
小雨まじりの曇天で、一日中降ったり止んだりとか。
昨日のような気持ちのよい陽気は、その気持ちよさと相まって楽しかった懐かしい思い出も蘇ってくる。
そして、今日のような天気だと、気分は塞ぎ気味になってしまう。
おとといのようなことを書いてしまうのはいつもの秋の深まりと共に訪れる鬱っぽい気分のせいだろうが、それに加えて私自身の自己肯定感の低さのせいもあるのかと考えてしまう。
こんなアラ還が自己肯定感もへったくれもないが、このまま人生が終わっていくのもどういうものかと考えてしまう。
この先、自己肯定感を高めていくにはどうしたらいいだろう、それともそもそもそんなもの不要なのか。

50歳を過ぎる頃には自分の能力、適性、才能、性格、そういったものが大体わかり人生の大半は決まっている。
情報化社会の発達により、以前より格差もはっきりと目に見えるようになっている。
この先の人生では、それらを受け入れていくしかない。
新しいことを始めるといってもそれは全く新しいものではなく、それまで生きてきた経験なり糧というバックグラウンドがあってこそできるものだ。
それでも生きていかなくてはいけないのが人間であり、そこに価値を見出さなくては意味がない。
自己肯定感とは、まさにその価値に対する自己評価で、生きる意味に通じる。
どれほど頑張って(頑張ったつもりであって)も自分なりに満足のいく結果が得られないまま生きてきたとしても、それはそれで終わってしまったこと、やり直しのきかないことだ。
自己肯定感を上げるとは、自分の人生に対する自己評価を上げるということで、採点官は自分自身だ。
採点を甘くするのも辛くするのも自分であるが、どうせなら甘くしてもいいのではないかと思うが、なかなかそうできない自分がいて、秋の深まりと共に考え込んでしまうのだ。
わんこもいないし
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コロ健さんの、真摯なつぶやきに、考えさせられました。
ご自身の長い人生を過ごしてこられての感慨でしょうから、
昨日今日のブログ拝見でなにか言われてもコロ健さんの心には響かないだろうなと思います。
それにたぶんこういうことには、人の言葉は欲しくない・・?
ただ、真摯なつぶやきに、思わず、ない知恵をしぼってコメントを書いてしまいますが、
病理医として長年立派なキャリアを積まれながら自己肯定感を高くもてないのだとしたら。
・・もしかしたら、どこかに、「やらされている感」があったのかな、と思いました。
あと思ったのは・・
禁じ手かもしれませんが、ご自分のテーマをつくって、「オレはこれに苦しめられている人々を救う」みたいなものがあると、
たぶん、自己肯定感は爆上がりします。
韓国がやっていることはそういうことです。
単に相手を恨むだけだと歪みますが、
ご自分の「これは改革しないといけない」という意識を、世のため人のため、に一般化してつなげると、
善の行為となる場合が多いように思います。
(自分の病気で苦しんだ少年が、将来は医者になる、と志すとか)
余計なお世話だったかもしれませんが、
良ければ参考にしてください。
コロ健さんの、心豊かな人生を願います😊🌸
ありがとうございます。
採点するといっても、では人生に満点はあるのか、そもそも採点基準はあるのか?
そう考えると、これも虚しい悩みです。