ゴミを出しに行っただけで、手袋をした手が冷えてしまった。
若い頃はこんな時分でも自転車で駅の駐輪場まで平気で通っていたのに今ではすっかり妻の送迎に頼りきり(冬場に限ったことではないが)。
車載の温度計の表示はー1.5度、長い黒髪をなびかせながら自転車をこぐ学生を追い越しながら、これはさすがに寒いだろうと気の毒になるが、たぶん平気なのだろう。
被災地ではもっと寒い上に大雪に見舞われているのだと思うとやりきれない気持ちになる。
できることといえば寄付ぐらいしかないが、せいぜい役立ててもらいたい。
同じテンションで仕事(病理診断)をしているつもりでも、急に思考が止まってしまうことがある。
脳を動かしている歯車のようなものの回転速度が急に遅くなってしまうような感じだ。
昨日も、迅速診断で希少症例の診断ができて、そのほかの症例も比較的スムーズに進んでいたのだが、ちょっと苦手な検体が来たら途端に止まってしまった。
その感覚を自覚して、これはどうしたことかと考えた。
こういうことは臓器によらずしばしば(!)起こる。
病理診断は大きく分けると腫瘍性疾患の診断と非腫瘍性疾患の診断となる。
私の勤務先は小児周産期の専門病院なので、腫瘍でも癌の診断はほとんどなくて小児がんで、あとは非腫瘍性疾患の診断となる。
このうち非腫瘍性疾患の診断というのは、例えば潰瘍性大腸炎とかクローン病といった炎症性腸疾患の診断、腎炎の診断とか移植腎の拒絶の診断などだ。
しばしば長考を強いられるのは移植腎の診断と炎症性腸疾患の診断、あとは他院から病理学会を通じてコンサルテーションケースとして回されてきた症例の診断。
このうち腎生検の診断では細い生検組織が5種類の染色がされていて診なくてはならない標本というのが5倍になって、それぞれについての意義を解釈して、染色同士の意義づけを行わなくてはいけない。
これがさらに移植腎となると頭がこんがらがってしまうのだ。
炎症性腸疾患というのも難しくて、私の勤務先では、消化器内科が上部消化管(食道から十二指腸まで)6ヶ所、下部消化管(回腸から直腸まで)9ヶ所を取ってくるので、都合独立した15ヶ所の所見をそれぞれ記載して総合的に考えて診断する。
どんな標本でも、まったく所見がないということはなくて、ちょっとした所見も見落としてはいけない。
幸い見落とさなかったからといってそれがどれほど病的なのかとるにたらないものなのかは分からない、などとというようなことを考え出すと、にっちもさっちも行かなくなる。
そして、ただ単に、無茶苦茶深く集中しているだけなのだが、はたからだとただ単に石のようになって顕微鏡にしがみついているだけに見えるみたいで、相談にやってきた臨床医の、
先生、今ちょっとよろしいでしょうか?
という声に、飛び上がるほどびっくりして我に帰る。
これは決して大袈裟ではなく、その証拠に声をかけた当の臨床医の方も恐縮して謝ってくる。
自分で不思議に思うのは、なぜ同じ頭で考えているのに、スラスラ診断がつく症例とそうでない症例があるのかということだ。
これは、移植腎であっても、消化管生検であっても同じことが言える。
結局のところ、患者さんは十人十色、症状も所見もそれぞれで、自分の中で理解しやすい症例とそうでないものがあるとしかいえないのだが、30年以上も病理診断をやってきているのに、いまだにその理由がわからないでいる。
それともただ単に処理能力の低下だろうか。
病理学会から回ってきたコンサルテーションケースの話はまた明日。
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