尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『藍を継ぐ海』へ至る道、「地学小説」の醍醐味ー伊与原新を読む①

2025年03月01日 22時24分03秒 | 本 (日本文学)

 伊与原新(いよはら・しん、1972~)をご存じだろうか? 2025年3月現在、最新の(第172回)直木賞受賞者である。僕も昨年12月まで名前を知らなかった。何でも定時制高校を舞台にした小説を書いていて、それがドラマ化されたという話を聞いたのが最初。その本『宙わたる教室』を見つけた後で、『藍を継ぐ海』が直木賞候補になり受賞した。最近は3年経つと文庫になるから、受賞作だからといって単行本を買うことはほとんどない。でもつい買ってしまって、この人の本を今いろいろと読んでいる。

(『藍を継ぐ海』)

 「伊与原」というのは珍しい姓だなと思ったら、日本には存在しない姓らしい(本名は「吉原」)。この人は作家としては珍しい経歴の持ち主である。東大大学院で理学系研究科地球惑星科学を専攻し博士課程を修了し、2003年から富山大学助教を務めていたのである。つまりホンモノの学者だったのだが、プロットを思いつき江戸川乱歩賞に応募して最終選考に残った。当初はそのように科学に基づくミステリーを書いていたらしいが、その後もっと幅広く「人間ドラマの中に科学を取り込む」方向に進んでいき、高い評価を受けるようになった。『月まで三キロ』で新田次郎賞、『八月の銀の雪』で直木賞候補になっている。

(伊与原新氏)

 森鴎外以来「医者」にして「文学者」という人はいっぱいいる。安部公房などはやはり「科学的」感性がベースにあると思うし、今も医療小説を書く現役医師はたくさんいる。しかし、現役の学者だったという作家は他にいないのではないか。(文系だとフランス文学で博士課程を修了している佐藤賢一がいるが、大学の研究職に就いた経験はない。)しかし、そういう経歴という以上に、「科学」が物語の核に存在する点が特別なのである。中でも著者の専攻から「地学」が取り上げられることが多い。

 つまり、「宇宙」とか「地質」などである。「気象」「化石」から「動物」に広がることもあるし、宇宙の話から必然的に素粒子などに話が及ぶこともある。「化学」「生命科学」方面はほとんど出て来ないが、まあ専門分化が著しいから大変なんだろう。ところで、宇宙とか地質とかの話になると、時間スケールが非常に長くなる。人間の歴史をはるかに越えた対象を見つめることから生じる「壮大な孤独」の詩。短い時間を生きるしかない「人間」の世界に、実は長い宇宙の時間が隠れている。言われてみれば誰でも知っていることだが、普段はあまり意識しない。それを「科学」「エンタメ」「小説」として提示するのである。

(『月まで三キロ』)

 まあ評価された作品をまず文庫で読もうかと『月まで三キロ』(新潮文庫)を読んでみた。6つの短編(+掌編)と逢坂剛との対談が入っている。好みは分れるかと思うが、僕は『星六花』の気象をめぐる話やつくば市を舞台にした『エイリアンの食堂』が心に残った。その短編はラストのオチがなるほどという感じだが、同時に科学者をめぐる厳しい人事状況も忘れがたい。最後の『山を刻む』も日光白根山を舞台に火山研究者を描いていて興味深かった。自分も登っているので土地勘が働くのである。そして主人公にどんな「謎」があるのかという興味でも上手に描かれている。全体に「女性の生き方」を考える作品が多い。

(『八月の銀の雪』)

 次に『八月の銀の雪』(新潮文庫)を読んでみた。直木賞候補になった(受賞は西條奈可『心寂し川』)作品だが、選評を記録しているサイトを見ると興味深い。「科学」を評価しつつも、まだ「人間が描けていない」という評が多い。これが直木賞のキーワードで、こう言われて多くの作家が受賞出来なかった。しかし、小説なんだから「人間を描く」のは当然で、エンタメ系では筋書きやトリック重視の作品が多いのも事実。『八月の銀の雪』は表題の理由が詩的で素晴らしい。『海へ還る日』も科博(名前は違うが)を舞台にアッという小説。『玻璃を拾う』を含めて現代日本で苦闘する様々な女性像が刻まれている。

 そして受賞作『藍を継ぐ海』(新潮社)。『夢化けの島』の山口県見島と萩焼。『祈りの断片』の長崎原爆と向き合う地方公務員。『星堕つ駅逓』の隕石と北海道開拓史。今までの自然科学に加えて、「歴史」への眼差しも加わり一段化けたということだろう。だけど僕は『狼犬ダイアリー』が興味深かった。「狼犬」(おおかみけん)とは何か。紀伊山地で狼を見たという話をめぐる少年と犬の話。僕は犬好きだし、昔動物学者になりたかったぐらいで動物をめぐる話に弱い。『藍を継ぐ海』は徳島県のウミガメをめぐる物語。三作合わせて、女性の自然科学者を主人公にする物語が多いのも特徴。考えさせられる点が多い。

 僕は前から「地学振興」を唱えていて、高校教育の理科の中で「地学」の授業が少なくなった現状を指摘したことがある。日本は地震、火山噴火、台風、集中豪雨などの災害を避けることが出来ない。そんな国で生きている我々は「地学」を学ぶ必要があるはずだ。まあ学校でいくら勉強しても忘れちゃうものだが、伊与原新という作家が現れたことで皆が多くの学べるはずだ。まあ勉強のために読むわけではなく、直木賞受賞作家なんだからとても読みやすくて感動的なのは間違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする