昨日の続きで、「往相回向・還相回向」についての愚考です。
先ず、くりのみ会で、『顕浄土真実教行証文類』を音読しています。
また、zoom法音道場では、『三帖和讃』を大谷声明でうたっています。
今月中には、『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を一通りうたい終わります。
親鸞さまは、
「教巻」のはじめで、
「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。
一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。
それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
「行巻」のはじめに、
謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。
この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。
しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。
実は、くりのみ会とzoom法音道場のお仲間は、門徒さんでも僧侶でもありません。
もちろん仏教学者のような専門家はいません。
皆さん、ごく普通の市民です。
ですから、「往相回向」「還相回向」について学問的に理解しようともしていませんし、
教学的に領解できるものでもありません。
ただ、親鸞さまが「往相回向」「還相回向」として示された教えを、
ささやかでも日々の生活の中で実感出来たらとおもっているものです。
ですから、「往相回向」に比べて「還相回向」の記述が少ない。
でアンバランスである等の学者さんの議論は関心ありません。
バランスがとれての『顕浄土真実教行証文類』との理解です。
そうは言っても、素人は素人なりに「往相回向」「還相回向」のイメージをあたためているところです。
そこで、くりのみ会とzoom法音道場のお仲間でのイメージの一端、確認事項(仮説)を記します。
*「往相回向」「還相回向」を、いわゆる年表のような線的時間軸や理屈・理論で領解しない。
親鸞さまの「即得(ソクトク)」、道元さまの「而今(ニコン)」の時間軸。
「いま、ここ」の時間軸での領解を大事にする。
*「回向」は、自己の働きではないということ。
道元さまの『現成公案』の中の
「仏道をならふといふは 自己をならふ也。
自己をならふといふは 自己をわするる也。
(略)
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
と重ねて理解してみたい。
即ち、自分の物差しで(分かる)のではない。
自分の経験の世界のなかで、
他の方の(佇まい)(言動)から、(気づかせてもらう)素直なはたらきとおさえる。
*「往相」は、同時代を生きている此岸のひとびとのすがた。
*「還相」は、彼岸の仏様のすがた。
*「往還回向」は、同時代を生きてい此岸のひとびとに彼岸の仏様から届けられた(教行信証)。
*念仏のひとは、自分中心の物差しを忘れられるひとのイメージ。
*お念仏は、彼岸から此岸のひとびとに届けられた(教行信証)に気づかせてもらうこと。
具体的な事例は、そのうちに【落穂拾い】に書きましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます