尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「減いじめ」は「学校の目標」ではない

2012年08月29日 00時05分07秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題が数年に一度大問題になると、報道などで「いじめは絶対にあってはならない」と大きなキャンペーンが始まり、「学校でいじめをなくすにはどうしたらいいのか」という議論が起きる。まるで「いじめ根絶」が学校の存在理由であるかのような議論が続く。そうして「学校はいじめに毅然とした対応をせよ」と言い出す人が出てきて、「いじめに対処できない今の教員が問題なのだ」となっていく。でも、いじめは学校が学校である以上根絶できないので、対応を求められる教員の疲弊がますますひどくなる。こういう(いじめ問題に限らないのだが)「負のスパイラル」が学校現場を覆いつくしてから、もうずいぶん経っている。

 そういう議論は教育に害をなすだけで、教育現場を荒廃させるだけである。どうしてかと言う理由はいろいろあるが、そのひとつは学校の対応を短期的なものにしてしまうことである。いじめが起こったら当然「いじめられている生徒」への配慮を第一に考えなければならないが、同時に「いじめている生徒」への支援も緊急に必要だし、「傍観している生徒」への指導も忘れてはならない。そしていじめ対応で疲弊する教員集団への支援も欠かせない。ところが、「いじめをなくすのが教員の責務」という発想だけで考えると、とりあえず今いじめられている生徒へのいじめを止めることにのみ関心が集中してしまう。それが緊急の課題であるのはもちろんだが、「学校の毅然とした対応」でいじめが止まったとしても、いじめる側のケアがなされていないと、しばらくすると標的を変えて次のいじめが始まってしまう。次々に指導を繰り返していくと、いじめ生徒は学校にいられず校外で問題を起こすようになる。「学校で問題を起こされるよりはいい」と考えて、後は警察まかせという発想になってしまう。

 学校だけで考えると、教師はそれでいいわけなんだけど、社会全体で考えると学校が問題生徒を見放すデメリットは大きい。「中学を出てなんとか高校に入り卒業したい」というのは、今の社会で要求される最低水準で、生徒の側でもその価値観を内面化している。中学、高校の段階で学校から排除されてしまうと、今の日本では非常に生きにくい。多くの若者がアウトロー集団で生きるようになると、犠牲も大きいし社会のコストも高い。学校が毅然と対応して問題生徒を校外に追い出すと、結局数年後、数十年後に犯罪の増加や社会保障費の増加につながる。今の日本では、ほとんど報われることもないのに多くの中学、高校教員が時間外労働で多くの若者がドロップアウトするのを最後の最後で救っている。このように「問題生徒への対応」こそが長期的には大変重要なものなのである。

 そういう問題もあるわけだが、僕が一番言いたいのは、そもそも「マイナスをなくす」が学校の目標であっていいのかということである。最近は「いじめをなくす」も学校の大きな取り組み目標になってきて、「思いやりの心を育てる月間」とかが設定されていることが多い。こうなると、もう「学校の目標」に近くなっている。しかし、「小さないじめ」が無くなることはないし、もしあったら教師が見回り、呼び出しを繰り返し、他の教育活動を差し置いても(教材研究や部活指導をほとんどせずに)、「生徒を見張る」ことにエネルギーを費やしている場合だろう。しかし、その結果いじめが全然報告されなくなっても、それが生徒を伸ばしたと言えるだろうか。「悪事」をなさないけれども、「善事」をなす知恵と力も育たないのでは、教育とは言えない

 新聞に載るようないじめ事件は極めてまれである。いじめだけでなく、学校では小事件はいろいろ起こるが、大事件はめったに起きない。ほとんどの教員は何十年も勤めて一度も経験しない。反対に授業や部活での活躍で新聞に載ることも普通の教員にはまずない。すごくいいことにも悪いことにも当たらず、教員生活を終えるというのが大方の教員である。そういう学校の日常のあり方の中では、「大きないじめ問題」がないのは当たり前であって、「遅刻を減らす」がクラス目標になるときはあるけど、「いじめをなくす」は当たり前すぎて学校の目標にはならない。テストの目標が「赤点を取らない」では情けない。それが現実的目標だという生徒もいるだろうけど、大方の生徒はもっと高い目標を立てなければいけない。

 同じように学校としては、いじめやその他の問題行動をなくすというのは当然どの教員の前提ではあるけれど、大きな目標とすることはもっと違うことになるはずである。「マイナスをなくす」ではなく、「プラスをつくる」という方向の目標があるはずである。それは「生徒一人ひとりにあった進路の実現」であるとか、「生徒皆が生き生きと取り組む学校行事の成功」であるとか、「生徒が主体的に学びあう授業の創造」とかなんとかである。言葉にしてしまえば、どういう目標をたてようが、「絵に描いたモチ」である。しかし、それに向けた具体的な生徒の取り組みを作っていくと、そこには大きな違いが表れてくると思う。「マイナスをなくす」を目標にすると、例えば「遅刻を減らす」で言えば、生徒の委員会を動かして遅刻回数比べをして、クラスごと、班ごとに競わせたりする。たまにやると生徒の意識向上になるのは間違いない。でも一年中そういう取り組みだけをしていると、目標にした問題行動自体は消えても、競争で競うために集団規制で消えただけで、生徒の本質は変わらない。自主性が育たないから、他のところで別の問題行動が起こってしまう。

 それにそういう「マイナスなくせ運動」だけやってると、学校がつまらないものになってしまう。教師も生徒もつまらないなあと思いながら、「決まったことだから」と言い聞かせてみんなでガマンする。そういう学校を作ってしまうことになる。学校の日常、授業や日々の生活は楽しいことだけではない。それは間違いないんだけど(集団生活はガマンを強いられる場面があるし、授業は難しく、あるいはやさしすぎ、またはまったく関心が持てない内容の場合も必ずあって、楽しいとは思えない場合が多い。)でも、だからこそ、日常を抜け出す学校行事、特に宿泊行事なんかは楽しいものである。いや、それこそ面倒なことがいっぱいで大変とも言えるけど、学年皆で泊まりに行くと言うことだけでワクワク感があるものだ。(全員ではなく、行事こそ辛いという問題を抱えた生徒もいることは確かだけど。)

 教師は本当はそういう「ワクワク感」を様々な行事をとおして作っていくのが仕事ではないのか。問題行動をなくすということだけを考えるのではなく、生徒とともに「何か充実したもの」を作り出していく。子どもの自主性を伸ばしながら、共に行事や部活動を作っていく。その結果(かどうか誰にもわからないんだけど)、リーダーが育っていって、他の問題行動も減っていく。そして行事などの成功を見て、生徒が自分の学年、学校に誇りを持っていく。その「生徒内世論」がいじめ、仲間はずれなどの行動を内面から抑えていく。そういう「正のスパイラル」を作り出すというのが本当の「学校目標」なのではないか

 今のいじめ(だけでなく)に見られる、教員や生徒に多くの負担を強いる形で「マイナス行動を学校からなくせ」キャンペーンだけでは、学校がますますつまらなくなる。教師がいつも「これはいじめではないか」という目で生徒を疑うようなピリピリした学校になっては、生徒は安心して暮らせない。いられなくなってしまう生徒も出てくる。生徒だけでなく、教員も居づらくなり病気休職が増えていく。教師はホンネが言えなくなり、「今の学校が楽しいとは思えない」という気持ちになり、どんどん転勤していく。そうなってはいけない。

 卒業式を迎えて、この学年でやった修学旅行は楽しかったね、文化祭のクラスの出し物面白かったよね、運動会も合唱コンクールもみんなの力でうまく行ったねと言えるかどうか。生徒をそういう気持ちで送り出し、教員の飲み会では「今年の生徒は楽しかったね」と言える。「そういえば、あんまりひどいいじめ事件もなかったしね」となる。「まあ、小さないじめはあったし、タバコや万引きもあったけどね」。「でも、生徒にリーダーがいたからか、行事もうまく行ったし、大きな事件も起こらずに済んだ。良かった、良かった」と美味しく飲み交わす。そういうのが、あえて言えば「理想」であって、なんで大事件がなかったかは誰にも判らないけど、行事や進路活動は大体うまくいき、生徒も感謝して卒業していった…となるのがいいと思う。

 「いじめをなくす」は「目標」ではなくて、生徒を育てた「結果」だと思うのである。生徒はいじめはよくないと思っているのが圧倒的に多数であるけど、その気持ちを力にできていない。その生徒の力を、行事などで育てていくことで引き出していく。結果、生徒の思いが学年作りの力になっていく。これが本来の学校の目指すものではないかと思う。ここで次に考えるべきことがある。「リーダー育成」「行事の作り方」「学年団の団結」である。このあとはそういう「各論」を書いてみたい。 
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すべての自治体に「子どもオンブズ」を!

