臨床系のある学会で司会をした。オーラルプレゼンテーション(演説)のセッションで、6題あるうちの3題ほどを担当した。どうして私なんだろうと思いながら引き受けてしまったが、どれも立派な内容でこちらの方が勉強になった。ただ、最近勉強になった、なんてことを言っている場合ではないということを感じることがあった。
先日、とある勉強会で講演を買って出たのだが、終わってみたらなんとなく物足りなかった。そんなことを妻に言ったら、
あなたね、いったい自分はいくつだと思っているの?
もう、人に教えてもらう歳じゃないでしょ。いい加減、人にもらってばかりじゃなくて、人に与えることを考えたら?
と、呆れられハッとした。たしかに人に教わっていていい年ではない。これまで私がお世話になってきた”立派な先輩たち”に教えを乞うたのは私よりずっと若かった頃だ。大学教授になる人などは、40代が普通で、この間も私より一回り若い後輩が某大学の教授になった。彼など、教授になった時点で指導者としての役割がスタートしたわけだ。
私としても、多少なりともこれまで教わったことを後進に伝えることを始めなくてはいけないということ。これというのは、仕事に限ったことではなく、社会全般に言えることだ。良きにつけ悪しきにつけ、年長者は自らの姿を若い人にみられる。若い人から学ぶこともあるだろうが、それよりは学んでもらおうという姿勢が必要ではないか、それこそが年長者のやるべきことだ。
生きているうちにやる
心の成熟因子って、高齢になっても出てこない「心の成熟因子欠損症」もあるのかもしれませんね。
何時まで経っても、ケンカごしが治りませんねと言われます。
ひょっとすると、奈良の風土病??
自民党総裁選挙もいよいよ佳境となって、奈良も盛り上がっていることでしょうね。
常々立派な大人が少ないことを嘆いているわけで、ならば自分がなろうと思うのですが、なかなかうまくいかないので、ここで克己復礼をと決意表明をしている次第ですが、実情は程遠く情けない限りです。
これからもよろしくお願いいたします。