今朝、新聞に載っていた文字は、レッズ優勝を一瞬忘れるほど衝撃的でした。私の同世代のヒーロー、元大関貴ノ浪の音羽山親方が急性心不全で43歳という早すぎる死を迎えました。若手だった時代から知っている力士なので、あまりの早すぎる死にはショックを受けています。そのため、追悼記事を書きます。
貴ノ浪の四股名は、本名の「浪岡」から一文字取ったものです。貴ノ浪(当時浪岡)の十両昇進が、番付運が良かったラッキーな昇進だったので、当初昇進を予定していなかった藤島部屋が、急遽つけた四股名が貴ノ浪でした。幕内や三役に昇進すれば変える可能性もあると思っていましたが、出世の早さゆえ、その急造四股名を大関の四股名にしてしまいました。
貴ノ浪といえば、長い手足を生かした懐の深い相撲が今でも思い出せます。たとえ、相手にいい位置の下手を引かれても、貴ノ浪の腕の長さでは肩越しにも上手に手が届くので、その上手から技を繰り出すことができました。そのため、貴ノ浪は当時の小兵、舞の海には比較的相性の良さを誇っていました。
優勝は2回で、いずれも貴乃花との決定戦を制したものです。その決定戦で出した「かわず掛け」が、長身の貴ノ浪でなければできない、足を絡めて倒す技でした。かわず掛けとはりま投げは貴ノ浪でなければできないと、当時の相撲界の大型化時代で異彩を放つ存在でした。もちろん、二子山部屋所属で同部屋の若貴兄弟、安芸乃島、貴闘力などと当たらない幸運はありましたが、新弟子時代に勧誘した藤島親方(元大関貴ノ花)が、他の力士に使う「努力すれば強くなるよ。」の「努力すれば」を思わず抜いてしまったほどの逸材は開花したと思います。
貴ノ浪が誇っている記録は、武蔵丸との最多対戦記録です。正確な数字は忘れましたが60回は対戦していたと思います。同い年の武蔵丸は若手時代からのライバルで、幕内昇進も同時、大関昇進も同時期でした。そのため、毎場所武蔵丸と当たるのはデフォルトだったことが、この記録につながりました。本人はこの記録を「勲章」と呼び、大関陥落後も武蔵丸と対戦できる位置をキープすることを目標に土俵を務めていました。
写真は夏場所の勝負審判を務めていた彼の姿です。まだ、親方としてはこれからというときの訃報は残念でなりません。武蔵丸が一番ショックを受けているのではと思います。
貴ノ浪の四股名は、本名の「浪岡」から一文字取ったものです。貴ノ浪(当時浪岡)の十両昇進が、番付運が良かったラッキーな昇進だったので、当初昇進を予定していなかった藤島部屋が、急遽つけた四股名が貴ノ浪でした。幕内や三役に昇進すれば変える可能性もあると思っていましたが、出世の早さゆえ、その急造四股名を大関の四股名にしてしまいました。
貴ノ浪といえば、長い手足を生かした懐の深い相撲が今でも思い出せます。たとえ、相手にいい位置の下手を引かれても、貴ノ浪の腕の長さでは肩越しにも上手に手が届くので、その上手から技を繰り出すことができました。そのため、貴ノ浪は当時の小兵、舞の海には比較的相性の良さを誇っていました。
優勝は2回で、いずれも貴乃花との決定戦を制したものです。その決定戦で出した「かわず掛け」が、長身の貴ノ浪でなければできない、足を絡めて倒す技でした。かわず掛けとはりま投げは貴ノ浪でなければできないと、当時の相撲界の大型化時代で異彩を放つ存在でした。もちろん、二子山部屋所属で同部屋の若貴兄弟、安芸乃島、貴闘力などと当たらない幸運はありましたが、新弟子時代に勧誘した藤島親方(元大関貴ノ花)が、他の力士に使う「努力すれば強くなるよ。」の「努力すれば」を思わず抜いてしまったほどの逸材は開花したと思います。
貴ノ浪が誇っている記録は、武蔵丸との最多対戦記録です。正確な数字は忘れましたが60回は対戦していたと思います。同い年の武蔵丸は若手時代からのライバルで、幕内昇進も同時、大関昇進も同時期でした。そのため、毎場所武蔵丸と当たるのはデフォルトだったことが、この記録につながりました。本人はこの記録を「勲章」と呼び、大関陥落後も武蔵丸と対戦できる位置をキープすることを目標に土俵を務めていました。
写真は夏場所の勝負審判を務めていた彼の姿です。まだ、親方としてはこれからというときの訃報は残念でなりません。武蔵丸が一番ショックを受けているのではと思います。