夜中、つよい雨音で1度目が覚めたものの、また寝て起きたら雨は止んでいた。とはいえ日中は大雨になるというので、念のため大きな傘を持って出た。屋根のないところを歩くのは全て合わせてせいぜい200メートル程なので、少し小走りしたら十分なのだが、大雨が降るという日に傘を持っていないというのはなんとなく決まりが悪い。妻もやたらと心配するので、持って出ざるを得なかった。昼間は大雨だったが帰る頃にはすっかり止んでいて、持って出た傘は置き傘となった。
昨日の暖かさに誘われたのだろう、サンシュユ(山茱萸)の蕾が一斉にほころび始めた。休眠していたと勝手に考えていた人間の目から見れば突然のことだが、この子たちにしてみたら当たり前のことだ。濡れた地面をみたら、雑草も昨日の草むしりでずいぶん減っていた。昨日の草むしりは結構本気でやった。広範囲に根を広げていたカタバミを表土を剥がしてむしったり、細いシャベルを地中に突き刺してヒメシバを抜いたりとか本格的にやったので、今日は腕や肩が少し痛い。あと2、3度頑張ればだいぶ綺麗になるだろう。
黙々と草むしりをしていると、だんだんと複雑な気持ちになった。雑草という名の植物などない、などということではない。一本一本の草の命について考えてしまったのだ。春になり、新しい芽を出しこれからいよいよ伸びていこうという植物の命を次々と断つなどということ、果たして私がしていいのだろうか。放っておけば駐車場の地面は緑の葉っぱに覆われ、とても庭などとは言えないような状況になってしまうから、草むしりは避けては通れない道であるのはわかってはいる。でも、自分では花が好きで、それなりに大事にしているようであってもその実一方ではこんな残虐行為をしているのだと思うと、大きな自己矛盾を感じてしまう。私は偽善者なのか。それならせめてはじめから雑草など生えないようにするとか、なにかしらもっといい方法はないだろうかと思うが、ゴルフ場のように大量の除草剤を使用して周囲の生態系にまで影響を及ぼしかねないようなことをしてはこれもだめだ。
人間というのは勝手で欲深く身の程知らずな生き物だ。”そうしなくては生きていけない”という最低限のことにあきたらず、次から次へと欲望を膨らませ、そこには限度が無い。私自身謙虚であるかどうか、自己点検しながら生きなくてはならない。
足るを知るという言葉があるが、それは身分とか年齢とかに限ったものではなく、あらゆる生き物たちの中での人間の立ち位置を知ることでは無いか。
水溜りがたくさん