マルチーズのコロは、夜中になると私たちの寝室のほか、息子の部屋、娘の部屋を行ったり来たりして夜回りしてくれていたが、もう動けなくなってからは私たちの部屋に敷いた犬の介護士さんから借してもらった無圧布団の上で寝ていた。
昨晩、というか今朝、4時過ぎ、手洗いから戻って部屋のカーテンを開けた時に、コロの顔を見てやればよかったのに、これで目を覚ましたらまた鳴くだろうと一瞥もしないでそのまま寝床に戻ってスマホをいじっていた。
しばらくたって、ふと目が覚めてコロのことを見た妻が、
コロ、死んじゃった
と言った。
慌てて起きて、コロのまつ毛を触ってみたが、可愛らしい目が閉じることはなかったし、胸の動きも失われていた。
突然、もう2度と会えないという寂しさに全身が包まれ、悲しみがあふれた。
9月24日が来れば16歳だったが、残念ながらその前に力尽きた。
コロがわが家にやって来たのは、2006年12月25日。
夫婦ともに犬好きで、ずっと犬を飼いたいと思っていたのと、子供たちの情操教育にもいいだろうと、娘へのクリスマスプレゼントに連れ帰った。
これはコロが1歳の時に祇園山ハイキングコースで娘と一緒に撮った写真。
マルチーズにしては大柄だったが、小さな体で家族と一緒に鎌倉じゅうの山をよく歩いた。
フラットコーテッドレトリバーのナイトがやってきてからは、彼のしつけを良くしてくれたようで、ナイトが家具を壊すようなことはなかったのはコロの指導のおかげだと思っている。
そのナイトをコロは私たちと一緒に送ってくれた。
犬は何を考えて生きているのだろうといつも思っていたが、結局何もわからないままコロも私たちを置いて行ってしまった。
犬にとって、人間に飼われるというのはものすごいストレスに違いない。
生まれて間もなく母親と引き離され、たった一匹となり、ペットショップのショウケースのなかから、目の前を通り過ぎる何十人もの人間を見て何日も過ごした末、ある日急にその最後の一人の家に連れて行かれて新しい生活が始まる。
コロも自分の思いなどわかってくれない私たちの生活に適応するのは大変だったろう。
犬は基本的に野生で生きることは想定されていない、人とともに生きることを運命づけられている動物だ。
だから、犬として生まれてきたからには、それがどのような形であっても、どこかの人間に飼ってもらわなくてはならない。
犬にとってどんな暮らしがいいのかなど、飼い主にはわからない。
買われたはいいがすぐに飽きられて殺処分される犬、多頭飼いの劣悪な環境で暮らす犬、日常的に虐待される犬などがいる一方で、いいものばかり食べさせられて糖尿病になる犬もいる。
犬には選択肢はなく、生きていくためには飼い主にすがるしかない。
昨夜は娘のフィアンセ君が腕によりをかけてムサカという地中海料理を作って、私たちの31回目の結婚記念日を娘とともに祝ってくれた。
妻と二人でコロを抱き上げて記念写真を撮ったのが生前最後の写真となった。
1時ごろになって痛みで目が覚めたようだったので、痛み止めの注射を打った。
もう二週間以上、チュールというチューブ食と、蜂蜜とヨーグルトを混ぜて薬を入れていたものと、水しか飲んでいなかったコロの体は骨と皮になっていて、皮をつまみあげると向こうに突き抜けそうになって、一度はうまくできず、刺し直したことでちょっと悲鳴を上げさせてしまった。
そのあとは痛み止めの薬のせいで眠ってくれたようだったが、すでに力尽きていたのかもしれない。
私が注射針を刺し直した時に聞いた声がコロの最後のものとなった。
痩せ細ってはしまったけれど、コロのマルチーズの白くて絹のように美しい被毛は最期までそのままでとても滑らかだった。
ありがとう、コロ
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