私と資本論② 明治大学教授 野中郁恵さん&京都大学名誉教授 間宮陽介さん
“ぶれない目”獲得できる
明治大学教授 野中郁恵さん
『資本論』を手にしたのは大学入学直後の春でした。学生の間には、読み終えた人はすごい人なんだという雰囲気がありました。
「理解度は読んだ人の水準によって決まる」という声もあったので、1行1行緊張しながら読みました。搾取の仕組みや、価値を増殖させる特殊な商品=労働力という概念が分かると、やはり前が開けたようでうれしかったです。
正直難しい本です。学生時代は、特別剰余価値で挫折しました。
2度目に『資本論』を真剣に勉強したのは大学院受験を控えた時期でした。私は試験科目にマルクス経済学を選択しました。このときはマルクス経済学の体系を理解するために読み込みました。大学院受験時の勉強は現在の研究者生活にも大いに役立っています。
私は会計学者です。世の中を変えるには企業を変えなければならない、そのためには企業を客観的に評価できる会計学を学ぼうと考えました。
会計学を研究していると、人件費はついついコストの一部になってしまい、削減すればするほど利益が出る、企業は利益を生まなければ存在価値がないという観念にとらわれてしまいがちです。
最近、企業内や社会的規模での富の配分を示す付加価値の論文を書きながら、価値は労働によって生み出されるというマルクスの労働価値説について考えさせられました。
市場で商品が売れなければ労働力の価値は実現しません。商品やサービスを売るために企業は流通、広告、宣伝にもお金をかけます。それらはすべて労働者によって担われています。労働が価値を生みだしています。
やはり『資本論』が示した「価値法則」が貫徹しているのです。『資本論』から企業活動や社会を見ることで、ぶれない目を獲得できると思います。
近頃は、3度目の挑戦で、大学院生たちと、わいわい言い合いながら、読んでいます。
近代経済学以上に近代的
京都大学名誉教授 間宮陽介さん
冷戦終結から数年を経た年の暮れ、何気なく入った古本屋で「マルクス・エンゲルス全集」全巻(大月書店)が目にとまり、買い求めた。涙が出るくらいの安値である。その後、補巻も順次買いそろえ、マル・エン全集は研究室の一隅を占めることになった。定年で大学を辞めるとき、蔵書の半数以上を処分したが、東京に送った本の中にはこの全集も入っていた。
マルクスを研究しているわけではない。それにもかかわらず全集を買いそろえたのは時代への反逆のつもりだったのだろう。彼の著作は1世紀以上にわたって世界の労働運動、革命運動を鼓舞しつづけた。そこには、人間、社会、歴史への深い洞察があった。彼の思索は社会主義の崩壊とともに無に帰すようなものではないはずだ。
しかし『資本論』は19世紀に書かれた本である。資本主義といっても初期の産業資本主義段階。いくら何でも現代を理解する指針とはなり得ないのではないかと思う人もいるだろう。
逆説めくが、私は『資本論』はその後の近代経済学以上に近代的だと思っている。調和的な市場理論ではなく、資本の運動を不均衡の相の下に考察したもの、それが『資本論』である。資本は貨幣や商品などさまざまに姿を変えながら、その循環過程で証券その他の金融商品をスピンオフさせる。『資本論』は第3巻「資本主義的生産の総過程」を媒介として、現代の金融経済に直結しているのである。
マルクスの著作は自分の思考を映し出す鏡である。何を考えているかによって、それまで見えなかったものが見えてくる。ゲルマン共同体の本質は集会に存すという「資本制生産に先行する諸形態」の一節は、私のコモンズ論に大きな示唆を与えた。労働は外的自然を変えるとともに人間の自然も変えるという『資本論』の一節は、活動は人間の内外世界の境界だという私の持論を後押ししてくれた。マル・エン全集を手元に残したのは幸運な選択だったといわなければならない。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年1月15日付掲載
市場で商品が売れなければ労働力の価値は実現しない。労働が価値を生みだす。やはり『資本論』が示した「価値法則」が貫徹。
労働は外的自然を変えるとともに人間の自然も変えるという『資本論』の一節は、活動は人間の内外世界の境界だという私の持論を後押し。
“ぶれない目”獲得できる
