毎田周一の言葉をお届けします。
(毎田周一全集 第六巻より)
発心するとは深山に入ることである。
深山に入るとは、大地の底を究めることである。
地上の生活の奧底を衝くことである。
衆生の苦悩の限りをなめ知ることである。
即ち山とは大地であり、地上の生活であり、やがて衆生の苦悩である。
深とは究めること、涯底を尽くすこと、やがて体験的に知ることである。
深山に入るとは、
衆生の山の如き苦悩を担ふことである。
一身に背負ふことである。
人類の全苦悩を自己一人に引受けることである。
世界苦(Welt-schmerz)をわが苦とすることである。
世界が悩むことは自己が悩むことであり、
自己が悩むことは世界が悩むことであるといふに到ることである。
まさしく西田博士が、
我々の自己が自己自身にふかくなればなる程、
世界の問題が自己の問題となるのである。
(哲学論文集第三、390頁)
先日、ある所で、50歳代の会社員のお方とお喋りをしました。
数年前から、仏教の勉強を始められたそうです。
とても、真面目なお方であります。
しきりに、「仏教が分かりたい」「少しでも真理を感じたい」…と申しておりました。
ボクのレスポンスは、
「仏教でなく、仏道を大事にしましょう!」
「ご一緒に 念仏をしましょう。親鸞和讃をうたいましょう!」
と。
一般に、「深山」と耳にしますと、比叡山・高野山・身延山…を想像しますが、
毎田師の言葉を借りれば「自己の涯底」ですから、“いま・ここ”の自己自身のこと。
「行」は、実践。
「持」は、継続。
「分かりたい」「知りたい」は、不要のようです。