2012年08月25日 23時50分52秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「減いじめ」の具体的な話を書いて行きたい。もっとも「いじめをなくすために、どうすればいいのか」という発想自体が間違っている。どういう問いならいいのかは次回にして、まずは本の紹介。

 今回いろいろ考えた中で一番役立ったのは、桜井智恵子「子どもの声を社会へ―子どもオンブズの挑戦」(岩波新書、2012.2)という本だった。出たときに見逃していたけど、これは教育に関わる人、特に自治体関係者などに必読の本だ。著者は教育学専攻の大阪大谷大教授。

 兵庫県川西市の「子どもの人権オンブズパーソン」制度に関わって、「オンブズパーソン」をしてきた体験が興味深く語られている本だ。最後の方は教育思想史をたどって、日本の社会のあり方自体が学校をゆがめてきた歴史がまとめられている。その部分も刺激的けど、やはり「子どもオンブズ」の紹介の意味が大きい。これを読んで、「すべての基礎自治体に、子どもの人権オンブズパーソン制度を作らなければ!!」と強く思った。

 オンブズマンという言葉は、時々マスコミにも載るから聞いたことがあるかもしれない。もとはスウェーデンの制度で、行政を監視するために議会が設置した人々である。「行政から離れた立場で、行政を監視する」という仕組みが必要だということで、世界各地に広がった。「オンブズマン」の「マン」が性差別だと、アメリカで「オンブズパーソン」という言葉ができた。でも、スウェーデン語では「マン」は両性を指しているから「オンブズマン」でいいという意見もあるらしい。それはともかく、今は公的な組織だけでなく、市民運動で行政監視をしている人も「市民オンブズマン」と名乗ることが多い。「行政組織そのものではなく、違った立場で関わる役目」として世界に広がっている。

 川西市というのは、兵庫県東南部にある人口16万弱の市。清和源氏2代目の源満仲が住みついて摂津源氏と呼ばれるようになった由緒のある町である。古田敦也や由美かおるが育った町だという。そこに90年代半ばに「子どもの権利条約」をきっかけにして、「子どもの人権オンブズパーソン」という制度ができた。仕組みや条例そのものは川西市のサイトに出ている。

 この制度では「オンブズパーソン」が一定の権限・強制力を市条例により与えられている。子ども、学校、教育委員会、保護者からの相談を受け、教委、学校に対する調査権・指導権を持ち、報告を課す権限も与え、是正指導できる機関である。子どもや保護者だけでなく、教員にとっても相談機関・対応機関になっている。子ども同士の関係がこじれたり保護者対応がもつれた場合なども多くの相談が寄せられているそうだ。

 そうなるまでには時間がかかったようだけど、今では学校で相談を勧める連絡をするようになった。オンブズパーソンには、弁護士、心理学、教育学などの専門家が選ばれ、別に相談員がいる。子どもからの相談は、いじめと交友関係の悩みが多く、二つで半数を超えている。大人からの相談では、子育ての悩みや不登校が多い。それぞれ3位には「家族関係の悩み」が入っていて、学校と関係のない子どもの悩みを受ける役割も果たしている。

 大事なことは単なる電話相談コーナーではなく、調査権限があり具体的な報告を出して現実を変えていく力を持っていることである。だから、本に出ている事例で言えば、アレルギーがある子にとっての給食の配慮の問題、高校受験校の志望変更を中学が認めなかったケース(出願後に志望変更できる制度が兵庫県にあったにも関わらず、中学校が「転居など特例がないとダメな制度」と誤認して志望校変更認めなかった)などでは具体的な制度上の取り組みがあった。

 でも、やはり「いじめ」の相談が多く寄せられる。その時は「関係に働きかける」という。「人が生きる力を取り戻すために、本人ばかりを励ますよりもむしろ、本人が力を失う元になっている関係に働きかけつつ、その関係が回復するよう支援することが最も有効」だからである。

 「川西オンブズの思想」(33ページ)
 子どもの意見をスタートに、
 敵対するのではなく、対話を重ね、
 関係に働きかけ、衝突を解決するために、
 子どもの傍らに立つ

 同書によれば、この制度はユニセフなどにも注目されている。しかし、僕は全く知らなかった。ほとんどの人はそうだと思う。まだ日本ではほとんど知られていないのではないか。でも、これは全国に必要な制度で、緊急に皆が知るべき制度だと思う。。学校が変わっても、地域の子育て全体を変えることはできない。いろいろな家庭、いろいろな子どもがいるわけだし、学校では様々な問題が起こり続ける。学校を変えることももちろん大切だし、カウンセラーなども必要だけど、実際に行政に働きかける権限を持った第三者機関を制度化するという発想はとても重要だと思う。
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「いじめアンケート」への疑問②

2012年08月23日 23時55分08秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 アンケート的なものはよくあるけど、一体それは誰が見て集計し、どう役立つものだんだろうか。多分、取ってみましたとアンケート自体が自己目的化していることも多いに違いない。学校でも実に様々なアンケート的なものを書かせるけど、一体だれが見て集計するんだろうか

 当然ながら、生徒本人、クラスに関係する調査やアンケート、つまり進路希望調査、クラスの文化祭出し物希望、給食の人気メニューアンケート…なんて言うものは、学級担任がまず見て集計することが多いだろうと思う。普通はそれでいいわけだし、担任に見せるものとして生徒も書いている。

 ところで、今のイジメ論議は本質のところで、大事な問題を落としている。学校は基本的には、教職員と生徒(児童)によって成り立っている組織である。それなのに、「生徒が生徒をいじめる」ケースしか調査の対象にしていないのである。実際は「教師が生徒をいじめる」「生徒が教師をいじめる」「教師が教師をいじめる」という「事件」もかなり起こっている。本当はそれも視野に入れて問題を考えて行かないとまずい。それらの場合は、「いじめ」という扱いを受けていない場合も多い。「学級崩壊」「体罰」「パワハラ」などと呼ばれて、生徒同士のイジメ事件と別扱いを受けることが多い。しかし、実際は学校と言う空間で、強い者が弱い者を見つけて標的にして、言葉や暴力でいたぶり楽しむ(としか思えない)ということが起こっていることで同じなのである。

 だから前回、いじめ調査の都教委サンプルの話を書いたけれど、本当は以下のようなことも聞かないといけない。「あなたは授業や部活動などの中で、先生が生徒に対して暴言や体罰など不適切な言動をしているのを見たり聞いたりしたことがありますか」、「あなたのクラスや学年で、一部の先生の授業だけ授業が成り立たず、先生が注意しても暴言を言ったり席を立ったりすることを見聞きしたことがありますか」。

 まあ本当は教師同士の問題も聞いてみると面白いだろう。「本校の教員の中で、先生どうしの間で悪口を言ったり、先生どうしの関係が心配になるような言動を見たり聞いたりしたことがありますか」。でもこれを生徒に聞いてみる勇気のある学校はほとんどないだろう。生徒もまだ子供で先生同士の関係まで見えていないことが多いし、大人の間のことなんだから生徒に聞かなくてもいいんだろうけど。でも、教師が生徒、生徒が教師、という2パターンは是非聞いてみなくてはいけない。それは生徒同士のいじめとも密接に絡んでいることが多いし、学校として緊急に解決しなくてはいけない問題であることは同じである。

 それで最初の設問、調査用紙は誰が見るのか、という問いに戻る。本来「いじめアンケート」はクラス担任が見てはいけないものなのではないか。そうでなければ、学級担任の対応こそ問題な場合、あるいは担任が体罰教師だったり、生徒に無視されているような場合は、生徒が何も大事なことを書かないだろう。

 しかし、では誰が見るのか?第3者組織を常設するというのが究極的には一番だと思うけど、とりあえずはできない。管理職のみが見るというのも一つの案だが、担任への不満もいろいろ書かれているかもしれない調査を担任本人が見ることができないなら問題だ。管理職の人事考査に利用されてもわからない。それを避けるために、生徒の評判を第一に考えるようなクラス運営になってしまう。まあ、学校の教師全員が信用できないと生徒が思っている場合は、どんなアンケートを取っても無意味である。だからそういうことは考えなくてもいいだろう。そうすると、いじめ問題を担当する部署、例えば生活指導部で自分の学年でないところを見るということになるのかな