明治大学教授 野中郁恵さん
『資本論』を手にしたのは大学入学直後の春でした。学生の間には、読み終えた人はすごい人なんだという雰囲気がありました。
「理解度は読んだ人の水準によって決まる」という声もあったので、1行1行緊張しながら読みました。搾取の仕組みや、価値を増殖させる特殊な商品=労働力という概念が分かると、やはり前が開けたようでうれしかったです。
正直難しい本です。学生時代は、特別剰余価値で挫折しました。
2度目に『資本論』を真剣に勉強したのは大学院受験を控えた時期でした。私は試験科目にマルクス経済学を選択しました。このときはマルクス経済学の体系を理解するために読み込みました。大学院受験時の勉強は現在の研究者生活にも大いに役立っています。
私は会計学者です。世の中を変えるには企業を変えなければならない、そのためには企業を客観的に評価できる会計学を学ぼうと考えました。
会計学を研究していると、人件費はついついコストの一部になってしまい、削減すればするほど利益が出る、企業は利益を生まなければ存在価値がないという観念にとらわれてしまいがちです。
最近、企業内や社会的規模での富の配分を示す付加価値の論文を書きながら、価値は労働によって生み出されるというマルクスの労働価値説について考えさせられました。
市場で商品が売れなければ労働力の価値は実現しません。商品やサービスを売るために企業は流通、広告、宣伝にもお金をかけます。それらはすべて労働者によって担われています。労働が価値を生みだしています。
やはり『資本論』が示した「価値法則」が貫徹しているのです。『資本論』から企業活動や社会を見ることで、ぶれない目を獲得できると思います。
近頃は、3度目の挑戦で、大学院生たちと、わいわい言い合いながら、読んでいます。
近代経済学以上に近代的
京都大学名誉教授 間宮陽介さん
冷戦終結から数年を経た年の暮れ、何気なく入った古本屋で「マルクス・エンゲルス全集」全巻(大月書店)が目にとまり、買い求めた。涙が出るくらいの安値である。その後、補巻も順次買いそろえ、マル・エン全集は研究室の一隅を占めることになった。定年で大学を辞めるとき、蔵書の半数以上を処分したが、東京に送った本の中にはこの全集も入っていた。
マルクスを研究しているわけではない。それにもかかわらず全集を買いそろえたのは時代への反逆のつもりだったのだろう。彼の著作は1世紀以上にわたって世界の労働運動、革命運動を鼓舞しつづけた。そこには、人間、社会、歴史への深い洞察があった。彼の思索は社会主義の崩壊とともに無に帰すようなものではないはずだ。
しかし『資本論』は19世紀に書かれた本である。資本主義といっても初期の産業資本主義段階。いくら何でも現代を理解する指針とはなり得ないのではないかと思う人もいるだろう。
逆説めくが、私は『資本論』はその後の近代経済学以上に近代的だと思っている。調和的な市場理論ではなく、資本の運動を不均衡の相の下に考察したもの、それが『資本論』である。資本は貨幣や商品などさまざまに姿を変えながら、その循環過程で証券その他の金融商品をスピンオフさせる。『資本論』は第3巻「資本主義的生産の総過程」を媒介として、現代の金融経済に直結しているのである。
マルクスの著作は自分の思考を映し出す鏡である。何を考えているかによって、それまで見えなかったものが見えてくる。ゲルマン共同体の本質は集会に存すという「資本制生産に先行する諸形態」の一節は、私のコモンズ論に大きな示唆を与えた。労働は外的自然を変えるとともに人間の自然も変えるという『資本論』の一節は、活動は人間の内外世界の境界だという私の持論を後押ししてくれた。マル・エン全集を手元に残したのは幸運な選択だったといわなければならない。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年1月15日付掲載
市場で商品が売れなければ労働力の価値は実現しない。労働が価値を生みだす。やはり『資本論』が示した「価値法則」が貫徹。
労働は外的自然を変えるとともに人間の自然も変えるという『資本論』の一節は、活動は人間の内外世界の境界だという私の持論を後押し。
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