからないがいろんな星が瞬いている。

スポーツの神様の祝福;九州場所で、大相撲、横綱白鵬が大鵬とならぶ32回目の優勝を飾った。

紹介文を変えました

そのまま師走で心機一転;土日に九州で学会があり、十分に休みがとれないまま月曜日を迎えた。休むべきときにはきっちり休んでおかないとあとでそのつけがくるのであまりよくないのだが仕方ない。風邪からの体調の回復も今ひとつといったところ だ。だが結局そのまま師走に突入。今月のカレンダーを見るとうんざりする。

やっぱり蒸しタオル;床屋に行った。今年最後の散髪だ。

 

それにしても今年も、いろいろ考えかけたものです。

サッパリ削除して、新年を迎えます 

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私にとっての成人式

2014年01月15日 | あの頃のこと…思い出話
30年前の今日、すなわち1月15日、私は家からは少し離れたところにある区の体育館で開催された成人式に出席した。昔は1月15日が成人式だった。
その日も今日のような曇天だったと記憶している。
12月生まれの私は二十歳になったばかり、一浪して医大に入って迎えた初めての冬だった。



あの頃の私、とても人にお話しできるようなことは何一つ無い人間だった。

乱暴で、怠惰で、世間知らず。
大学の講義を馬鹿にし、タバコを吸い、酒を飲んで騒ぎ、無謀な運転をした。
もちろん、それだけではとどまらず、多くのことで多くの人に迷惑をかけ、心配をかけた。



昨今話題になる、成人式の会場で暴れるようなことはしなかったが、すべてが自分を中心に回っていると考えていた点で、本質的には彼らと違うことは無い。
最近では”やんちゃ”などという、小学校低学年児に使うような言葉をまとって好き放題をする20歳前後の若者さえいるようだが、私もたいして変わりない。

私にとって成人式はその頃のことを思い出させてくれる、私の人生のメルクマールとして重要な意味を持っている。



こんなんだったら、成人式なんてやらなければいいのに、というように考えることもある。
だが、20歳という人生の第二の門出の時のことを、30年後に思い出し、それをどう考え、見直すか、という意味で、成人式という行事の存在そのものは悪くはないと、今では思える。したがって、成人式は存続させるべきものだと考える。

はたして、30年経って、自分は変わったか、それとも変わってないか。
いずれにしても、成人式はわずか20年の節目。私はそれからもう30年生きている。

落ち着いたのはいつ
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私の半世紀(小学校まで2)

2014年01月05日 | あの頃のこと…思い出話

小学校時代、勉強の方はまずまずだったが、最後まで一番にはなれなかった。
常に一クラス40人中の4、5番ぐらいだったので、たいしてできる方ではない。地元のできる子が一人ぐらい上にいたが、それ以外だと社宅にすんでいる子がよくできた。
みんな転校生で、教育熱心な家庭の子がいきなり私より上位にくるので、けっこう参ったのを思い出す。一応、地元生扱いをされていたのか、10年ぐらい前にクラス会で、「健ちゃん、地元としてよく頑張ってたよね」などと商店街出身のクラスメイトにほめられたことがあった。卒業時によくできた男子3人がいたが、3人とも東京大学に進学したのを、後に週刊誌発表の合格者名簿をみて知ったときには、妙に納得してしまった。



低学年の頃は、そろばんを習っていたが、全く上達しなかった。私はその頃から自分が理系脳ではないことをうすうす感じていたが、全くそれが原因だと思う。そして、そろばんをして理系脳が培われるかといえば、少なくとも私には全く無効で生涯文系脳で過ごすことになった。
4年生の終わりから、厳しいことで有名な地元の寺子屋式の塾に通いだした。当時はまだ、日本進学教室、通称日進が中学受験を制していた。私も日進の日曜教室に通っていたが、その塾には日進の成績上位者の常連がたくさんおり、並の成績だった私は肩身の狭い思いをしていた。
足の引っ張り合い、というか成績のいい奴が下位の人間を馬鹿にする、というのもそのときに学んだ。国語とか社会科でときどき良い成績を取ったりすると、大げさに驚かれたりしたことを思い出す。小学生をあのような過酷な状況に陥らせる中学受験というシステム、なんとかしないといけないのではないか。



中学受験では祖父の世話になった。応用自在とか自由自在といった受験参考書を読み込み、ずいぶんと一緒に問題を解いてくれた。残念ながらプロの教え方とはずいぶんかけ離れていたが、一生懸命教えてくれたことだけは今でも覚えている。
そもそも私のことをかわいがりすぎていたのだろう、叱られたことはほとんどなかった。一度だけ、あまりにも不真面目な学習態度だった私のことに、祖父の堪忍袋の緒が切れたことがあった。そのとき、祖父は怒ってコップの水を私にかけた。ほんの、コップ1杯のことだったが、祖父はのちのちまでそのときのことを後悔していたらしいと母が私に教えてくれた。