 そういうのは学校それぞれで工夫すればいいと思うけど、僕はクラスで配ってその場で書かせるという取り方自体、きちんとした情報が集まるやり方とは思ってない。郵送して家で書いて返送するというやり方をしなければいけないと思う。教育委員会できちんと臨時予算を組んで郵券(切手)を手配するべきだ(というか大量になるから料金別納になるだろうけど。)保護者のアンケートもした方がいいから、送るのに80円、返送に生徒分、保護者分で160円、合わせて240円。1学年の生徒100人として2万4千。3学年として、約10万。それ以上生徒がいる学校が多いだろうし、すべての学校でやるには相当の予算がいる。しかし「いじめアンケート」で情報を得たいんだったらそのくらいの金がかかるということである。

 僕は前回面談しなければいけないと書いたけど、調査用紙に書かせるという方式も全く無意味ではない。しかしそのためには、家に郵送するというやり方をするべきだと思う。特に、保護者の意見はなかなか面談できないので郵送アンケートのやり方しかできない。生徒と保護者と一緒に返送してもらえば予算が助かるが、そういうことができる家庭ばかりではない。いやがる生徒もいるだろうから、別の返送用封筒を用意したほうがいい。

 そしてその調査用紙には、名前は記名、無記名を選べることとするが、学年、クラスは書いてもらい、読んで集計するのは担任ではないことを書いておく。そこまでやる意味があるか。そこまで面倒なことをする必要がない学校の方が多いだろうと思う。でも、もし全校で全生徒に書かせるいじめ調査をするというんだったら、それだけでは形骸化してやったと言うだけの意味しかないのは明らかだから、できるんだったらここまでやるべきだという意見である。

 特に、教師の指導に関する項目こそ本来は一番必要なのではないか。生徒の中の問題を見つけるという以前に、学校の組織としてもあり方なども含めて意見を聞くこと必要だろう。なお、たぶんほぼすべての学校でホームページが開設されていると思う。そこにパスワードを打ち込んで、電子メールで相談、情報を寄せるというやり方をやはり早急に検討するべきだろう。ただ、パスワードは生徒に教えなければ意味ないわけだが、生徒の中にはどこかのサイトに載せる不届き者も出るだろう。また教員は多忙ですぐに見ることができずに、対応が致命的に遅れてしまうことも起こりうる。やっぱり本当に大事な問題は、直接面と向かって言うしかないだろと思う。そのことができやすい仕組みを考えて行くことも大事である。
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「いじめアンケート」への疑問①

2012年08月23日 00時50分13秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 さて、いじめ問題に戻って。いろいろな問題があるんだけど、まずは「いじめアンケート」に対する疑問。この「アンケート」なるものには様々な問題があると思うけど、(大体「アンケート」というべきなんだろうかと思うけど)、最初に書きたいのは「調査方式そのものへの疑問」である。(なお、夏の初めの頃にこの問題に数回書いて、根絶できない学校と言う場所の本質などについて書いてあるので、是非読んでおいてください。)

 こういう問題が起こると、教育行政当局はすぐに責任者を集め、全校で調査を行い報告せよと来る。東京都の場合は、「いじめの実態把握のための緊急調査について」というのを行うこととした。「臨時区市町村教育委員会指導事務主管課長会」と「都立学校臨時校長連絡会」というのを7月17日に行って、全公立学校から報告を求めている。夏休み直前(または学校によっては夏休み中)なので、いつ調査をするのか判らないが。「質問例」と「報告用紙」もホームページに掲載されているので、そうしたもののサンプルとして面白いかもしれない。

 この「質問例」は、まさに例であってそのまま刷っただけでは使えない。それにしても、テレビである中学校の校長が述べていたが、全部書かせる方式なので、このままでは使えないものである。例えば「あなたは、悪口を言われたり、暴力を振るわれたりしたことがありますか。・それは、だれから、いつ、どのような内容ですか。」などということを、プロレスごっこ、メールや掲示板の悪口、仲間はずれなど様々な事柄について同じように聞いて行く。

 これではクラスに配った時に、一生懸命書き込んでいる生徒がいたら、それは自分か友人のことを学校に「チクっている」ということが周りに判ってしまう。本当に何も困ったことがないクラスや生徒は書くことが何もないという調査になってしまう。それでは困るので、誰もがどこかに○をできる方式や意見を書く項目を作るなどの工夫が必要になってくる。もすこし、現場で使いやすい例を作れないものなのかと思ってしまう。

 そういう問題もあるわけだが、それにしても何かと言うと生徒に書かせる「自書主義」というのが、日本の学校の基本となっている。学校だけでなく、選挙も候補の名前を有権者が書く「自書主義」だし、就職には自書した履歴書がまず必要。裁判も(少なくとも今までは)、被告の「自白調書」をめぐって行われることが多かった。とにかく書かせて、文章で残るものが基礎になるという発想は、たぶん識字率が前近代から世界の中で極めて高かった日本社会のあり方に遠因があると思う。現代教育だけの問題ではない。

 で、実際にいじめ(ケンカや万引きや喫煙などなど)があった場合はどうなるかというと、本人を呼んで「事情聴取」、その後「反省文」「謝罪文」などと進んで行く。いじめ、ケンカなどの場合は、「関係修復」に向けた取り組みへ続いて行くが、喫煙なんかの場合だと「自白調書」を取り「反省文」で「二度としない」と「悔悛」を求める。この「反省を書かせて学校で保管する」というのは、現場的には実際に多くの生徒には有効なので、僕も指導法として否定はできない。仮に次にまた事件を起こしても、「二度としないと約束したじゃないか」という「印籠」として機能するわけで、生徒はやっぱり約束を守らなかった自分が悪いと恐れ入ることになる。

 ところで、この「自書主義」方式いじめ調査は、本当に役立つのだろうか。こういうのは「やらないよりはいいのではないか」ということになりやすく、学校では使われやすい。確かにそれで情報が集まることがないとは言えない。でも、大津市の問題が起こった学校では、毎月やることになっていたが、直前のアンケートは多忙で出来なかったという話である。毎月やれば形骸化するに決まってるし、生徒もまたかよと思って大したことは書かなくなる。また例の調査か、テキトーに書いとこうとなるし、また来月あるんだったら今はまだガマンできる段階だから今月では書かないでいいや、となるはずだ。逆効果になりやすい。

 大人だって、例えば異動希望調査用紙を職員会議で配られて、会議中に書いて提出と言われたら、隣の先生にも見えてしまうし、時間もない中で書かなくちゃいけないので反発するだろう。あるいは全国の会社で一斉に「職場への不満アンケート」を行って、それにきちんと書き込む人がどれだけいるだろう。「親子関係」「夫婦関係」なんかは聞かれても答えにくい。まあ大問題になっていなければ、「特に問題はない」に○して終わりだろう。子どもだって当然、いじめのような答えにくい、あるいは自分でもうまく伝えられない問題について、教室の中で書かされても書く人がどれだけいるんだろうかと思う。でも、こういう調査を定例でやっていると、困ったことに「生徒が書いてないから、きっと大きな問題は起こってないだろう」とつい思ってしまうようになりがちなのである。

 じゃあどうすればいいか?抜き打ち的に、いじめに限らず学校にある諸問題を書いてもらうことは大事だと思う。でもそれだけではダメで、基本は「面談」ではないかと思う。もちろん学校にカウンセラーが常駐して、生徒の相談に乗るということも大切である。しかし、そういう問題を自覚した生徒が相談に来るというのではなく、担任の先生と定期的に個別またはグループで面談する機会を作る。三者面談、家庭訪問ではなく、バカ話でもいいから生徒とフォーマルに話す場を確保するのが大事だと思う。そういう時間が取れないから紙を配って書かせるんではないか、というのがいまの学校の状況である。だから今の、授業確保優先をまずやめなければならない。定期テストがあった日に授業をするような学校がいまはあるという変な時代である。そういうのをやめて、また生徒だけで進められるような行事指導を進めていって、時間確保できる態勢を作らないといけない。

 大切なことは、「情報をつかむために面談をするのではない」という原則である。いじめ情報が出てくるかもしれないが、進路希望や部活の話なんかが多くなるだろう。好きな生徒の相談、親への不満、他の先生への不満なんかもかなりたくさん出てくると思う。そういうのが学校社会のベースで、解決しなくても話すだけで大分すっきりするはずである。先生はいつも忙しそうで、問題が起こった場合だけしか向き合ってくれないと生徒が思うようになってしまうと、気を引くためにわざと問題行動に出るということになりやすい。そういうこともかなり起こっているはずである。男子生徒なんかだと話と言っても、自分で見つけたゲーム攻略法とかAKB48論とか、そんなことしか関心がなくてどうでもいい問題をしゃべりまくるタイプもいる。いいじゃないか、たまにはそういう話に付き合ってあげれば。でも大人びた女子なんかだと、教師よりはるかに深い情報を持っていて、驚くべき生徒の変容を教えてくれることも多い。僕は、目の前にいる生徒の問題は、「直接話をする中で見つけていく」というのが大事なんではないかと思うのである。

