尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「世界映画ベストテン」の変遷ー「サイト&サウンド」1952~2012

2022年12月28日 16時23分43秒 |  〃  (旧作外国映画)
 世界映画史上最高の映画は何だろうか。それは人それぞれ違う考え方、感じ方があると思うけど、一応の目安というものがあるのだろうか。世界各国で映画賞やベストテン選出などが行われている。ある程度、映画の完成度には共通の感覚があるということだろう。それでも「世界映画」全体となると、そもそも世界各国の映画を見られる地域が限られている。世界には自由に映画を見られない地域はかなり多い。自由に映画を見て論じられる環境がある社会だけが「世界映画」を論じられる。

 実はイギリス映画協会の「サイト&サウンド」という雑誌が、1952年に始まって10年ごとに「世界映画ベストテン」を選出する試みを続けている。それは偏った部分もあると思うけれど、そこも含めて「世界で映画がどのように見られて来たか」を示すものとなっている。10年ごとというと、つまり2022年が最新の選出年である。今年の結果はある意味で当然、ある意味で衝撃的なものだった。それを紹介する前に、まず1952年から2012年までを振り返ってみたい。(批評家選出部門を見る。)

 以下、題名と監督名を示す。最初に出て来たときだけ太字にしてある。つまり、1952年は全部太字だが、それ以後は新たに入選した作品だけが太字。当然ながら、その年以後に作られた映画は入らない。しかし、それ以前の映画でも新たに評価が高くなった映画、逆に評価が落ちた作品が存在する。例えば1962年から2002年まで1位に選ばれたオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)は1952年には選ばれていない。その後に、この映画の革新性と完成度の高さが世界で認められて行ったのである。
(『市民ケーン』)
1952年
自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ)②街の灯(チャーリー・チャップリン)③チャップリンの黄金狂時代(チャーリー・チャップリン)④戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン)⑤イントレランス(D・W・グリフィス)⑤ルイジアナ物語(ロバート・フラハティ)⑦グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)⑦陽は昇る(マルセル・カルネ)⑦裁かるるジャンヌ(カール・ドライヤー)⑩逢びき(デヴィッド・リーン)⑩ル・ミリオン(ルネ・クレール)⑩ゲームの規則(ジャン・ルノワール)
寸評 イタリアの「ネオ・レアリズモ」の代表作『自転車泥棒』がこの時だけベストワン。チャップリンの古典が高く評価されているのも時代を感じさせる。無声映画が半数ほどを占めるのも古い感じがする。

1962年
市民ケーン(オーソン・ウェルズ)②情事(ミケランジェロ・アントニオーニ)③ゲームの規則(ジャン・ルノワール)④グリード④雨月物語(溝口健二)⑥戦艦ポチョムキン⑥自転車泥棒⑥イワン雷帝(セルゲイ・エイゼンシュテイン)⑨大地のうた(サタジット・レイ)⑩アタラント号(ジャン・ヴィゴ)
寸評 初めてオーソン・ウェルズ『市民ケーン』がベストワンに選ばれた。またアントニオーニ『情事』が1960年の映画にもかかわらず2位に選ばれている。日本映画で溝口健二『雨月物語』が4位入選。以後、毎回日本映画が選出されている。