中学受験はといえば、第一志望の中学校は偏差値が届かずあきらめ、当時伸びていると評判になっていた学校を受験し、無事合格した。
合格後の成績をみると、それは無事ではなく、ギリギリだったことが明らかになるだが、中学(男子校)入学後の話は、また後日。

 


私の半世紀(小学校まで1)

2014年01月04日 | あの頃のこと…思い出話

私の半世紀といって、ここにすべてを赤裸々に書き記すことはためらわれる。
今でこそボチボチ落ち着いているものの、私も人生山あり谷ありできた。それも相当な振幅だった。
いつまで生きていられるのかはわからないが、将来ほとんどすべてを語ることができるようになったときに細かいことを忘れていると困るので、下書きというか備忘録のようなものだが、書いておこうと思う。



私は父の仕事の関係で海外で生まれた。当地の言葉がマスターできれば良かったのだが、3歳になる前に日本に来たので残念ながら何も覚えていない。日本に来る前に弟が生まれた。弟はダウン症だったが、そのことを父は母にすぐには伝えなかったらしい。ダウン症の子は顔を見たらすぐわかるが、当時はまだ知らない人の方が多かった。母は弟がダウン症だということを日本に帰ってしばらくしてから知ったらしい。

日本ではほぼ、東京で育った。幼稚園のころ、父のノミをいじっていて、誤って左手の手首を切ってしまった。いまでもその傷を縫った痕が残っている。私はこの後、よく怪我、病気をした。
小学校に上がる前、近所の小学校の校庭で逆上がりの練習をしていたら、落ちて鎖骨を折った。骨折はこのあと、数度あり小学校5年の終わりは、死にかけるほどの大けがをした。
これは、春休み前、というか卒業式前に6年生を贈る言葉、というものの練習を校舎の屋上でしていたが、小学生らしく、終わったとたん我先にと教室に戻る階段に駆け戻った。通常は、そのまま階段を駆け下りる(これだけでも十分危険)のだが、私は階段を駆け下りる級友を出し抜こうと、階段の手すりにまたがって滑り降りることとした。あいにく屋上は最上階であり、階段の手すりは上が無かった。
私は、手すりにまたがるどころか向こう側へと落ちたのだった。
気がついたら、救急車の中で、頭蓋骨の一部にひびが入っていたほか、鎖骨骨折、骨盤骨折を負い、九死に一生を得た。
この大怪我のこと、友人たちはよく覚えていて、クラス会で会うたびにネタになり、からかわれる。

今でも胃腸は強くない方だが、小さい頃はよくおなかを下していた。入院も何度かして、病院の冷たいおかゆがまずくて、おかゆ嫌いになってしまった。ホタテを食べて肝炎に罹ったこともあった。

肝炎といえば、小学校で肝油を売っていて、一度だけ買ってもらったことがあった。一晩で、全部食べてしまって父にずいぶんとしかられ、母は心配したが、結局なにごとも起こらなかった。



小学校時代の思い出は野球が下手だったこと。小学校低学年のころは鈍足だったのが、高学年になってやたら俊足となったこと。
友人の一人が脳腫瘍で亡くなり、体育の授業をいつも見学していた心臓病の色の白い子がいたことも思い出す。

私の通っていた区立の小学校の学区域には、社宅が多く、それとともに、商店街あり、古くからの住宅街あり、私のようなよそから引っ越してきた者ありと、学校にはさまざまな生徒がいた。私の家は小学校まで3、4分ととても近いところにあり、雨が降っても濡れて帰ることができた。
小学校時代の親友は一人。今ではほとんど音沙汰ないが、元気だということは他の仲のいい何人かの友人から聞いている。今住んでいる家は、仲のよかった友人の一人が某ハウスメーカーに勤めていて、そこに頼んで建ててもらった。

仲のよかった友達、とくれば初恋とくる。こないかな・・・。

コロ健の初恋の相手は、小学校一年のときのクラスメイト。
目のくりくりした、ペコちゃんのような笑顔のかわいらしい子だった。お父さんの仕事で2年生になるときに転校していってしまった。
その後、数名の女子に淡い恋心をもったものの、恋が成就することはなかった。
こののち、男子校に進学したコロ健が暗黒の時代へと突入したのはいうまでもない。



