昔から生きるということ、死ぬということをよく考える。最近とくによく考えるが、それは世界中で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で数万人の人が亡くなっているからか、それとも先月父が亡くなったからかはわからない。”人は死ぬ”ということを知っている人で、死ぬことについて1度も考えたことがない人はいないはずだ。自分の死ぬときのことを書いたこともある(死に時 - 2012年02月26日)。
先週、父の49日の法要と納骨式を終えた。墓石の下の祖父母の骨壷の横に、父の骨壷が納められ、蓋をされるのを見て、もう父に会うことはないのだと知った。癌が見つかり、病理診断、手術、化学療法を経て、父は静かに衰えていった。癌そのものによる苦しみ、化学療法による苦しみを口にすることはほとんどなかったが、かつてのような元気が出ないことが悩みだったようだ。でもそれは父がその生涯でやるべきことを全てやり遂げてしまったから、なにかをしようとする元気が出なかったのだろうと思う。元気はなかったが、85歳の誕生日を皆で祝った時はとても嬉しそうだった。亡くなる前の1週間はほぼ毎日会うことができ、最期は眠るようにやすらかだった。父は残される人にとても素晴らしい死に方を示してくれた。
妻に付き合ってよく視ていたNHKの”世界は欲しいモノにあふれている”の司会を務めていた俳優さんが自殺した。弱冠30歳。顔と名前を一致して覚えていた数少ない若い俳優さんだったということもあり、とても悲しく、とても残念だ。好感度抜群で、仕事も多く抱えていて、順風満帆の人生を送っているように見えたが苦悩は大きかったのか。私は20年以上前に自殺しようと思ったことがあった。その時のこと、場所や時間までとてもよく覚えている。だが、今となっては、その時の私を、何が押しとどめたのかは覚えていない。それどころか、何で自殺しようと考えのかも思い出せない。その後も、めんどくさいこと、追い詰められること、二進も三進も行かなくなることはいくらでもあって、すべて放り出したくなり、ひどい時には”もう死にてー”という言葉すら頭をよぎることもあるが、実際にそれに至ってはいない。
死にたくなるほど辛いこと、ということはいくらでもある。自殺した方の気持ちを思うと、そのことを否定する気にはならない。自殺という行為自体を肯定することも否定することも私にはできない。ただ、目の前に自殺しようとしている人がいたら、”やり残したことはない?”と聞いてみるかもしれない。その時その人がーー若者であっても、高齢者であってもーーそこでそのことを考えることができたなら、自殺を止めるかもしれない。父にしてみてもまだまだやりたいと思うことはあっただろうが、やり残したことはなかったのだと私は思う。
私が20年以上前に死ぬことを思いとどまったのは、もしかしたらこうしてブログのようなーー自分の思いを人に伝えるーーことをしたいという思いがあったからかもしれない。今からでも哲学をしたいと思っているほどだ。
生き方を変えるのは難しいことかもしれないが、死のうと思った時に、少しだけでも”やり残したことがないか”、”そのために生き方を変えてみようか”ということを考えてみたら、生きるという選択が出てくるかもしれない。そこで思いとどまることができたら、4半世紀も経てば、なぜその時にそんなことを考えたのかもあまりよく覚えていなくなってしまう。
生きていればということもある
私も離婚になったときはいっそ死んでしまえたらと思いました。
でも、子供も居るしあと11年なら頑張ってみて、それからでも良かろうと思い直したのです。
高校まで出せば後は良いかなと。
相変わらず、しんどいことの多いしじんせいですが、死ぬのは思いとどまって良かったです。楽しいこと、やりたいこともまだまだあるし、息子は優しい子に育ちました。
悩みの原因も人それぞれですよね。他人から見たらとるに足らないようなことであっても、本人にとっては大問題。悩みを点数化できたらいいかもしれませんがそんなことは無理でしょう。
笑顔になれることがあるのならそれにすがって生きるのもいいかとおもいます。
息子さんが優しい人に育ってくれてよかったですね。