あまりの忙しさに、昨日はキレそうになってしまった。
キレるといっても誰かに当たるということではない。
自分自身で、「ああ、もう自分の限界!」と、一人わびしく呻いてしまった。
まあ、それにしても無事家に帰り、夜中の大雨で目を覚まし、また寝て、結局のところ気持ちのいい朝を迎えることができた(あれ?昨日日本代表がイラクに1-0で勝ったから?)。
それにしても、時間がない。
ないといっても、誰の時間がないのだろう?
そもそも時間とは一体誰のものなのだろう?
「私の時間をとらないで!」などという言い草があるが、昨日などは朝から晩までずっとそんなだった。
物静かな病理医コロ健としては、標本をゆっくり落ち着いた気持ちで眺め、判らない所見があれば、教科書、論文を紐解いて調べ、また顕微鏡を覗いて、病気の成り立ちを考えながら、診断書を書いていきたい。
決して、キーボードに手をかけ、顕微鏡を覗きながら、教科書を膝の上に抱えて、診断書を打つ、などと言う、いったい何をやっているかのようなことはしたくない。さらに、追い打ちをかけるかのように、アポなしでやってくる臨床医、院内PHSで時間を寸断する臨床医などの相手をしていると、あたかも、私の時間が食いつぶされているような気になる。
だが、そうした時間は、本当に私の時間なのか。
私の時間も、私に用があってやってくる人の時間も、共通ではないのか。
すなわち、「私の時間」などというものは本質的には存在していない。
私たちが認識しているこの世界というものが、この世界に存在している物質の総和として存在しているのであれば、私も、私に用がある人も、等価の存在であり、そこに存在する時間というものも、すべての人のものである。
しかしながら、物質というものの観点からいけば、世界征服は可能であるが、時間を支配することはできない。
ドラえもんを生んだ未来に生きる人々は時間を行き来するまでは可能にしたが、生きている限り、結局のところある一点の時間にとどまることはできない。
未来であろうが、過去であろうが、そこに存在してひとたび活動すれば、老化、劣化は進行する。
時間というものが、所有するとかそういった類いのものではないなどということ、これまで考えたことが無かった。あらためて、なんだかびっくりしてしまう。
時間というものは誰のものでもない。