まだまだ、小学校時代の思い出というのはあるのだが、一回の記事では書ききれそうにない。
遠足で訪れた鎌倉由比ガ浜で波に足を取られてずぶぬれになってしまったこと、とか、学芸会でアリババと40人の盗賊の劇をやったとき、私はアリババで、好きだった女の子は姫でアリババをクラスの二枚目がやっていたこと、とかある。

先生もいろいろいらっしゃった。

きりがないので今日は、このくらいにしておく。


懐かしさと気恥ずかしさと後悔と感謝

2013年12月30日 | あの頃のこと…思い出話
車の故障で、修理の間その代車を使っている。この車にはカセットデッキがついていて、久しぶりに昔のテープを聞いて楽しんでいる。
なぜ、代車のカセットデッキかといえば、気がついたら、カセットテープの再生装置がわが家からなくなっていたからである。
ちなみに、ベータとか、VHSのビデオテープもわが家ではすでに再生できなくなっている。



さて、私の高校の同期はわりと仲が良いのだが、私のクラスはなかでも仲が良くほぼ毎年クラス会を開いてきたほどだ。
現役時代ももちろんそうで、卒業記念”声のアルバム”のようなものを作った。(クラスの文集というのもある)

その、声のアルバムのカセットテープ2本がこの間、荷物の整理をしていたら出てきた。どこかで聞けないかと思っていたら、この代車がやってきたわけで、ちょうど今日、一人で運転しながらそのテープを聴くことができたのだ。



卒業してしばらくたって一度か二度聞いたが、浪人したせいもあってそれ以来30年近くは聞いていなかったように思う。
当時のヒット曲をバックに、クラス全員、一人一人の声が入っている。教室で録音しているので後ろには他のクラスメートの騒ぎが聞こえるし、余計なちゃちゃ入れするような声も混じっている。

声の主がわかるやつもいれば、まったくわからないやつもいる。
懐かしいと同時に、そのころの皆の青臭さが気恥ずかしくもなる。
私の場合、子供っぽく不真面目な人間だったので、他のやつの邪魔をしたり、くだらないことをしゃべっていたりで、穴があったら入りたいほど。もう少しちゃんとしていればと後悔しきりである。



卒業以来あっていないやつもいれば、もう鬼籍に入ってしまったやつもいる。
懐かしさで涙でも溢れてしまうかと思ったが、そうでもなかった。私の涙腺はあの頃よりずっと堅くなってしまったようだ。
あの頃のことを思い出して、血が騒ぐといったようなこともない。

最後には、先生方からのメッセージがあった。やっぱり、あの時から先生は先生で、未だに僕らは子供のままのように思える。
先生方の声の若さに笑ってしまった。

今にして思えば、大学受験のくそ忙しいときに、このテープを作ってくれた友人に心から感謝する。




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今年のボツ記事 2013

2013年12月29日 | あの頃のこと…思い出話

今年のこんきも、いろいろあった。
6月に1,000日連続での投稿を果たすことができたが、その反動か、後からずいぶんテンションが下がってしまい、先日あたりは"少し休みます"などともう気力が続かなくなりそうに、弱音も吐いてしまった。
それでも、温かい励ましのコメントもあり、しばらくというのも一日でおわり、ボチボチ続けさせていただいている。何よりも大事なことは続けることである。
まあそうはいっても、1年を通じてみれば書きたいことは山ほどあったようで、振り返ってみれば今年も多くのボツ記事が生まれた。



医療関係として今年は”医療不信について考える”というタイトルで、いくつか書いてみようと思っていた。
(1)”原因を明らかにしないで済む医療”
(2)患者さんは本当のことが知りたいだけ
(3)傲慢な医者は日本の歪んだ教育の産物か
(4)病理医のみなさん、楽しく仕事をしていますか?
(5)おわりに
それぞれ、バラバラに途中までは書きかけていてるのだが、さすがボツ記事、どれも今ひとつしっくりこない。語り手がひがみっぽくなったり、攻撃的であったりすると、読む気にならない。

ちなみに、”医療を哲学的に考える”シリーズは、尻切れトンボにはせず、年が改まっても続けるつもり。書きかけた記事があるのだが、これはボツにしたほうがいいだろう。
タイトルは”患者はあなたのものではない”、”医療者の立場から”そして”医者は理系か文系か”というようなもの。どれも、つまらないことを言いかけて、途中で続かなくなっている。
やっぱり、一度ご破算にした方がいい。