 時々捕まえてしゃべるのも大事だが、学校行事の中に組み込まないとやりにくい。そういうことも考えなくてはいけない。また、生徒と話していても、その分書類作りの仕事が積み残されるなんだったら、自分の仕事を増やすだけである。授業を短縮にするとかも大事だし、ホントは学校選択制や自己申告書(人事評価制度)なんかをやめればいい。それと教師の方が生徒と話すのが好きなタイプでないとダメである。話しやすい雰囲気を作るとか、さりげなく答えにくい情報を聞き出すテクニックとか、カウンセリング研修のようなことを学校でも積み上げていくことが必要である。

 とにかく、行政の側が本当に生徒を心配し、いじめの情報をつかみたいんだったら、調査用紙に書かせるのではなく、授業を止めて(短縮にして)「生徒全員と面談を行う」ということをするべきだ。それをやれば、学校が本気だということが伝わるはずである。
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いじめが根絶できない理由②

2012年08月01日 20時44分52秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 ちょっと間が空いてしまったけれど、「根絶できない理由」の続き。僕が書きたいのは「学校とはどういう場所か」という問題。「所詮、いじめはなくせない」なんていう「あきらめ論」を書きたいわけではない。もちろん人間の集まるところ、問題が全く起こらない場所を作れるわけがない。だからと言って、全ての問題で「根絶をめざす」と言ってはいけないわけではない。汚職やインサイダー取引なんかは、根絶をめざすべき問題だ。大人が、自分の利害で行う行為なんだから、根絶できないはずがない。(それでも人間は誘惑に弱いから、事件は起こり続けるが…。)

 社会には、教育に関する意見の相違を超えて、「学校は本来いじめがあってはならない場所」という発想が根強いと思う。僕はその発想が根本から間違ってると考える。「学校は本来いじめが多くなるはずの場所」であり、だからそれを前提に対策を立て実施し続けていく必要がある。
 
 大体、学校は未成熟な子どもをいっぱい集める場所なんだから、問題がいろいろ起こっても不思議ではない。子どもは経験が少なく、失うものも少ないのに、若さというエネルギーだけはあったりする。だから、過去の失敗体験を生かして自分を修正できずに、思い込みで暴走したり、ちょっとしたことで強い挫折感を覚えたりする。でも未熟だということは、反面では「変わる可能性を持っている」ということで、だから「反いじめ文化」を育てる教育が重要なのである。(実際、世の中で一番やっかいな「いじめ」は、権力をふるうことに慣れたまま年とって、もう凝り固まってしまった老人による嫌がらせではないか。)

 その「子どもの未熟性」という問題もあるが、僕が一番強調したいのは以下の二つの点である。一つは「学校は子どもを全員集める」という点である。義務教育の小中はもちろん、高校もほぼすべてに近い子どもが所属する。私立に行ったり特別支援学校に行く場合もあるが、数としては地域に住む子どもの多くは地元の学校に通う。義務制の小中は辞められない。転校はできるし、不登校という選択もあるけれど、それでもどこかの小中学校に所属していなければならない。会社を初め大人の集団は、その気になれば辞められる。(ブラック企業ややくざ組織なんかは抜けられないかもしれないが。)「全員所属」に近い場所ほど、問題が起こりやすいのは当然である。徴兵制の軍隊がない現在、そういう場所は「家庭」と「学校」である。続いて「会社」。ほとんどの事件は、家庭か学校か会社で起きる

 子どもが学校にいるのは長くても10時間くらいで、それ以外の時間は家庭や地域で生きている。世界中どこの地域でも何かの問題がある。地域の経済格差や家庭の文化の違い、地域にある差別感情や歴史的に作られた対立感情などは、子どもの中にもインプットされている。生徒は無色の存在として学校に入学するのではなく、地域や家庭の負の歴史を引きずっているのである。学校側が放っておくと、深刻な弱いものいじめにならなくても、弱者をからかう言動が教室に飛びかうことになりやすい。一端そういう言説空間が確立されてしまうと、担任教師が一人で対応することは難しい。(もちろん、生徒が負っているのは「負の歴史」だけでなく、「正の歴史」もある。今はボランティア活動や様々な文化体験を持っている生徒もいっぱいいて、経験を生かして学校で生き生きと活動していることも多い。地域の様々な文化・スポーツ活動が学校と協力して効果をあげている例も多い。)

 ところで今まで書いたのは、学校は地域の生徒が全員来る(問題児もいるだろうし、人間が多ければ衝突も起きる)、その生徒は地域や家庭の問題から自由でないということで、学校と言うところは「外部のマイナスが持ち込まれる場所」だということである。しかし、僕はそれだけでは不十分な理解なのではないかと思っている。学校であるというそのものの中に、いじめが起きやすい構造があるのではないか。いろんな人がよく言うのは、「学校は勉強する場所」という言葉で、勉強やスポーツをしっかりやっていれば、いじめや暴力なんかはおきないらしい。勉強やスポーツそのものが「人格を陶冶(とうや)する」とでも考えているんじゃないか。確かに一流の学者やスポーツマンは人格者が多いかもしれないが、僕らが人生で見聞きするのは、むしろ中途半端に成績が良かったり、部活で上の学校に進んだりする生徒が、上の学校で挫折してしまう場合の方が多い。

 教師はタテマエを言うしかない場合があり、「勉強は本当は楽しい」とか「体を動かすことは楽しい」とかいつも言ってる。僕もまあそう言ってた。いや、僕は社会科教員だから歴史を語っていれば確かに自分では楽しいのである。でも、勉強には評価がつきまとう。評価なしの学校はない。学校での評価は、それより上の学校への進学や会社への就職を考えている生徒には、絶対的な影響がある。学校と言うところは、楽しいメニューもそれなりに用意されてるし、勉強も本来は楽しいんだろうけど、基本的には「生徒が教師による評価を競う場所」である。それも嫌なことをけっこうたくさんしないと評価の対象になってこない。クラスにはいじめっ子タイプもいれば、好きな生徒がいることもあるって言うのに、よりによって人前で英語の教科書を読み上げたり、跳び箱を跳んで見せたりしないといけない。あるいは黒板に出て二次方程式を解かせられたり、リコーダーを演奏して聞かせたりしないといけない。それが嫌じゃないって人には判らないだろうけど、不得意な人にはトラウマになるような出来事が一杯あるのである。だけど、「できる子」だった学校教師、あるいは政治家も官僚も学者もマスコミ人も、そこらへんをあまり感じることができないんじゃないか。

 評価する場所という学校本来の特性からして、悪い評価を受ける生徒はカラカイの対象になるし、スポーツが不得意な生徒は団体競技なんかでは排斥される。それでも人間は生きていく能力を発揮して、強い者と弱いものがうまく交じりあってグループを形成して、リーダーを中心にまとまって生活していく。僕はこの、評価する場所という特性を悪いことだとは思っていない。むしろ試験の成績や目に見える運動能力はまあ評価が納得しやすいし、努力で変えていける。人生の中ではこんな判りやすい評価はあまりない。コミュニケーション能力が問われたり、容姿で落とされたりする就職なんかの方がよほど辛い。評価される側として「評価対策力」を養うのは、学校の授業しかないだろう。でも、その評価するという学校の特性そのものが、生徒集団の中に優劣を生み出し、優越感や挫折感を生む。それが生徒の属するグループの中に、さまざまな葛藤を生み出すから、学校という場所は放っておくと「仲間割れ」「仲間はずれ」が常に起こる。避けられないし、人はそこから学ぶものだと思うけど、同時に注視していないと深刻な疎外感を持つ生徒が出てくる。学校という場所はそのことを判ったうえで対応して行かないといけない場所なんだと思う。

(ではどうすればいいのか、今のいじめ対策には何が欠けているのかなどは次以降。)
追伸。僕の授業に対して「歴史の面白さを感じた」と書いてくれた生徒がいてうれしかった思い出があるが、でもビデオを見せながら面白エピソードを語るようなことばかりしているわけにはいかない。高校段階までは「教科書の知識を注入する」学習も必須である。「生徒が考える授業実践」みたいなことができる学校の方が少ないだろう。「1582年、天下統一目前のAがBに襲われたCの変が起きた」と試験問題を出すと、「識田信長が明知秀光に本熊寺で襲われた」とか書く生徒はけっこういるのだ。僕が忘れられないのは、「ヒラヤマ山脈」(生徒に平山がいたとき)と「水たま病」という答えである。知識の習得方法を学校で学ばせておかないと、自動車免許の学科試験を落ち続ける。
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いじめが根絶できない理由①

