クレンメルで右手の薬指の腹を切ってしまった。
病理医は手術で摘出された臓器の切り出しや病理解剖で、ほぼ毎日刃物を振り回しているので、針刺し事故のような事故を起こすことがまれにある。だが、私の”事故”はそういった刃物とは無縁の、意外なことだった。おそらく、配布された資料のプリントの紙で指を切るというよりも。
顕微鏡で標本を観察する時の基本は、スライドガラスを汚さないように、中央の組織が載せられている部分を触らないことだ。さらには、ほかのガラス面もなるべく触らず、病理の番号やら、患者の氏名や識別番号が記載されている紙の部分を持って、顕微鏡のステージに置く。
このとき、標本をおさえている蟹爪の様になっている銀色の器具をクレンメルという。クレンメルの名前は、病理医でも知らない人が多く、「標本をおさえるやつ/はさむやつ」とか、「ステージの上のアレ」とか、そんな呼び方をしている。そんなわけで、ちょっとえらそうにしている病理医がいるとわざとこの名前を出して試し、知らないと心の中でちょっと喜ぶ。
で、どうやって、指の腹を切ってしまったかと言うと、こういう感じで、クレンメルを薬指でどかしながら標本をセットしたときに、切ってしまったようだ。
切った時は、血も出ないような、わずかな傷であったのだが、どうも気になる。標本をセットする時はもとより、診断書を書くのにキーボードを叩く時もシクシクする。ほんの小さなとげが刺さったようで、それが抜けないという感じが続いて、うっとうしくなる。プリントの紙で手を切ったところが、たまたま標本をセットするときに使う指の場所だったという感じだ。
その、肉眼的には見ることのできないほどの小さな傷がふたたびクレンメルに当たらないよう、右手で標本を持ってセットするのが面倒になってしまった。代わりに、左手で標本のラベルのところを持って、右手でクレンメルを押しのけてセットすればいいのだが、標本の向きが変わると上下が変わってしまうので、左手でガラスの端っこをつまむように持ち、スライドガラスでクレンメルを押し上げながらセットすることにした。ガラスが多少汚れるが、致し方ない。
標本一枚用のクレンメルもあるのだが、これだと標本を一度に二枚載せられず、少々使い勝手が悪い。一枚用のクレンメルを使っていたこともあったが、追加の染色が多くなってきたので、いまではもっぱら二枚用しか使っていない。
顕微鏡というのは性能が上がっている割に、スマホやテレビ・ビデオのように訳の分からない機能が付加されておらず、その目的は標本を観察するだけだという点で、興味深い製品である。