さて、これらとは別に、前々から書きたいテーマというのはあった。それは、”恋愛論”。
「人を愛すること」と題して、1年かけて書こうと計画していた。そのタイトルは
7月 愛はどうしてはじまるのか・・・初恋を覚えていますか?
8月 愛情はなぜ薄れるのか・・・倦怠期という言葉でごまかしてはいけない
9月 結婚はなんのためにするのか・・・あらたな二人の愛のために
10月 不倫はなぜ”不倫(いけないこと)”なのか・・・生物学的な観点から
11月 男性の愛情・・・なんで美人に弱いのか
12月 モテキとは・・・生きていればそういうタイミングもある
1月 男女の間に友情は存在するか・・・職場の異性との関係を含めて
2月 愛に年の差は関係あるか・・・年の差婚から始まる二人の人生
3月 親子の愛1 親からみた子供への愛
4月 親子の愛2 子供からみた親への愛
5月 これまでの記事を振り返って
6月 愛することと生きること

うーん、どれも興味深いが、これほどのタイトル、一日2、30分で書けるような話ではない。
企画倒れに終わってしまった。

このあと、「浮気をしてもいいけれど」というタイトルで、3回で終える、各論的な話を組んでみたもののこれもうまくいかなかった。
やはり、ボツである。



まだまだボツ記事はある。なんせ、今日現在で40タイトル以上が草稿のまま。

カテゴリー別にタイトルだけ挙げると、
こんきも・・・”大嫌いな人”、”時間の作り方・・・時間貯金”、”表現方法の違い”、”公訴時効と心の時効”、”個体差”、”美輪明宏の回答とこんきもへのコメント”、”日本(および世界)の脆さ””我が子のことのように”。
生き方について考えてみる・・・”表現方法の違い”、”メンターに頼らない人生”、”発生学的見地から考える人間の心と体”、”なぜ、女性を差別してはいけないのか。”、”ストレスで心を折らないで”。
通勤・・・”女性に道を譲ってみた”、”足が止まるとき”、”私の富士山ポイント”、”マナー違反にはペナルティーを”。
電脳化社会・・・”それぞれのブログ”、”ブログもやれば棒に当たる”。
あの頃のこと…・・・”切手収集が子供のたしなみだった頃”(逓信総合博物館が終わってしまった!)
読書・・・”読書自粛”
コロ&ナイト・・・”コロの家出”
病理のこと・・・”専門を早くに決めすぎ?”、”そもそも医療費とはなんなんだろう?”



よくもまあ、これだけつまらないことを考えて、書きかけたものと思う。今日、その書きかけを読み返すと、どれもその時々の心情が思い起こさせられる。それぞれの記事に対して愛着すら覚えてしまう。
だが、どれも私の乏しい人生経験、文章力では手に余るテーマだし、時間的にも十分な文章を書けるものではない。

ここは心を鬼にして、すべて”削除”するしかない。
世に出してあげられなくて、ごめんね。



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男子校の同窓会

2013年10月13日 | あの頃のこと…思い出話
年をとると、昔を思い出したくなるのだろうか?それとも、ただ単に心細いだけか。

三年前に開いたばかりというのに、また同窓会を開いた。

コロ健は中高一貫男子校の出身なので、参加者は全員男である。
最近は女の先生もいるようだが、私たちの頃は先生も全員男。

すなわち来賓、参加者、全員男となった。


今回の同窓会のサブタイトルは、「50歳になりました祝」。
したがって、参加者はおじさん、来賓はおじいさん(先生、ごめんなさい!)の集まりとなった。

これは相当むさくるしい。
こういう会を催すとき、かつては女性のいないことが少々残念な気もしたが、不思議と今日はそういった気分が全く起きなかった。

これも年のせいか。

もちろん、話題となるとあのころのすったもんだもあって、そんなことを大笑いしながら話したが、それも今は遠い昔の話になっていた。

私から見ると、みんな立派になって落ち着いてしまっているようにさえ見えたのだが、そんなことはなかった。
みんなたくさんの夢を持ってそれぞれ進んでいた。
どうやら、私だけが勝手に老け込んでいたようだった。

数年後の再会を約束して別れた。
皆、元気でいてくれたら、それだけで嬉しい。

昔の呼び名で呼ばれると

2013年04月11日 | あの頃のこと…思い出話
大学時代に結構仲の良かった友人のFacebookへの書き込みに、こちらからコメントをいれたら、当時の呼び名で返事が来た。部活の仲間同士でもそうだし、中学・高校、小学校時代の仲間同士でもそうだ。
別にFacebookの中に限らず、現実の世界でも、先日のOB会の時には昔の呼び名で皆から呼ばれた。