2012年07月28日 00時43分17秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめがなくならないという理由について。長くなると思うので2回に。僕がそれを書いておきたいと思うのは、流通している学校論に納得できないものをずっと感じてきているからだ。

 学校現場の多忙化、「競争」を進める教育行政の問題なんかを僕もよく書いてるけど、そういうのは「いじめ問題の解決を難しくしている要因」であって、そもそもいじめが起きる理由ではない。文科省や教育委員会の現場無視の教育行政がなければ、いろんなことがよほどやりやすくなると思うけど、今ほどひどくなかった80年代にも重大ないじめ事件が起こった。

 学校や教育については、ほとんどの人に何か言いたいことがあるものだけど、「右」も「左」も学者や評論家なんかは大体勉強ができた人なんだろうと思う。いじめが問題になると、よく新聞なんかに「いじめられている若者へ」みたいな文章が載ったりするけど、みんな結構むずかしいことが書いてある。

 学校の先生というのもそうで、そりゃあ各教科すべてできたわけではないだろうけど、「勉強が大嫌いだった人」が教員になるはずがない。もちろん僕もそうである。体育や芸術の先生だって、部活ばかりやってたり、いつも一人で絵を描いてるような人も中にはいるかもしれないが、大学を出て教員採用試験を通ったんだから、生徒だった頃に勉強ができなかったわけがない。(体育の先生というのは数が多いので、いろんな人がいるのも確かだが、団体プレーで動くことに慣れているためか、一緒に仕事をしやすい人が多いと思う。)

 だから、教師がいくら生徒の心に寄り添うなどと言っても、勉強やスポーツが本当に苦手な生徒のことをわかるのは難しい。日本社会は「頑張ること」を強要するから、教師も「まあ頑張ろう」と言い、生徒も「判った、頑張る」と答えて、なんか理解しあったつもりになっている。それで大体の時間は平穏に過ぎていくけど、何か事件が起きると両者の距離の大きさが判るのである。

 「右」の側はよく「戦後教育が悪い」などと言う。いじめは戦前にも戦中にもあったんだから、こんな言説にはなんの説得力もない。要するに「学校は教員による秩序があるべきだ」という前提があり、「道徳教育」によって「学校秩序」を維持するべきだとなる。だから秩序が崩れた学校は、生徒を統制できない教員に問題があるとなる。そういう教員がいるのは、「自由と権利を強調する戦後憲法」と「教員の権利を主張する教員組合」のせいである、と続く。今はいちいち反論しないけど、こういう風に「あるべき学校」を自明の前提において、演繹(えんえき)的に議論を進めていって、学校の現実が自分の理想と違っても自分の前提を疑うのではなく、「教師が悪い」と決めつける。そういう発想では、「今の時代のいじめ」に苦しむ子どものリアルに近づけないのは明らかだ。

 一方、「左」というか「進歩的教育学者」というタイプの考え方があって、「こどもは学びを求めている」とか「皆で学び、皆で育つ」とか「学ぶことは本来楽しいものだ」とか、そんな発想をする。僕もそれを全否定するものではなく、「こどもの知的関心を軽んじてはいけない」とは思う。「皆で学ぶ」ための工夫もいろいろ開発されていて、現場で役立てる知恵はたくさん蓄積されている。教員の自主研修が出来にくくなっているが、夏は様々な研究大会が開かれていて、そういうのに行かせてもらえればたくさんのアイディアを持ち帰ることができるはずだ。(最近は教育委員会主催以外の集まりには休暇を取らないと参加させないところが多い。)しかし、そういう工夫をして授業を判りやすく面白くしたり、学校行事を盛り上げたり、生徒の連帯感を育てたりすれば、いじめはなくなるんだろうか。生徒の連帯感が生まれ、学校に「反いじめ文化」が根付いて行けば、確かにいじめレヴェルを下げたり、教員が早期発見できたりする可能性は増える。でも、要するに「減いじめ」に近づいたということであって、現実の学校としてはそれで十分だと思うけど、「いじめそのものをなくす」ことにはならないだろう。

 そうすると、今度は一挙に「人間の本能には攻撃性があり、戦争もいじめもなくせない」などと決めつける人が出てくる。僕はそういう「人間の本質論」にはあまり関心がない。専門が歴史だったから、個別ケースの積み上げに関心があって、理論や哲学にあまり関心がないのである。そういう立場で見ると、人間に攻撃本能があるかどうかは知らないが、「人間の攻撃本能から起きた戦争はない」ということである。全部の戦争は知らないけど、あったら教えて欲しい。その当時の社会システムが戦争を起こすのであって、そうじゃないと戦国時代が長く続いた後で、今度は戦争のない江戸時代が200年以上続く理由が判らない。人間の本能ならいつも戦争がなければならない。社会のあり方が変われば戦争はなくなるのである。いじめも同じで、本能で起こるんだったら、どの時代、どの学校でも起きるはずである。いや、起きているというべきかもしれないが。それでも、軽い段階で終わる場合もあるし、重大な事件になってしまうこともある。その違いは、本能だけでは説明できないだろうと思う。(いったんここで切る。)
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根絶はできないけれど-「減いじめ」のために②

2012年07月25日 22時54分38秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題は今まで何回も数年おきに大問題になってきた。一度大問題が起きると、類似の問題も大きく報道されるから、報道だけ見てると「最近急激にいじめが増えている」と思ってしまいがち。でもそうではなくて、「小さな事件」はいつもどこかで起こっていて、「大きな事件」が数年に一度くらい起きる、ということだと思う。いじめという現象は、僕は学校で根絶することはできない問題だと思っている。それは多くの人もそう思ってるだろうが、報道されると「いじめを起こして申し訳ない」と校長や教育委員会が「謝罪」会見を行う。マスコミは「子どもたちの学びの場である学校で、いじめが起きるということはあってはならない」とキャンペーンをはる。それを見ている子供たちは、「大人はタテマエばっかり言ってる」とますます心が離れていくということの繰り返し。

 根絶できない理由は次回に書くけど、「いじめはなくならない」なんて評論家のようなことを学校の教員が言う必要はない。一人の教員は世界全体に責任を負っていない。他の国、他の学校でいじめがあろうが、要は自分のクラス、自分の学年、自分の学校で、いじめ(に限らず)大問題が起きないことが願いであり、生徒にはそれだけを言ってればいいわけだ。そして目標は、いじめ根絶ではなく、「いじめの早期発見」と「反いじめ文化の育成」である。ある意味、ガンや心臓病対策と似ている。「早期発見」が一つ、もう一つが「病気にならない生活習慣」である。減塩、野菜を食べる、適度な運動と睡眠などなど。(ちなみに食生活の改善、運動、睡眠なんかはいじめ防止そのものにもきっと役立つのではないかと思う。)

 だから大事なことは、「いじめをすべてなくす」ことではない。「減いじめ」と書いたのがそれで、それもいじめの数を減らすというよりは、むしろ「いじめのレヴェルを下げる」ことが大事だと思う。からかい、仲間はずれ、人を馬鹿にする言動などは、人間社会でなくなるとは思えない。それを早期に解決させて、不登校、学級崩壊、さらには恐喝、自殺などが起きないで終われば、それが「成功」であるということになる。最近愛知県の中学で、部活動の人間関係のもつれから、ある生徒に対して「自殺に追い込む会」結成を呼びかけた生徒がいた。メールを複数の生徒に送ったというから、「遊び半分」だったのだろうが、8人が入会に応じたという。しかし、教師に相談した生徒もいて、問題が判ったということらしい。そりゃあ、そんなメールが来れば、中には教師に明かす生徒もいるだろう。それで指導が入って解決に向かったということだから、言ってみればこれは「成功事例」である。だから「学校でいじめが起こって怪しからん」と反応してはいけないと思うけど、この学校に(限らずだけど)「いじめ文化」が存在することも確かである。だから「問題はこの後」なんだと思う。

