季節はすっかり春となり花壇の花は咲き乱れ気分は上々、といきたいところだが、学会の準備は滞っているし、ルーチンワークでも難しい症例ばかり続いている。そして何よりウクライナでの虐殺のことも頭を離れず、人間としての自分自身の立ち位置は不明瞭となり、そのあたりをさまよっているようだ。ずいぶん年を重ねてきたとはいえまだしばらくは続きそうなこの生を謳歌していいのか、未来への夢を持っていいのか、苦しむ人がいる一方でそんなことを考えていいのか。だが、幸せな人がいる一方でそうでない人がいるということも人類の歴史だ。
勤務先の病院では広報活動の一環としてTwitterに投稿している。一昨年、相当数(月2本のペース)投稿したら投稿数トップで院長表彰というのを受けたがあるとき勢いが途絶えて止めていた。年度が改まるからと仕切り直しで投稿を再開し、その1本目が先日掲載された。自分の投稿を読んでみようと、おととい久しぶりにTwitterを開けて、いくつかの投稿を読んでみたら、どれもこれも下らないことばかりで暗澹たる気持ちとなった。
そこで私に見えたのは、かつて、といっても2、3年前までは、いいことを言っていた政治家などの世のなかの流れについていけず、そのままの立ち位置で、ある意味”喚いている”だけの存在となっている姿だった。
いつの間にかこの国にはオピニオンリーダーがいなくなっている
それは、もう絶望ともいえる感覚だった。いま、この国の抱えている問題の本質とは何かを真剣に考え、話し合おうとする人はどれほどいるのか。この国には、国防、貧困、ジェンダーその他もろもろのことを自由に語り合える空気は無い。
もちろん、政治家や官僚、企業トップにはそれぞれそういったことに取り組み、改善する能力を持っている有能な人はたくさんいる。だが、日本のこと、世界のことを俯瞰的な立場から考え論ずることのできる人というのは明らかに足りない。
TwitterはSNS発達の強力な推進力となってきたことは間違いないし、現時点でもその速報性、わかりやすさは絶大な力を持っている。だが、140字だかそこいらで自らの思いを伝えることができると、世間の多くの人は考えるようになってしまっている。自らの発言はあくまでも一方通行のものであることを忘れ、自分勝手なことになっていることに人々は気がついていない。久しぶりに開いたのがアメリカの大富豪がTwitter社の大株主となり、さらに取締役にもなったというタイミングであり、Twitterについて考えるのにはちょうどよかった。
問題はSNSの利用法云々というよりは、日本からいつの間にかオピニオンリーダーがいなくなってしまったということだ。腕のいい解説者、それなりの理念を持った企業経営者などは、情報の多い今の時代いくらでもいる。しかし、自らの考えに依って立つ知識人というのはいない。仮にいたとしても、現代のSNSによる超大量情報化時代においてはそれらの知識人はやがて商品化され、大衆社会へと迎合・平準化させられ最後には吸収されてしまう。このことは、日本だけの問題ではなく世界共通の問題で、人類にとって今は冬の時代と言える。
”多様性”に絡め取られるな!