先日死去した祖母のことを、たまにはブログに載せてよと祖母が言っている気がしたので、ネタにします。祖母は90歳を過ぎ、十分大往生の部類に入りますが、最後は家族の顔もわからない状態になり、見ているのが辛いこともありました。
臨終は病院からの連絡が急だったので、近所に住んでいた叔母も見ることができず、私も病気で会社は休んでいましたが臨終の瞬間は見られませんでした。少しくらい悔いが残っている方が故人を思い出せると思っています。
祖母の思い出は、専業主婦だったこともあってカレーと煮物の思い出が主です。祖母のカレーと母のカレーは微妙に味付けが異なっていて、祖母はあまり辛くないカレーを作っていました。また、具の大きさも母のカレーより小さめに設定していました。2003年、祖母が頚椎を痛めて歩けなくなる直前、祖母が最後にふるまってくれた煮物が最後の祖母の味になりました。
祖母は野菜を見つけたら一度は煮物にしないと気が済まないという、煮物好きでした。少し醤油を多めにした、辛めの煮物の味付けは今でも記憶に残っています。たまたま、病気で会社を早退し、両親が旅行に出ていたタイミングがピタリと合って、祖母の料理を食べられたのは奇跡でした。
そんな専業主婦を誇りにしていた祖母にとって、頚椎を痛めたことは誇りを守れないと傷ついたことでしょう。祖母がいたキッチンには、代わりに近所に住んでいる叔母がやってきて料理を代わってくれましたが、祖母にとってそれからの日々は辛かったことと推測しています。
また、私の相撲好きにも祖母が一枚絡んでいます。相撲の場合、取組の時間の前の仕切りが長いので、落ち着きのない子供だった私は思わず待っていられないのですが、時間を教えてくれたのも祖母でした。いつか国技館に連れて行くと言っておきながら、ついに実現することはありませんでした。それだけは本当に申し訳ないと思っていますが、浦和巡業を一緒に見られたので、少しは約束を果たしたかもしれません。
祖母も火葬され、あとは納骨を待つだけになりましたが、母や叔母が一日おきに病院を見舞う生活は苦しいだろうと思っていたので、祖母が「もうこの辺でいいよ」と終わりにしてくれたのかもしれません。さようなら、おばあちゃん。
臨終は病院からの連絡が急だったので、近所に住んでいた叔母も見ることができず、私も病気で会社は休んでいましたが臨終の瞬間は見られませんでした。少しくらい悔いが残っている方が故人を思い出せると思っています。
祖母の思い出は、専業主婦だったこともあってカレーと煮物の思い出が主です。祖母のカレーと母のカレーは微妙に味付けが異なっていて、祖母はあまり辛くないカレーを作っていました。また、具の大きさも母のカレーより小さめに設定していました。2003年、祖母が頚椎を痛めて歩けなくなる直前、祖母が最後にふるまってくれた煮物が最後の祖母の味になりました。
祖母は野菜を見つけたら一度は煮物にしないと気が済まないという、煮物好きでした。少し醤油を多めにした、辛めの煮物の味付けは今でも記憶に残っています。たまたま、病気で会社を早退し、両親が旅行に出ていたタイミングがピタリと合って、祖母の料理を食べられたのは奇跡でした。
そんな専業主婦を誇りにしていた祖母にとって、頚椎を痛めたことは誇りを守れないと傷ついたことでしょう。祖母がいたキッチンには、代わりに近所に住んでいる叔母がやってきて料理を代わってくれましたが、祖母にとってそれからの日々は辛かったことと推測しています。
また、私の相撲好きにも祖母が一枚絡んでいます。相撲の場合、取組の時間の前の仕切りが長いので、落ち着きのない子供だった私は思わず待っていられないのですが、時間を教えてくれたのも祖母でした。いつか国技館に連れて行くと言っておきながら、ついに実現することはありませんでした。それだけは本当に申し訳ないと思っていますが、浦和巡業を一緒に見られたので、少しは約束を果たしたかもしれません。
祖母も火葬され、あとは納骨を待つだけになりましたが、母や叔母が一日おきに病院を見舞う生活は苦しいだろうと思っていたので、祖母が「もうこの辺でいいよ」と終わりにしてくれたのかもしれません。さようなら、おばあちゃん。