1972年
①市民ケーン②ゲームの規則③戦艦ポチョムキン④8 1/2(フェデリコ・フェリーニ)⑤情事⑥ペルソナ(イングマル・ベルイマン)⑦裁かるるジャンヌ⑧偉大なるアンバースン家の人々(オーソン・ウェルズ)⑧キートン将軍(バスター・キートン)⑩雨月物語⑩野いちご(イングマル・ベルイマン)
寸評 『市民ケーン』が1位、『ゲームの規則』が2位というのがこの後しばらく定着する。『ゲームの規則』は日本では岩波ホールで1982年公開と遅れたが、フィルムセンターで見ることが可能だった。確かにジャン・ルノワール監督の最高傑作だと思う。ベルイマン作品が2本入選しているのも70年代を思わせる。
(『ゲームの規則』)
1982年
①市民ケーン②ゲームの規則③七人の侍(黒澤明)③雨に唄えば(スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー)⑤8 1/2⑥戦艦ポチョムキン⑦アタラント⑦偉大なるアンバースン家の人々⑦めまい(アルフレッド・ヒッチコック)⑩キートン将軍⑩捜索者(ジョン・フォード)
寸評『雨月物語』に代わって、日本映画では『七人の侍』が選ばれた。またヒッチコック『めまい』、ジョン・フォード『捜索者』が初選出。二人ともたくさんの娯楽映画を作った監督だが、この頃からこの2作がそれぞれの代表作と見なされるようになった。公開当時はどちらも不評で失敗作と見なされていた。
(『めまい』)
1992年
①市民ケーン②ゲームの規則③東京物語(小津安二郎)④めまい⑤捜索者⑥アタラント号⑥戦艦ポチョムキン⑥裁かるるジャンヌ⑥大地のうた⑩2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)
寸評  欧米への紹介が遅れた小津安二郎だが、80年代に「発見」され『東京物語』が上位選出の常連となった。またキューブリック『2001年宇宙の旅』が公開20年以上経ってベストテンに入り、以後常連となる。
(『東京物語』)
2002年
①市民ケーン②めまい③ゲームの規則④ゴッドファーザー(フランシス・フォード・コッポラ)⑤東京物語⑥2001年宇宙の旅⑦戦艦ポチョムキン⑦サンライズ(F・W・ムルナウ)⑨8 1/2⑩雨に唄えば
寸評 公開30年目で『ゴッドファーザー』が入選した。一方で1927年製作の無声映画『サンライズ』が初めて入選。『戦艦ポチョムキン』とともに無声映画が2本となった。

2012年
①めまい②市民ケーン③東京物語④ゲームの規則⑤サンライズ⑥2001年宇宙の旅⑦捜索者⑧カメラを持った男(ジガ・ヴェルトフ)⑨裁かるるジャンヌ⑩8 1/2
寸評 ヒッチコック『めまい』が7位、4位、2位と上昇してきて、ついに2012年にベストワンになった。5回トップの『市民ケーン』が2位、『東京物語』が3位である。またソ連のジガ・ヴェルトフが1929年に作った実験的ドキュメンタリー映画『カメラを持った男』が選ばれたのも特徴的。

 この順位が絶対の基準だとは僕は全く思わない。ヒッチコックの『めまい』が世界映画史上のトップなのだろうか。ヒッチコックの中でも他に素晴らしい映画があるのではないか。『市民ケーン』や「東京物語』『ゲームの規則』の方が社会性を考えて評価するとずっと上だと思う。それよりもフェリーニなら『甘い生活』、ゴダールの『気狂いピエロ』などもっと好きな映画はいっぱいある。それでも一応の目安として、映画を見るときの参考にはなるかもしれない。(ところで、『カメラを持った男』は未だに見てないんだけど。)今回は資料編で、続いて2022年版を紹介したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポール・ニューマンの映画を見るー今も面白い傑作揃い

