Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

攻撃サッカー全盛時代(3/10大宮対FC東京)

2012-03-11 21:23:57 | 他チーム
今年のレッズフェスタで、浦和の橋本社長は「ミハイロ・ペトロビッチ」の名前を挨拶で述べ、攻撃サッカーに期待しているという話しぶりでした。しかし、去年の山形のように守備から入るチームは今年のJ1にはいないのではと思うほど、J1の他カードは思い切った打ち合いが目につきます。ペトロビッチサッカーは決して他チームの先を行く戦術ではないのではと思えるくらいです。

特に、昨日の大宮対FC東京は攻撃サッカーを標榜する両チームの打ち合いでした。去年、残留争いに巻き込まれた大宮は、アウェイの埼スタでは最低でも勝ち点1を取ろうと慎重に入ってきました。しかし、監督こそ鈴木監督で代わっていませんが、今年の大宮は積極的なチームになっています。

大宮にとって、ボランチからの組み立てはなかなかできない課題でした。今年サンパウロから加入したカルリーニョスはその課題に対する解で、フリーでボールを受けることさえできれば、タッチライン際にいる左SBの下平に正確にパスを出せる能力があります。チームメイトもカルリーニョスにボールが入れば何かやってくれるはずと、信じてスペースに走りこんでいます。

また、前の選手の積極性も上がっています。今年は左サイドがチョ・ヨンチョル、下平とボールが持てる選手なので、右MFの渡辺大剛は信じて真ん中に入っていけばチャンスになるとコメントしており、事実思い切ってFC東京のDFからボールを取りに行った場面もありました。ラファエル頼みだった去年より、チーム力は上がっていると思います。

相手のFC東京も思い切って前から仕掛けるチームでした。ACLの影響でこの試合は石川を休ませましたが、誰が出ても攻撃サッカーをやるというポポビッチ監督のサッカーはACLのブリスベン戦でちょっとファンになってしまいました。もちろん、浦和戦では浦和を応援しますが、FC東京は今季J1に新風を巻き起こしそうです。

そんな、思い切って前から仕掛けるチームが多くなると、引かれて持ち味が出ないといったつまらない試合は減りそうで、Jリーグ全体も面白くなると期待しています。
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合併球団は自分しかできない(仰木彬)

2012-03-11 16:37:35 | 他スポーツ
2/29掲載予定の記事をサルベージしたので、多少おかしな点はあるかもしれませんが、ご容赦ください。今回は穴埋めネタで失礼しますが、西武ファンの私には敵でしたが、近鉄、オリックスを率いて強豪チームを作った仰木彬監督の思い出です。

日本は監督という地位は選手として活躍したスーパースターがなるもので、二軍でコツコツと指導者の勉強をした人物が監督になる例は稀です。仰木監督はその稀な例の一人で、現役時代は西鉄黄金時代の二塁手でしたが、打力が弱く守備さえしていればいいと「自衛隊の仰木」というありがたくない異名を持っていました。

仰木監督は近鉄の監督になる前は長く近鉄のヘッドコーチをやっていました。監督が変わることがあっても仰木ヘッドコーチが変わらなかったのは近鉄フロントの信頼の表れで、岡本監督の後任に決まったときはずいぶん地味な名前と思いましたが、近鉄にとっては予定通りの人事だったと思います。

しかし、その地味なキャリアとは裏腹に、仰木監督は派手な性格で演出好きで、劇的な場面がやってくることも多い巡り合わせでした。有名なロッテとのダブルヘッダーの10.19(1988年)はリクルート事件という重要なニュースを抱えていたテレビ朝日がニュースステーションの予定を変えてまで中継して、日本中に感動を与えました。

今の若い方は10.19と言ってもわからないと思うので、試合経過の記憶をたどりますが、このダブルヘッダーは逆転優勝のためには近鉄は連勝が条件でした。最初の試合から仰木監督らしいドラマチックな展開でした。

試合終盤、同点なら9回打ち切りで引き分けになり、引き分けでは優勝できない条件ながら、ベテラン梨田(前日本ハム監督)の決勝打で勝利して、望みを最終戦になるダブルヘッダー第二試合につなぎます。

その第二試合も終盤まで同点の緊迫した展開でした。試合は延長戦までもつれますが、最後は悲運にも時間切れの引き分けで優勝を逃し、西武にV3を達成されます。しかし、翌年同じような西武とのダブルヘッダーで、連勝が逆転優勝の条件だった近鉄はブライアントの活躍で連勝してリベンジを果たします。

その後は神戸に移ったオリックスの監督になり、当時若手だったイチローの登録名を考えたのも仰木監督で、阪神大震災で被災した神戸に優勝をもたらしたことで名将と呼ばれるようになります。

近鉄でもオリックスでも指揮を執った仰木監督は、その後の近鉄とオリックスの合併は胸を痛めたことと思います。合併初年度の監督を引き受けたのは、こんな混乱状態のチームをまとめられるのは自分しかいないという意地だったと思います。

もっとも、この意地は自らの寿命を縮めてしまい、病魔に襲われた仰木監督はそのシーズンオフに帰らぬ人となります。野球は楽しくやろうといろんな選手にチャンスを与えた采配は仰木マジックとも呼ばれ、一時代を作った一人だと思います。
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