 今回、報道では教育行政についてあまり触れられていないが、僕は「成果主義給与制度」と「学校選択制」はこの際是非やめてほしいと思う。その問題については別に書きたいと思うけど、公立学校の教員や設備がもともと各校でそんなに違うはずがない。選択できるようにして競争させれば教育がよくなる、なんていうのは単純な思い込みで、数値であらわすことが難しい教育労働の評価は、結局「減点主義」になっていくものである。各教員が校長に成績評価されるだけでなく、教頭(副校長)も校長に、校長自身は教育委員会に、教育委員会(教育庁)の指導主事も皆上司に成績評価され、昇給や賞与に差が付けられていく。それが大体「減点主義」で評価されていくとするなら、自分が勤務してる時には「いじめが起きないように」「起きたらできるだけ軽くするように」という強い圧力になることは間違いない。生徒に信頼されている教員が「軽いいじめ」をどんどん発見したりしたら、「学校のいじめ発生件数」が激増してしまう。

 そういう問題は別にして、僕は「いじめ」とは何を指しているのだろうかと思う。ゲームを貸したけど返してくれない、ジュース代出してあげたけど返してくれない、なんていう生徒間のイザコザはもうしょっちゅう起こっているわけである。友達だから起きるわけだが、それをきっかけにケンカ、絶交したりする。それだけなら「よくある人間関係のもつれ」である。だけど、他の生徒にあの子は性格が悪いと言い触らし、皆で口をきかないようにしようと呼びかけたりする。こうなったら「いじめ」という範囲になってくる。「○○菌」などと言って汚いもの扱いしたり、教科書や靴を隠したり、下駄箱に虫の死骸を入れたりとか…。僕が「いじめ」と言って頭に浮かぶのは、そういうケースである。それ自体は犯罪として立件できるようなものではないが、精神的に追い詰められると、不登校、家出、家庭内暴力、さらには自殺などもありうる。教室や学校のどこかで起こるので、「なぜ教師が気づかない」「なぜ学校で防げない」と言われるわけである

 ところで、「学校で起こったいじめ事件」のように見えても、学校外で起きる万引き強要、恐喝、暴行、自殺強要(殺人または殺人教唆、殺人未遂)などまで行ってるケースも多い。こうなると、本人たちも学校では隠すので、学校ではなかなか真相をつかめない場合も多い。要するに、「いじめ」から「犯罪」へ「発展深化」「凶悪化」したわけである。これは「セクハラ」と「強制わいせつ」の関係に似ている。ハラスメント(いやがらせ)の段階なら職場で防がないといけないけど、実際に襲いかかるような事件は警察に突き出すしかないでしょ。タテマエばっかり言ってても仕方ないわけで、「凶悪化」の兆候があったら直ちに警察に相談するしかないと思ってる。学校外が主たる現場で、犯罪と言うしかないケースは、はっきりって教師では解決できない。仕事の内容が違う。犯罪解決は、それを専門の仕事にしてる機関に任せるしかない。警察沙汰にはならないと「大人をなめている」場合も多いので、教師は腹の底ではそのことを覚悟していないといけない。交通安全教室などで警察の話を生徒に聞かせる機会は毎年一回はあると思うから、交通課だけでなく、少年課や生活安全課の担当にも来てもらって、よくよく言い聞かせておかないといけない。(まあ、大体の学校はやってるんだと思うけど。)
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韓国の事情-「減いじめ」のために①

2012年07月24日 21時54分30秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「いじめ」問題について、少し違う観点で語りたいと書いておいた。何回か、その問題で。まず、「比較いじめ論」が必要だと言う問題。この「比較」というのは、いじめ事件を比べるのではなく、「比較文学」と同じ使い方で諸外国の学校でのいじめ問題、その対処法などを調査研究する必要があると言う話。映画や小説に見る限り、いじめがない学校というものは世界にない。当然だろう。大人の社会で理想を完全に実現している国なんてないんだから、子どもの社会だけ理想的にうまくいってるはずがない。

 そこで、こういう新聞記事。東京新聞7月5日付。韓国で畑澤聖悟さんの劇「親の顔が見たい」が「破格の待遇」で上演され話題になっているという話。世宗文化会館でのロングランだという。


 畑澤聖悟さんと言う人は、青森の現役高校教員で劇作家としても活躍しているという人である。昨年は民藝のために「カミサマの恋」を書いて、僕も感想を「奈良岡朋子のカウンセリング力」に書いた。また勤務校の演劇部でも有名で、昨年は「もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら」という劇を作って東北の被災地を回った。僕は気仙沼の公演を見に行って、「『もしイタ』を見てきて」を書いている。(この劇は東北代表として来月行われる全国大会に出場する。)という風に僕もよく見ている方の作家で、「親の顔が見たい」も数年前に見てる。

 劇は韓国に設定を移し、ソウル市内の中学校で、教室で自殺した女子生徒が加害者5人の名前を書いた手紙を残し…。その親が呼ばれて集まってきて…という筋立てである。生徒は登場せず、親と教師しか出てこない。記事によれば、韓国では昨年末には1か月に3件ものいじめ自殺が報道され、社会は騒然となったとある。そういう背景があれば、この劇が大きな話題になるのも当然だろう。韓国の小説や映画には、教師の暴力や生徒間のいじめなんかが結構出てくる。だから韓国でいじめが大きな問題になっていても不思議な感じはしないけど、昨年にそういう事態が起こっていたとは知らなかった。今からでもマスコミで調査報道を行って欲しい。その後の対策などを含めて。

 北欧はかなり素晴らしい教育をしてそうだけど、フィンランドでも銃の乱射事件が学校で起こっている。デンマークの映画「未来を生きる君たちへ」を見ると、デンマークの学校にもいじめがある。(当たり前だが。)アメリカの高校を描く小説や映画では、スポーツ中心のマッチョ社会で「弱い男子」への厳しいいじめがよく出てくる。ミステリーの「冬、そして夜」(創元文庫)という本には、体育会系男子を頂点にする厳しい差別社会が描かれている。(この作品は傑作。)世界のどこにも、「生きにくい思い」を抱えている若い世代がいるのである。

 中国なんかも、「一人っ子」だから厳しい事情が予想されるけど、教育政策批判、学校批判自体が難しいかもしれない。いじめ問題は、きっと「学校化」社会が前提にあって、学校へ行く(行ける)子供が少ない社会では、貧しい子、学力が低い子、障がいがある子は学校へ行かなくなってしまってそれで終わりなんだろう。日本、韓国は世界有数の進学率で、大学入学競争が厳しいことでも有名である。そういう学歴社会化の問題も大きな背景としては当然あるだろう。今回はどうすればいいというアイディアがあって書いているのではなく、記事の紹介だけだが、諸外国での「いじめ事情」も知りたいし、工夫を知りたいと思う。
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大津市「いじめ」問題②

2012年07月18日 23時41分36秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 続けて書くつもりが、暑くて暑くてバテてしまった。大津市の問題は、この間に賠償請求訴訟の公判や警察への告訴などの動きがあった。ますます書きにくい。どのような「犯罪行為」があったのか、なかったのか、もちろん僕には判らない。ましてや「自殺との関連性」は判断できない。そういう点は、もう学校を離れてしまったので、警察や裁判所で進められていく。僕は教育委員会や文部科学省と言う組織はあまり信用していないが、警察や裁判所はある意味でもっと信用していない。だから、裁判や警察で「真相」が解明されるとは期待してはいない。(裁判所や警察は、真相解明を目的とする組織ではない。だから真相を解明するなどと意気込まれたら、かえって困るけど。)警察が強制捜査(家宅捜索は強制捜査である)に乗り出した以上、何人か「児相送致」になる可能性が高いと判断しているのではないかと思うけれど。(「犯罪行為」の疑いが濃厚になっても、事件当時14歳未満だったというから、児童相談所へ送致することになる。)

 今日書きたいのは、昨年の10月5日にあったという「ケンカ事件」の問題である。このことが報道されたのを見ていると、「いじめを見抜けず「ケンカ」と認定して、(またはいじめを隠ぺいして)、いじめられている生徒を放置してしまったのではないか」というニュアンスが見受けられる。僕はそれは違うのではないかと思うが、しかし、この時貴重な瞬間を逃してしまったのではないかという思いはするのである。こういう時に、学校はどのような対応をすればいいのだろうか?

