医局会など他科の医師と共に行う会議で発言するのには、病理医のようなマイナーな科の医者はずいぶんと勇気が要る。病院というところの表の顔、すなわち看板はいうまでもなく臨床医であり、病理医である私が何かを発言したところで、病院のマジョリティーーー売り上げとか、治療成績ーーーの問題解決に直接つながる建設的な意見にならないと考え、発言するのをついためらってしまうのだ。
私の場合、喋りたがりのところがあって、会議で誰も発言しなかったりするとーーーおそらくほんの15秒ほどだろうがーーー沈黙に抗うことができず、よせばいいのについ口火を切ってしまう。私のせっかくの”場を動かすための”発言を誰かがついでくれるのならいいが、多くの人は遠慮がちに別のーーー出席者の多くが関心を持っているーーー話題へと舵を切る。もちろん、いったん誰かーーーたとえそれが病理医であってもーーーが発言したら、会議は重い腰を上げて動き出すが、最初の、病理医の発言を会議の終わりまで覚えている人は私以外にはいない。
国会(閉会中審査を含め)の討論を見聞きすると、何をしているのかよくわからない議員が多く見えるが、多様な人材が発言の機会を得るためにはこれぐらいの人数は必要なのかもしれないと思うようになった。これは先の参議院選挙で障がいのある方を国会に送り込む政党があったということでとくにそう思うのかもしれない。健常者の視点に立った政治は、国力の増強のためには必要なことだろうが、健常者だけで議論していては、考え方の多様性は欠落してしまう。少数者、弱者の発言に耳を傾け、その意見を取り入れることができないような人は、人を導いていく資格はない。自分の席を譲った党首は大したものだと思う。
さて、私は今の勤務先の病院に、病理医がいなくて困っているからきてくれないかと言われてやってきた(だから一人病理医)。プレコロナの頃だったからこそ開催された”私の歓迎会”で「(なんでも知っているわけでもないので)私がどれほどお役に立てるかなんてわかりませんよ。」と言ったら、院長が「意見を聞いてくれる人、言ってくれる人、相談できる人というのが必要なんですよ。」と応えてくれた。ああ、ありがたいなと思ったし、この言葉はずっと忘れることはないだろう。実際その言葉に嘘はなく、マイノリティーの代表格である病理医としての私の発言は正当に扱われているし、会議での発言にしても思っていたよりずっと丁寧に耳を傾けてくれている。
あとは私次第
一般人から見たら雲の上の存在であることをお医者さんの世界でも、そんな序列?があるのですね。当たり前のことかも知れませんが、改めて勉強になりました。
トップに(人材選択をはじめとして)判断力がないため、側近までも変です。学力はあったに越したことはありませんが、現場における即応能力・采配能力は別問題です。民意の汲み取り・現状把握能力が全く足りません。すべてにピントがずれており、全く腹の立つことが多いです。
それに引きかえ、コロ健さんの所属される病院長はとても人徳のあり、人を活かす能力の持ち主だと思います。
人のヤル気を引き出す力を感じます。上に立つ人間はそうあるべきですが、管理能力のない方が世の中には多過ぎます。病理医は、病理専門資格の有無に関わらず責任のある仕事で、とても凡人には務まりにくいものだと考えます。
会議では大声の人の意見が通りやすいと世間では言いますが、決してそうではなく、「山椒は小粒でも・・・」の如く正しいと思うことは、どんどん意見を述べるべきだと思います。
おかげさまで正しいと思うことを発言できる雰囲気があって助かっています。これはおそらく施設の空気だと思いますが、ぬるま湯に満足しないよう、臨床医とともに切磋琢磨していこうと思っています。