どんよりした空、車窓に付く水滴を見て、遠くに雨雲のあることを知る。今日は東京・神奈川の私立中学入学試験解禁日だな、と条件反射のように思い出した。受験のことなど忘れてしまいたいのに、どうやら死ぬまでできそうにない。こんなに暗い思い出を人生に刷り込むようなシステムはやめてしまった方がいいと思うのだが、それは無理なのだろうか。この、コロナ禍を契機に変わっていくことはできないだろうか。
なんでも変わることができる、と言うのは簡単だが、実際に変わるということは難しい。世の中には色々な立場の人がいるから、変わろうと思えば変われるのに変わらない人がいる一方で、変わりたくても変わることのできない人、あまり変わる必要のない人、変わらなくていい人、などだ。私のようにあまり変わる必要のない人が変わりたくても変わることのできない人のことをあれこれ言う資格はない。あれこれ言うのは簡単だけど、いざ、じゃあどうしたらいいの?と聞かれたら答えは容易に用意できない。
昔、不用意に自分のことをひけらかしたことがあった。今思えば”自慢話”というやつで、客観的には良いことだから相手も同意してくれるだろうと期待していたら、全く違った。
「だから?」
と、冷たい反応があって、
『で?なんなの?』
と、今まで続く無言の時が訪れた。
大人になったあとでのことだったので、その反応に驚いたし、こうしていまだに忘れることができないでいる。
根本的に、私にあるそんな他者への冷淡さ、意地の悪さがそういった言動を引き起こすのだと思うし、このブログでもそういった底意地の悪さはしばしば現れ、反省することは少なくない。じゃあ、どうしたらいいかというと、難しい。ある時、ある友人が、素晴らしい仕事を成し遂げたということをフェイスブックで報告していた。自慢に聞こえたわけではなかったが、
「いつもすごいね!」
とコメントしたら、
「ここには良いことしか書きませんから」
という返事が来た。確かにそうだ。発信する情報の種類は人それぞれで、幸せ自慢、不幸せの報告、いろいろある。インスタなんかは、幸せの共有、を目指しているようで、良いねを押してもらえばそれで互いに幸せになるという仕組みだ。いちいち、『で?なんなの?』なんてコメントを入れたところで、生産的なことはない。この先、人と人との関わりが減って、会話そのものも激減していくと、人間関係はより希薄にな方向へと変容し個々人の発信に対する反応も変わってくるに違いない。だとすると、なんらかの形ーーーSNSとかブログとかーーーでその人の人格とか性格を推し量り、付き合いたいと思う人を選んでいくしかなくなるような気がする。放っておいても、世の中はどんどん変わっていっている。
人間の本質とは