毎田周一師の言葉を拾います。
*教行信証の体系性などに着目するものがあるとすれば、それは馬鹿だ。
「愚禿」に体系があるか。
筋道の通った馬鹿というものが、この世に存在するのか。
*教行信証は愚禿を自覚されたのだ。
極重悪人の自覚の書だ。
言々句々、しかならざるはない。
全き親鸞の自覚の表白だ。
*教行信証に体系性を見出すのと、親鸞の自覚を見るのとでは、天地の隔たりがある。
前者は対象論理、後者は主体の立場だ。
前者は学者の閑事業、後者は生きるか死ぬか、のるかそるかの関頭にたつものが、
必至に求める救済の立場だ。
*後者の立場に於いて、教行信証が言々句々が、生命に輝いて来る。
*この世にある一切の書を、
それが果たして極重悪人の自覚から発して書かれてゐるか否かを検せよ。
それで書物の判定ができる。
(毎田周一全集 第九巻)
声明カウンセラー釋真聴は、同行のお仲間と、
『教行信証』『歎異抄』の音読をすすめています。
また、『親鸞和讃』をうたっています。
ぜひ、お遊びください!