法音カウンセラー 釋 真聴 《日乗》

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「真理の鏡」

2024年12月22日 22時54分38秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一全集 第四巻(P563)から

 即ち名号に於いて私達は自己を見る。
名号といふ真理の鏡に映された自己の姿を見る。
その時映された自己を見るものは、却って鏡自身であり、
真実の自己が見るのである。
称名によって起こる内省・自覚は、
そこに映された自己を見ることによって、
却って私達自身が真実の自己となることである。
 真実の自己とは常に見られた自己の側にはなくて、見る自己の側にある。
今名号といふ真実の自己の鏡に映されて自己を見るとき、
この見る自己が真実の自己であり、それは鏡自身である。
そしてそれは私達自身である。
これが称名によって起こる内容・自覚といふことであって、
即ち私達が真実の自己となることである。
 (略)
 この見ることは鏡自身となること、真実の自己となることである。
真実の自己となって、苦悩の自己を見るのである。
真実の自己はこの苦悩の自己を摂取する。
摂取とはその苦悩自身をわがものとすることである。
共に苦悩することである。
こゝに於いて真実の自己は苦悩の自己となる。

即ち働くものとなる。
見ることによって働くのである。
そしてこれ又称名である。
称名は働くことによって見、見ることによって働く、
即ち行為的直観である。

毎田周一師の教示は、
名号は真実の鏡である。
真実の鏡には苦悩の自分が映される。
称名(なむあみだぶ)は、行為的直観として顕現される。
ということであろう。

「鏡」。
『大無量寿経』、法蔵菩薩の31・40誓願には、次の言葉が見られる。
『猶如明鏡 覩其面像』
  「猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん」
  「ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように」

また、道元さまの『正法眼蔵』には「古鏡」の巻があるのは承知していますが、まだ読んでいません。
新年に勉強です。


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