法音カウンセラー 釋 真聴 《日乗》

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里村専精師 「浄土真宗にようこそ」 No66

2016年11月27日 21時12分44秒 | 里村専精師の言葉

里村専精師の「浄土真宗にようこそ」No66をお届けします。

人には、ずっと尋ね続けているものがあります。
幾つになっても、さまざまな状況の中でも、何かが不満なのです。
例えば「世の中銭や」という人の言葉に、何か勝てないものなのですが…。
その言葉を言っている人も聞いている人も、何かが違うという思いをします。
分別(理性)の限りを尽くして生きているのですが、その分別の向こう側に何かを感じています。
そういう感覚のない人は、問題意識の欠落した人というしかありません。
理性(分別)というものは、人間の総ての文化文明の源泉なのですが不完全なのです。
誰もが感じる中途半端な気分なのですが、この気分は生涯にわたって尋ね続けるものです。
人は、誰もが分別に頼りますが、分別で包めないものがあります。
それが一人ひとりの生命の真実というものなのです。
生命というものは、決して理性では包めないのです。
ですから、理性を超えた所から生命は常に訴えかけます。
理性(分別)を超えて常に呼びかけている生命そのものの叫び、それを人は知っているのです。
理性を超えた生命の真実を、私たちはずっと探し続けているのです。
ブッダは、理性を超えて生命の真実に覚めたのです。
それは智慧と呼ばれていて、決して分別(理性)ではないのです。
分別の理解した世界把握を超えて、生命存在そのものが保持している真実をブッダは教えました。
それは理性が把握していようが、そうでなかろうがに関係なく誰にも充分与えられている真実です。
ですからその理解は、真実を把握したというよりは、本来の生命存在に覚めたというべきなのです。
「智慧の念仏」とか「信心の智慧」というのも、智慧の展開です。
分別に遮られている真実に、正しく入る手順(大行)を聞く。
聞法とは、人間の分別を超えた真実を見出す唯一の手がかりだと言われています。

《聞者くりのみ》が関係している学習会です。
ぜひ、お出かけください。

◇カウンセリング研究会【くりのみ】
  *主宰しています。
◇「歎異抄」うたと語り合い      *同人として参加しています。
◇(願海庵)やさしい仏教塾      *同人として参加しています。

日程はコチラから。
   ↓
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kurinomi/calendar/calendar.htm

どなたも参加できる楽しいサンガです。

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