こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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大小の、そしてそれぞれの記念日

2014年05月14日 | 家族のこと
今日はわが家にとって、ささやかな記念日だ。
ささやかな、というのは、家族の誰かの誕生日とか結婚記念日というなものではないということで、わが家と関わりのない人にとっては全く意味はないけれども、わが家のメンバーにとっては多少なりとも意味があるということだ。
これまで、今日という記念日のことをたびたび忘れてしまったが、数年前にGoogleカレンダーに書き込んで以来、そのようなことはなくなった。そして、今日もこうして無事思い出すことができている。



記念日というのは現在から振り返ってみて過去のある時点で起こったことを記憶に留めるためにあるものだ。忘れてよければ、だれも記念日にはしない。そしてそれには歴史的な大イベントから、きわめて個人的なものまである。
たとえば、不肖コロ健、誕生日は終戦の日、ジョン・レノンの命日と同じ12月8日だ(『私にとっての12月8日(2011年12月08日 )』。私のほかにも多くの12月8日生まれがいて、12月8日に亡くなった人がいる。それぞれに意味があり、それぞれの人がその日を思い出す。



私という存在が、この時系列の中のある時点から存在しているのは紛れもない事実だが、それが暦の上でのどこかということにどれだけの意味があるのだろうか。
今日、私の勤め先の病院の手術室では幾人かの人が命をかけた手術に臨み、分娩室ではいくつかの新しい生命が誕生する。多くの人が出会い、そして別れを経験する。それぞれの人、家族にとって、今日という日はそれぞれの、そしていろいろな記念日になる。

ここまで考えてきたら、私がかつてカラオケでほとんど毎回歌っていたTHE BLUE HEARTSの「TRAIN-TRAIN」の歌詞を思い出した。記念碑とか記念日とか。それらには、大きなものから小さなものまで区別のつけようなくある。だか、それらはなにかの出来事を記憶にとどめておくために、暦とか地球上のどこかの場所いうものに関連づけられたある種の記号に過ぎない。



記念日というものが不要なものとは思わない。むしろ楽しいし嬉しいことが多い。
だけど、時間という、おそらく、唯一の流れの上で、過去という既に存在しない不確かなものより、今と、その先にあるであろう未来に向かって生きることが、人間の営みだろう。



妻ののぞみ通りすべての記念日を覚えるのは難しい
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