2022年11月01日 22時47分21秒 |  〃  (旧作外国映画)
 アメリカの映画俳優ポール・ニューマン(Paul Newman、1925~2008)の主演した映画4本が「テアトル・クラシックス ACT.2 名優ポール・ニューマン特集」として上映されている。昔の映画が大きなスクリーンで見られる機会があれば、ついつい出掛けてしまう。4本全部見て、ものすごく面白かった。宣伝コピーは「映画史上最も愛された “碧い瞳”の反逆児。タフで繊細、クールでチャーミング、世界が憧れたハリウッド伝説のスターに、この秋、魅了される!
(画像は『暴力脱獄』)
 ポール・ニューマンは、ほぼ20世紀に活躍した俳優だった。21世紀初めに『ロード・トゥ・パーディション』(2002)でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたが、それ以後は声優などが少しあるだけである。やはり思い出すのは、60年代の「反抗する若者」像だろう。1982年には趣味を生かした食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立、自分の名を冠したドレッシングやパスタソースを販売、収益は全部恵まれない子どもたちのために寄付している。民主党支持のリベラル派としても知られていた。妻は女優、映画監督のジョアン・ウッドワードで、おしどり夫婦として有名。まるでスキがない見事な人生で、没後10年以上経ったが生前のスキャンダルなど報じられていない。それでも成功までには時間が必要だった。

 アクションで売り出したがベースは演技派。沖縄戦に参加したギリギリ戦中派で、戦後になって大学に通い演劇に力を入れた。舞台やテレビで認められ、1952年にジェームズ・ディーンマーロン・ブランドとともにアクターズ・スタジオに入所した。しかし、二人が売れた後でもポール・ニューマンはなかなか認められなかった。何となく判る気がする。二人にあるような「クセ」がないのである。美男子過ぎて、影のある役柄に向かないと思われたんだろう。ディーンが事故死したため、ボクシング映画『傷だらけの栄光』の主役が回ってきて初めて大役をつかんだ。それ以後は順調に出演を続け、アカデミー賞主演男優賞に8回ノミネートされたが、受賞したのはノミネート7回目の『ハスラー2』(1987)だった。

 以下、4本の感想を簡単に。まず『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid、1969)で、僕はこれを1970年の公開時に見ている。当時は中学生で映画ファンになったばかり。「アメリカン・ニュー・シネマ」の代表作と言われ、とても大きな影響を受けた。その後、一回リバイバルされたときに見ていて、今回3回目。1890年代西部のギャング団「壁の穴」を描く。ポール・ニューマンがリーダー格のブッチ・キャシディで、相棒のサンダンス・キッドは当初予定のスティーヴ・マックイーンが出られず、ロバート・レッドフォードが選ばれ出世作となったのは有名。ジョージ・ロイ・ヒル監督。
 (明日に向かって撃て!)
 僕はただひたすら好きな映画で、見ていると思い出が蘇る。サンダンスの恋人役のキャサリン・ロスも良かった。ポール・ニューマンがキャサリン・ロスを自転車に載せるシーン、有名なテーマソング「雨に濡れても」が流れる。案外すぐ出て来るのに驚いた。非情冷酷なギャングの話だけど、時代に追い抜かされてボリビアに流れていくところが心に沁みるのである。もっともこの前読んだブルース・チャトウィンパタゴニア』には、まずアルゼンチンに行ったという話が書かれていた。作品がどうのという以前に、懐かしくてまた見たい映画。

