パラリンピックにSitting Volleyballという競技があるのを今朝のNHKニュースおはよう日本の中でのパラリンピック特集で知った。
日本シッティングバレーボール協会のホームページからひくと、シッティング(座ったままで、または座ることの意)バレーボールは、床に臀部(でんぶ)の一部が常に接触したまま行うバレーボールということで、戦争によって体が不自由になってしまった人々によりオランダで考案されたスポーツだということだ。
今朝の放送で取材されていたのは、ユーゴスラビアのシッティングバレーボールの選手で、10代のころユーゴスラビア紛争で大量に敷設された地雷を踏んで片足を失ったという。失意の中から立ち直り、パラリンピックに参加するまでになった、という話だった。
私が幼い頃、すなわち昭和40年代。山手線や京浜東北線といった国鉄の駅前には片足の無い人が国民服のようなものを着て物乞いをしている姿があった。いつの頃か、そのような姿は見えなくなり、日本は70年近く戦争はない。不発弾が時々掘り起こされるものの、地雷がまかれたような場所はなく、地雷を踏む危険はまず無い。日本では戦争とういものが遠い過去になっている。
パラリンピックというのはおもに病気、事故が原因で体の一部が不自由になった人が参加するものと思っていたが、戦争やその関連する事で体の一部を失ってしまった人が参加するとは、思ってもいなかった。
だが、当然と言えば当然で、戦争で命は助かったものの体が不自由になってしまった人の話といえば、1989年のアメリカ映画『7月4日に生まれて』(原題: Born on the Fourth of July)が代表的だ。日本にも2010年の寺島しのぶ主演の『キャタピラー』という映画くらいしかないように思えるし、この映画はテーマが少しずれている。
反戦映画の話になってしまうところだが、今朝の放送で思い知ったのは、パラリンピックの意義。
体の一部が不自由な人のための競技会ではあるが、そもそもなぜ、不自由になったかということを考える機会である。私たち誰しも、いつそのような境遇になるかもしれない。その原因の中でも人間同士が傷つけあう戦争は最も愚かなものだ。
是非、今回のロンドンパラリンピックも成功して欲しい。