十年ほど前に発行の一冊からの紹介です。
永六輔著 『伝言』 岩波新書
2004年2月20日第1刷発行
由緒のあるお寺は、日本じゅうにいっぱいありますが、そのなかのひとつに、
越前永平寺というお寺があります。
永平寺の貫首(かんじゅ)さんは宮崎奕保(えきほ)さんという方ですが、
あるとき電話がかかってきた。
「君に会って話がしたい」と言う。
ぼくはとても素直に、こう言ったの。
「あなたが会いたいんだったら、会いたいほうが来るのがふつうなんじゃないですか」
そうしたら向こうで大笑いをしていてね。
「おれは103歳だ。
口は動くけど、足腰がうまく動かない」
103歳って聞いてびっくりして、感動して……
「行きます、すぐ行きます」(笑)
それで、永平寺に行ったんですよ。
本当に頭のはっきりしている、すてきなお坊さんでした。
なんで、宮崎さんが、ぼくに会いたいと言ったかというと、
たまたま、ぼくがNHKの「視点・論点」で「南無阿弥陀仏」の話をしたのを、
宮崎さんがご覧になって、こう思われたというんですね。
「君の言葉づかいを聞いていると、さすがに寺生まれ、寺育ちだと思う。
むずかしい仏教用語は使わなくても、わかりやすく楽しく仏の道を説いている。
それはなかなかいいことだ」
NHKで、ぼくが「南無阿弥陀仏」をどんなふうに説明したかというと……
「ナームというのはサンスクリット語で、(南無)は当て字です。
(あなたについていきます、あなたを信じます、あなたがすきです)という意味。
アイラブユーでもナームでもいいです。
つまり、阿弥陀仏が好きです、阿弥陀仏を信じますと、いうこと。
仏さまは阿弥陀仏だけじゃないんですね。観音さまも如来さんもたくさんいらっしゃる。
日本の神さまと同じで、いっぱいいて、その中のお一人が阿弥陀さん。
この阿弥陀さんの教へのなかで、阿弥陀さんご自身がいちばん大事にしているのが、
(誰かを救うことによって、自分も救われる)という考え方なんです。
そうすると、(南無阿弥陀仏)と言うのは、
誰かを救うことによって自分も救われるという考え方を信じます、ということでしょ。
みなさんがたとえばお寺さんの前だったり、ご法事があったときに言っている、
ナマンダブ、ナマンダブというのは、そういうことです。
むかしと違って、ただ、ナマンダブと唱えていれば救われるという時代ではありません。
誰かを助けてあげよう。そうすることによって、自分がいずれ救われる。
その考え方を述べているのが南無阿弥陀仏です。
だから、南無阿弥陀仏と言っている方をいまふうにいえば、
誰かを救うというボランティアをしているということです。
それが南無阿弥陀仏です」
宮崎さんがこの放送を見ていてくれていたわけです。
そして、こうおっしゃる。
「そういうふうに、わかりやすい言葉で話すのはとてもいい。
仏法では、(法にのっとり、比喩を用い、因縁を語るべし)という言葉がある。
これを君は大事にしてくれている」
「法にのっとり、比喩を用い、因縁を語るべし」とは、
筋道に合わせて、わかりやすく、たとえ話をたくさん使って、
「こういう原因があるから、こういう結果になったんだよ」というふうに、
お話をすることですね。
*宮崎奕保さん
明治34年(1901)~平成20年(2008) 永平寺第78世貫首 曹洞宗管長
井上ひさしさんの言葉
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、
おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことをいっそうふかく」
を、永六輔さんは実践されているんですね。
戦後の日本人は、仏教をお寺&葬式&etc の方に押しやってしまっています。
本当に勿体ないことです。
釈尊や仏法を伝えてきた先人に申し訳ないことです。
どんなご縁でも良いので、生活の中に仏教を取り戻したいものです。
念仏は、声のある坐禅
坐禅は、声のない念仏
最近の、私の思いです。
一人でも、仏教に向かってくれたら、本当に嬉しいですね。
今日も、聞者くりのみ《日乗》に来てくれてありがとうございます。
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