(第8話からの続き)
駅での無差別傷害事件から一週間がたった。犯人の男の動機は未だ不明のままだが、その恵まれなかった生い立ちや、孤独な生き方などが紹介され、テレビではコメンテーターといわれる人物があれやこれやと無責任に感想を述べていた。重傷を負った人が快方に向かっているのは何よりだった。
近頃、このような事件が月に一度ぐらいの割合で起こっている。何か大事件があって、少し忘れた頃にまた別の事件。このようなことに対して、感覚が麻痺しつつあったとも言えたが、いざ自分が当事者となってみてあらためて、その理不尽さが心に重くのしかかってくる。私もPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっているという自覚症状はある。そして、これは一生消え去ることはない。一人の犯罪者によって多くの人が有形無形に損なわれてしまうのだ。
私を救ってくれたワゴンの2人の売り子のうち、チマチョゴリをきた女性は毛糸の帽子の男に腕を刺されていたが、血は流れなかった。彼女の腕の肉に包丁の刃が刺さるのをたしかに目の前で見たのだが、どういうことだったのだろう。その時は、彼女が男をすぐに組み伏せてしまって、刺さった場所がよく見えなくなったからかと思ったが、刺さったままで抜かなかったからかもしれない。いずれにしても、あたりは血の海だったし、キムチダレで彼女のチマチョゴリは真っ赤だったので、それが彼女から流された血であったかもしれなかったが結局、よくわからなくなってしまっていた。
彼女が男を組み伏せてから、警察官が殺到してくるまでには少し時間があったが、もう1人の売り子・・・作務衣風の割烹着を着た男性・・・も加勢して押さえつけていてもうよく見えなかった。
その後、警察官が壁のようになってしまい何も見えなくなってしまった。
私はすぐにでも2人にお礼を言いたいと思ったのだが、ラグビーでいうモールのように警察官が密集した中にまで割って入ることはできなかった。それにまだ私自身が茫然自失、というか腰が抜けたようになっていてその場に立ちっぱなしだったということもあった。
結局、私は彼らに二度と会うことはできなかった。
それにしても、どうして彼らはあれほど勇敢に暴漢に立ち向かい、見事に組み伏せてしまうことができたのだろう。彼らは、朝鮮半島の出身かなにかで、テコンドーの有段者とかそんな人たちだったのだろうか。それとも、単に鉄道警察隊の隊員とか。でも、それだったら他人の売り物のキムチ桶を投げつけることなんてしないはずだし、そもそもチマチョゴリを着ている必要はない。
彼らは何者だったのだろう。キムチ販売に関係があることは間違いないのだろうけど、ではあのキムチ販売のワゴンは一体なんだったのだろう。
そこで、駅ナカで売られている商品をとくに考えなく、数点購入することにした。商品の製造ラベルに書かれている製造者を調べたらなにかの手がかりになるだろう。
そう思って、帰りにいつもの乗換駅でワゴンを探してみたのだが、見当たらない。
どうしたことかと、売店の人に聞いてみたら、一週間前の事件以来ワゴンは出ていないということだった。
店じまい?
第10話に続く