私の人生は、後悔することの多い人生で、思い出したくないことがとても多い。昔の呼び名で呼ばれると、つらかった思い出が一緒になって出てくる。

かつては、そんな風に思っていたのだが、最近そんなものでも、呼ばれるとその頃の楽しかったことも思い出されることに気がついた。
私の場合、名前をそのまま呼ばれることがあったので、「コロ健」または「コロ健さん」がほとんどだった。顔がいかついのか、”ゴリラ”の”ゴリ”を頭につけて「ゴリ○○」みたいな呼び方をする奴も一人いた。

その頃の、楽しかったやり取り、自分が彼等から学んだこと、そういったものが呼び起こされて、今ある自分がこれまでかかわってきた人すべてから少しずつ影響を受け、成長してきたのだとわかる。

どうしても変えることのできないことの一つが、自分の過去。
自分自身の過去をどれほど変えたいと思って生きてきたかわからないが、こんなことがあると変えなくてもいいのかと思ったりもする。

一人が好きだとうそぶいてみても、所詮人との関わりからは逃れられないし、そもそも人は一人では生きていけない
今年の始め、過去にとらわれている自分を嘆いたら、「時は常に流れ、この瞬間も過去になっていくのですが、それは良い意味で捉えると常にStartラインに立っていると私は考えています。」というコメントを読者の方からいただいた。
死ぬときまで、それぞれの人の過去から未来へとすべては連続していて、この瞬間に何かを変えていける可能性が常にあると、いつも思っていかなければならないのかと思う。

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制帽、制カバンの自由化論議

2013年02月26日 | あの頃のこと…思い出話
昨日に引き続き「あの頃のこと・・・」。これまたコロ健が一敗地にまみれた話しで恐縮だが、今日は、たしか高校1、2年の頃の話。

私は都内の中高一貫校に通っていたが、母校のスマートな制服を大変気に入っていた。学校の裏にある日本でトップの国立中高に制服が無いのをみて、”これだけは勝っている”、と誇らしく思っていた。
私はバンカラに憧れていて、制服をいかに崩して着こなすかに日々腐心していた。弊衣破帽とまではいかないまでも、制帽をどれだけ潰すか。中学であれば肩掛けの制カバンをどれだけくたびれさせるか。高校であれば黒皮の制カバンをどれだけ薄くして抱えられるようにするか。というようなことだった。
靴は、もちろん黒の短靴である。
それらをどれだけ格好よく着こなし、渋谷界隈の女子高生に注目してもらうのが学生生活の目標だったのだが、あるとき、制帽、制カバンの自由化(すなわち廃止)論議が巻き起こった。

それを議論するように働きかけたグループはすでに制帽、制カバンなどすでに有名無実化させていたような奴らだったと思うが、とにかく、廃止ということをいっていた。悔しいことに、彼等のグループの方が渋谷界隈の女子高生の注目度は高く、私たちバンカラ派はむなしい日々を送っていたのは言うまでもない。

私自身、制帽、制カバンの自由化ある意味やむなし、と思っていたのだが、このままこの話が進んではいけないのではないかと考えた。

生徒会かどこかだったと思うのだが、私は、「今のまま、廃止に向かっていくのは良くない。一度は、生徒全員がきちんと制帽、制カバンを着用・使用することができる、ということを証明してから議論すべきだ」と発言したが、そんなめんどくさい意見は黙殺され、制帽、制カバンは自由化された。
私はと言えば、制カバンが自由化(廃止)となったものの、ローリングストーンズのラベルを綺麗に貼っておいたカバンと別れるのは忍びなく、しばらくは持ち続けていたが、そのうちその頃流行の布バッグかなにかに持ち替え、軟派になっていったのは、情けない限りである。



いずれにせよ、このことはなし崩し的に決まってしまった。
世の中、こうやって物事が進んでいってしまうのか、とがっくりした。今でも、あの時に戻って、少なくとも一度はきっちりやれることを示してから廃止にしたかったと思っている。
大人の社会でも結局こういった人間が押し切ってしまう。
「まあ、まあ、まあ、そう硬いこと言わずに」
どうして、こうもだらしないというかインチキな人間が世の中多いのだろうと思う。

たまに、母校の生徒を見かけると、普通のスポーツバッグを背中にしょっている。黒の短靴というのも、運動靴でいいことになっているようで、革靴を履いている子はあまりいないようだ。通学を考えると、これも致し方ないのかもしれないが、どんな大雪でもローファーで頑張っている女子高生をみると、情けない話だ。


あのかっこいい制服にこの靴、このカバンは似合わないな、と、後輩をみるたびにあの時の議論を思い出し、残念な気持ちになる。

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