 僕がよくわからなかったのは、①ケンカと判断した会議がどのような性格のものかその会議が「15分」だったというのは短すぎると思うが、どうしてなのだろうかといったことである。真相は判らないが、教員経験者はどういう風に見るかという観点で、判らないことが多くても書いておく意味があるかなと思う。

 まず、「いじめ」か「ケンカ」かという問題だが、これはそれほど重要なことではないと思う。「いじめ」は重くて、「ケンカ」は軽いということは、学校現場では全くない。「いじめ」は言葉によるカラカイや仲間はずれが多いが、「ケンカ」は学校で暴力を振ったという大問題だから、むしろその後の指導は重くなることが多いのではないか。一過性のカラッとしたケンカは今ではほとんどなく、ケンカといってもいじめ的な部分(弱いものいじめ)が潜んでいることが多い。だから、これは単に報告上の分類をどちらにするかという事務的な問題として、「ケンカ」に分類したということだろう。

 いじめであれ、暴力事件(ケンカ)であれ、学校で起これば、統計上の数として年度でまとめて報告しなかればならない。(もちろん、大事件の際は直ちに教育委員会に報告するわけだが。)それは最終的に文科省でまとめて、だから「いじめが増えた」「減った」などの統計が報道されるわけである。そうすると、学校ごとに「いじめの定義」が違っていては統計が意味を持たなくなる。だから、当然文科省の定めた「いじめの定義」がある。管理職でもないと暗記はしてないかもしれないけど、そういうものがあるということは、現場教員は大体承知しているだろう。それは、文科省の「いじめ」のサイトを見ればすぐ出てくる。そして、知っている人も多いと思うけれど、平成18年度から「いじめの定義」が変わった

 旧定義は以下の通り。
 「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」とする。なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。」

 新定義は以下の通り。
 「本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
 「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「攻撃」「物理的な攻撃」とは何なのかというような問題に対しては、注があるが省略する。この定義を見ながら会議をするわけではないだろうが、一応のベースにこの定義があるわけである。一方性、継続性などの旧定義が消えた反面、本人がいじめられたと言ってるのに学校が認めないということがないような配慮は厚くなっている。そのため、本人のプライドなどで大丈夫、いじめではないと言い張ると、一回の出来事を見ているだけだと「いじめ認識」がしにくい場合があるのではないかと思う。

 カレンダーを調べると、昨年10月5日は水曜日である。普通、職員会議が開かれることが多いが、この日はどうだったのだろうか。職会は隔週の場合も多いと思うが、水曜は大体他の会議(研修等)が入ることも多いだろう。会議がある日なら、その日に生活指導問題が起これば、多忙きわまることになる。その日に、生徒の事情聴取、両者の保護者を呼んでの指導があったというから、それにずいぶん時間がかかっただろう。「ケンカと認定した15分会議」はその後だと言う。教師の会議は生徒のことだと延々と長くなるものなのに、15分だったのは、時間が遅くなったか、他の会議があったからだろう。だからだと思うけど、直接指導にあたる担任、学年主任、生活指導主任などの「関係教員会議」というインフォーマルな組織で話すということになってしまった。

 僕が気になるのは、このケンカがトイレであったとされることだ。事件の統計上の分類を「いじめ」にするか、「ケンカ」にするかは本質的な問題ではない。問題はその後の指導をどう進めていくかというアイディアである。「トイレで起こったケンカ」という事件は、教員だったら、それこそ「何か臭い」「何か臭う」という直観を持つのではないかと思う。肩が触れたというきっかけなら、廊下かなんかで起こるだろう。貸したゲームを返してよというようなきっかけなら、教室で起こっても不思議ではない。ケンカであれ、いじめであれ、当日暴力行為があったわけだけど、その「きっかけ」として生徒が述べたのはなんなのだろう。まさか「連れション」してて口論になったわけでもないだろう。生徒が何を言っても、教員だったら、「教室で言えないことを言うために、トイレに呼び出した」ことを疑うのではないかと思う。喫煙が代表だが、恐喝までいかなくても、「パシリ」に使うような関係は、トイレで形成されることが多い。「事件はトイレで起こる」のである。中学や高校の教員の大きな仕事の一つが、トイレの見回り。

 そういうことは当然、滋賀県でも同様ではないかと思うのだが、だからこそ、その事件の直後の指導がどうだったか。悔やまれるところである。校長は、当日事件を連絡した生徒に事情を聞かなかったのはミスと述べたようだが、これはケンカしている生徒を確保できたら、なかなか見ていた生徒の事情聴取は当日は時間的にもできないだろう。だから、問題は僕の考えでは、事件後にもう少し周りの生徒や家庭の事情を聞く(親にもう一回来てもらい、じっくり家庭の様子を聞くなど。場合によっては家庭訪問も。)機会があった方が良かったと思う。あったのかもしれないが。それを今僕が書く理由は、ただ一点「トイレで事件が起きた」ことである。

 具体的には、学年会や生活指導部会だけではなく、もう少し広い会議の設定が有効なのではないか。学校の会議は、全員で行う「職員会議」、学年の正副担任による「学年会」、校務分掌ごとに行う「分掌部会」(この場合は、生活指導事案なので「生活指導部会」の担当になる)が中心である。また、同じ教科教員による「教科会」などもあるし、「○○委員会」というのもたくさんある。(「防災委員会」など。)この学校で行われた道徳研究にあたっては、多分「研究推進委員会」のようなものが組織されたのではないかと思う。そういう風に、学校では毎日のように会議が行われ、今では「情報公開」だから、全部書類を整えておかなくてはならないので、書類作りに忙殺されているわけである。でも、個々の事件を検討する場合は、学年や生活指導部が中心になるのは当然だが、学年以外の教師や養護教諭が非常に重要な情報を持っていることが多い。できるだけ多くの人の目でみると、点でしかなかったものが面に見えてくることも多い。

 だから、生徒関係では、「できるだけ多くの教員で話し合う」ことが大事だと思う。でも、教えていない他学年の教員には本人の名も知らない場合も多い。そういう人も含めて全員出席を義務付けると、無意味に多忙を助長することになる。ある生徒や事件に関して情報収集、指導案検討を行う集まりを、最近はよく「ケース会」と呼ぶのではないかと思う。(医療や福祉関係から来た言葉だろうか。)この「ケース会」を「拡大ケース会」として開くようにするといい。今回の場合は、いろいろと忙しかっただろうけど、7日(金曜だから多分学年会の日かな)か、10日に開くようにする。その間に、できるだけ担任ともう一人(学年主任か生活指導主任か教頭)が家庭訪問して臨む。「拡大ケース会」の出席者は、学年教員と生活指導部、および養護教諭は必須。それに、その生徒を教えている教員や部活、委員会などで知っている教員の中で出席できるものはできるだけ出るという感じ。そういう提案がどこかからあったら良かったのではないかと思う。もし似たような場合があったら、一日程度を他の生徒の事情聴取に当てて、その後に「拡大ケース会」を開くのがいいというのが、僕の考えである。その場にいたら提案できたかどうかは判らないけれど。

 僕が具体的なことを書いてても仕方ないので、今後は「いじめ一般論」に論点を移してまた少し書きたいと思う。なぜなら、「いじめ問題の語られ方」には今の教育論議がよく表れていると思うからである。「いじめ」を解決したいと思うならば、「教員いじめ」の政策をまず転換する必要がある。また、「少数者の声を敏感に受け止められるアンテナの感度」を教員が上げていくと言う問題にもつながっていくからである。
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大津市「いじめ」問題①

2012年07月16日 21時41分39秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 滋賀県大津市の中学校で起こった「いじめ」事件。この問題について思うところがあって、書いておきたいと思う。長くなるので2回に分ける。裁判のところで書いたけど、僕は個別ケースにはあまり触れたくないのである。それは「この世のできごと」というのは、部外者にはなかなかつかみにくいからである。このケースでも、警察が捜査を開始しているし、新聞やテレビなど専門の報道機関に当面は任せておけばいいんだけど、僕が書く意味も少しはあるのではないかと思う。

 こういう学校現場の「失敗」事例(対応が不適切だったかという検証をするまでもなく、全国的に報道されていることが「失敗」事例であることを示している)を見聞きすると、教員経験者はいつになっても心が落ち着かなくなるのではないかと思う。中には「経験者の知恵」みたいな投書をする元教員なんかもいるけど、多くの人は「口が重くなる」のではないか。多くの素晴らしい体験もできる教員という仕事だが、同時に「失敗体験」をしていない教員もいないだろう。(もし、私には失敗体験はないという人がいたら、それはそもそも大したこともしてない教員か、自分に都合の悪いことは忘れてしまえる「幸せな人」なのだろう。)「いじめ自殺」という経験がある人はさすがにほとんどいないだろうが、なんだかちょっとした一言でトラぶったり、進路指導を失敗したかなというような記憶が、ニュースを見るとよみがえってくるのである。「教師というのは、そういう職業である」ということは、多くの人が知らないことなのではないかと思う。

