今朝は2度、ずいぶん冷え込んだ。
ゴミの初日は、剪定材の回収。
剪定材といっても、すべて落ち葉で、庭木の落ち葉以外にも裏山の木の落ち葉も多く、パンパンになった大きなビニール袋2つを集積所まで出しにいった。
外に出ただけで心臓に負担がかかりそうだった。
昨日は、駅伝を見ながら昼過ぎにはブログのエントリーというか、今年の抱負を書き上げ、年賀状も書いて投函した。
娘のフィアンセ君が帰国して、正月疲れとおもてなし疲れがあわせてどっと出たようで妻はほぼ動けず、私もこれといった用もないので、ハンギングやプランターに水やりをしたあとは、今日から仕事に着て行くシャツのアイロンがけをした。
家事のうち、黙々とやるアイロンがけは好きな部類に含まれ、苦にならない。
ちょうどいいことに、WOWOWで博多・天神落語まつりをやっていたので、2時間余りがあっという間に過ぎた。
落語で語られるのは、ほぼすべて人間の営みの描写だ。
賢者と愚者、金持ちと貧者、そしてその他多くの普通の人間。
そんな人たちが時に立場を入れ替え、さまざまな人間模様を繰り広げる。
テレビドラマだとしょっちゅう画面に目をやらなくてはいけないが、落語だったら噺家がそばを食べるところと下げ以外は、無理をしてみていなくてもたいていのところは楽しめる。
そんなわけで落語はアイロンがけにはちょうどいいのだが、ではなんで噺家を見ていなくてもたいがいのことがわかるのだろう。
それは、落語の表している世界が人間同士のやりとりであり、畢竟、人間が考えつくことには限度があるからだ。
善悪愛憎貧富美醜、すべては人間が勝手に決めたことで、人間以外の生物、鳥や獣、魚に木々にそんな価値観など理解できないし、その必要もない。
愛憎は殺し合いに、貧富は分断へ、そして美醜は差別へと、どれも初めはほんの些細な違いに過ぎないのに気がつけば元の場所に戻ることのできないところに来てしまっている。
ほかの生物からしたらはた迷惑な話だ。
人間の価値観に普遍性を持たせることは難しいことかもしれないが、少なくとも世の中におきているあれこれはすべて人間の営みが原因であるということ、そのことを私たちひとりひとりが自覚したら、どれもしょせん大したことではなく、ずっと単純化できることなんじゃないだろうか。
しょせんは仏様の掌の上
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