 さて、この中学校は、平成21・22年度の文部科学省指定の「道徳教育実践研究事業」の推進校だった。ホームページに大部の研究のまとめが掲載されている。関心がある人は見てみるといい。ちなみに「研究主題」は「自ら光り輝く生徒を求めて~心に響く道徳教育の実践」である。校長名が違っているので、沿革を見てみると、研究発表翌年度の昨年4月に校長が替わっている。もう2年経っているので、異動している教員も多いのではないかと思うが、この「いじめ」事件のポイントは、この「研究指定校」にあるのではないかと思う。自殺した生徒が所属する学年は、現3年で、事件当時は2年。つまり、研究事業のまとめ当時1年生だった学年である。1年生の時の11月に、全校授業公開があり、2月には研究のまとめとして、最後の授業公開が1年生だけ行われている。

 さて、これだけではよく判ってもらえない人が多いと思う。「よりによって道徳の研究をしてた学校で、いじめがあるとは、なんと皮肉なことだろう」とは思うだろうが。この話を僕は東京新聞の朝刊で知ったのだが、この問題を関連付けて深く追及してはいなかった。でも、何人かの人は、「そうか、やっぱり文科省指定校やってたのか、じゃあ問題が起こるわけだ」とこの話を聞くと思うはずだ。何も道徳に限らないと思うが、文科省の指定を受ける研究はものすごい負担が学校現場にかかるのだ。それはホームページのまとめを見てもらうのが一番いいだろう。どのくらい研修をやって、どのくらい公開授業をしたかがわかる。夏休みも校内研修があるし、大体このような長い報告書を作ったということ自体が大きな負担である。組織作り、講演会、資料作りなど、ものすごい負担。「道徳」は全教員で担当するから、教科を問わずすべての教員が関わらなければならない。

 「研究指定校の現場負担」を僕が書けるのは、経験者だからだ。新採教員として赴任した学校は、道徳教育の研究1年目だった。それから2年間、とにかく大変だった。おかげで「指導案の書き方」には詳しくなったので、後々まで細かいことが言えるようになった。教師にはもちろん、生徒にも全くプラスがなかったとまでは言えないだろう。でも、忙しかった。生徒のことは二の次になってしまう時期もなかったとは言えない。そして、その後荒れた。いわゆる「校内暴力」に時期にあたったこともある。教員側も研究が終わった後にすきがあったとも思う。直接の関係があるとは言えないかもしれないが、研究事業と荒れは多くの教員の心の中で結びついてしまった。今でも心の傷になっている経験である。このような「文科省指定校」を受けて、その後、教員集団と生徒との間に心の隙間が生じた学校というのは、けっこう多いのではないか。教育界では割と聞く話ではないかと思う。

 どうしてそうなるかというと、とにかく「多忙」。もともと多忙な上に、研究のための研修がある。それぞれの教員の過大な負担がかかってくる。時には授業をカットして準備せざるを得ない時もあった。(今はそれもできないかもしれず、そうなるともっともっと大変だ。)放課後は会議が連続するので、補習や部活動、教育相談、あるいは単なる生徒とのおしゃべりなどの時間が削られていく。その分、生徒の情報が入らなくなる。それが当たり前になってしまうと、生徒の側も教員に情報をあげなくなる。この「いじめ」問題を見ていて、教員側に情報が入りにくくなっていたと思う部分があるが、その一因は1年生の時の「研究事業」の後遺症ではないのか

 それと、特に「道徳」となると、触れるのが難しい問題、あるいは表現に気を遣う問題がかなりある。例えば、「国を愛する心」「日本人としての自覚」などのテーマをどう扱うか。もちろん、初めから入っているので何か触れないわけにはいかないわけだが、どういう資料を基に授業を組み立てるか。全国に向けた発表だから、表現には細心の注意を払わないといけない。そのため、学校で作った元の授業案や解説部分に対して、市教委の赤が入り、県教委の赤が入る。場合によっては文科省から再考を求められるかもしれない。そうなっては困るので、県教委、市教委は極めてナーバスにならざるを得ない。学校現場は上からの指示で振り回されるのである。そういうことがあったかどうかは知らない。だから本来は個別ケースには触れたくないわけだが、自分の何十年も前の経験とその後の教育界の動向から、多分そんなこともあっただろうと僕は思うのである。

 そういう風に研究事業に振り回される学校の様子をずっと見てきたのが、今いる中では研究発表を経験している唯一の学年である3年生。(事件当時の2年。)先生の様子を見ていると、生徒より市教委、県教委が重要なんだというのを見て育った学年である。このように、本来は学校の名誉ともいうべき文科省指定で全国に向け研究発表をするという出来事が、かえって教師や学校への不信を抱かせるきっかけ、あるいは両者の間にある隙間を広げる役割を果たしてしまったのではないか。かなりありうる想定だと学校にいた人は思うのではないか。

 ところで、3年生は進路を抱えた最終学年である。自殺事件後、生徒会を中心にした取組を進めているともいう。アンケートを見聞きする限り、一人では力になりにくいかもしれないが、正義の心、思いやりの心が一杯現れている。しかし、マスコミや「ネット世論」を見聞きして、傷つき恐れ心配になっていると思うし、学校への不信もあるだろう。でも、進路を乗り切る時に一番身近で心配してくれるのは、担任であり、学年の教員であるのは間違いない。「いじめ自殺が起きてしまった学年」は、同時に「学校再建初年度学年」であり、再建に向け誇りを持って進んで行って欲しいと思う。マスコミをそういう部分を応援して報じて欲しいと僕は思う。
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このとんでもない高知の私立中

2012年06月06日 21時20分59秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 ちょっと驚くべき記事を新聞で読んだ。ネットで新聞を検索しても、僕が「とんでもない」と一番思った点が出ていない。見逃している人も多いかと思い、あえて紹介しておく次第。

 新聞記事は朝日新聞(6月6日付第3社会面)にある、「中学に賠償命令 高知地裁『自殺調査を怠る』」と言う記事である。学校は高知学園が経営する私立高知中。
 産経新聞のサイトから裁判の内容を見てみると、
 「2009年に自殺した高知市の中学1年の男子生徒の両親が、いじめが原因だった疑いがあるのに調査を怠ったとして、学校法人高知学園と当時の担任教諭ら2人に計800万円の損害賠償を求めた訴訟」で、判決は学校側に190万円の慰謝料を認めるというものだった。
 両親は「死亡は自殺によるものという事実を伏せて、学校内で実施した調査は不十分」と主張。学校側は「調査は十分だった」と反論し、自殺の非公表は他の生徒が受ける影響の大きさを考慮したためとした。

 遺書はなかったけれど、「通夜の際に友人が『先輩が(男子生徒に)死んだらいいと言っていた』と手紙で遺族に伝えた」という事実などがあったので、両親はいじめがあったのではないかと学校に全校調査と報告を求めた。(当然でしょうね。)しかし、学校は自殺の事実を伏せて一部の生徒からの聞き取りにとどめた。

 判決は「自殺の事実を多数の生徒に伝えたうえで、いじめや嫌がらせの有無を全校的に調べる義務が学校にあった」と認定した。このような義務が裁判で認定されるということは、今では当たり前のことで各学校、各教員はきちんと認識していなくてはいけない。

 ところで、これだけだったら、とんでもないことだけど驚くほどでもないだろう。まあ日本のどこかには、いじめで自殺する子供もいて、きちんと対処しない学校もあって、裁判になることも残念ながら時にはあるかと思う。

 とんでもないことが書かれているのは、そのあとの新聞記事。
 さらに担任教諭が霊媒師の話として、「男子生徒は3年前から死ぬことに興味を持ち、今は騒ぎになったことを後悔している」などと伝えたことも、「生徒の人格の冒瀆で、魂の平安を願う両親への配慮を欠いた」と判断した。

 おいおい、この学校では生徒がなんで自殺したのかを、霊媒師を使って調べようとしたのかい。ってことは、霊媒師に金を払って、「死んだ生徒の霊」を呼び出してもらった、ということだよね。そしたら、いじめ自殺ではなくって「死への興味」だったんだと霊媒師を通して生徒の霊が語った、と。

 「霊」というものがあるのか、「死後の世界」があるのか、「霊媒師」が死後の霊にコネクトできるのかなどの問題には、人それぞれ様々な考え方もあるかと思うけど、この問題に関して言えば「呆れ返ってものも言えない」というしかない。

 生徒が自殺したという悲しい出来事があり、いじめかどうか、学校にも責任があるかどうか、いろんなことがありうるわけだけど、誰が今の日本で「生徒の霊を霊媒師に呼び出してもらって聞いてみよう」などと思うんだ。この学校と教師は、とんでもないとしか言いようがない。
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