 1961年のロバート・ロッセン監督『ハスラー』(The Hustler)は実は初めて見た。ビリヤードをする人を日本で間違ってハスラーと呼ぶぐらい有名な映画だ。(「ハッスル」は「頑張る」という意味で使われることが多いが、俗語でばくちで稼ぐという意味がある。)エディはハスラーとして王者ミネソタ・ファッツに挑戦するために出て来て、負ける。サラ(パイパー・ローリー)と出会って一緒に住むようになるが、それでも賭けることを止められない。その破綻ぶりがすさまじく、悲劇につながる様を見つめていく。場を仕切っているバートを演じるジョージ・C・スコット成田三樹夫みたいだった。サラ役のパイパー・ローリーが「彼が美しいから、撮影中に気が散った」と語ったという。そんな美形なのに破滅するのである。
(ハスラー)
 『熱いトタン屋根の猫』(Cat on a Hot Tin Roof、リチャード・ブルックス監督、1958)は実に面白かった。テネシー・ウィリアムズの有名な戯曲の映画化。ポール・ニューマンは、南部の金持ちの一家の次男ブリックを演じて初めてアカデミー賞にノミネートされた。妻のエリザベス・テイラーとうまく行かず、兄とも揉めている。一家の父が病院から戻ってきて誕生日パーティを開く一日の話。セリフの応酬による緊迫感がものすごく、ポール・ニューマンの演技力にしびれる。テネシー・ウィリアムズは同性愛者で知られ、この美男美女カップルがうまく行かない背景にもそれが暗示されているという。ただ50年代の映画なので、ほのめかしに止まりラストも安直。ここでも酒浸りの役で、こういう虚偽に敏感なため破綻する役が似合う。
(熱いトタン屋根の猫)
 『暴力脱獄』(Cool Hand Luke、スチュアート・ローゼンバーグ監督、1967)こそ面白さだけなら随一。ここでも泥酔した破綻者ルークを演じている。器物破損で刑務所に送られ、刑務所では先輩囚人にいじめられる。やがて周囲に認められるが、今度は徹底して看守にいじめられる。これぞ60年代末の反逆映画。昔テレビで見たと思うが、大画面で見ると面白さも倍増。卵を50個食べられるかどうかの賭けの場面など名シーンが多い。それにしても、ここまでやるか的な反抗のあげく、破滅に向かっていくのはヴェトナム戦争時代のアメリカという感じ。刑務所の顔役を演じたジョージ・ケネディがアカデミー助演賞を受けた。
(暴力脱獄)
 ポール・ニューマンは、僕にはアメリカの「ある時代」を象徴する俳優として忘れられない人だ。パスタソースは今も日本で売っているが、僕も昔何回か買った思い出がある。70年代以後しか同年代の記憶がないわけだが、他にはジョージ・ロイ・ヒル監督の『スティング』『スラップ・ショット』、あるいは西部の伝説を描くジョン・ヒューストン監督『ロイ・ビーン』などを思い出す。監督作に『レーチェル、レーチェル』『ガラスの動物園』などがあり、後者は僕も見た。一般1200円、学生500円という価格設定は若い人に見て欲しいということだろうか。どんな感想を持つのか、是非見て欲しい気がする。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『なまいきシャルロット』『ある秘密』、クロード・ミレール映画祭

2022年10月14日 22時42分01秒 |  〃  (旧作外国映画)
 「クロード・ミレール映画祭」というのがあって、4本の映画を見た。まあ、昔のフランス映画が好きなのである。別に多くの人が見なくてもと思うけど、せっかくだから記録しておきたい。クロード・ミレール(Claude Miller、1942~2012)はフランスで多くの監督の下で働いてきた人である。ロベール・ブレッソンの『バルタザール、どこへ行く』、ゴダール『ウイークエンド』、ジャック・ドゥミ『ロシュフォールの恋人たち』などの助監督を務めた。その後はトリュフォー映画の製作主任を務めたというから、ずいぶん彼が関わった映画を見てきたことになる。
(『なまいきシャルロット』)
 でも僕はこの人の名前を覚えてなかった。1976年に長編劇映画の監督になり、『なまいきシャルロット』(1985)、『小さな泥棒』(1988)でシャルロット・ゲンズブールをスターにした。この題名は記憶にあるが、当時は見なかった。シャルロットはセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘で、14歳で『なまいきシャルロット』に主演してセザール賞新人女優賞を取った。だけど、題名からアイドル売り出しのスター映画かと思い込んでいた。実際は思春期の息づかいを細やかに描いた佳作だった。
(クロード・ミレール監督)
 オリジナル脚本だがカーソン・マッカラーズ結婚式のメンバー』のような作品で、マッカラーズの著作権管理者から訴訟を起こされたという。その決着は知らないけれど、ある夏の少女が町を出て行きたいと望む焦燥感を描き出すという点が似ている。ただ、この映画では同年代の天才少女ピアニストに憧れて、お付きの係になりたいと思い込むのである。場所は湖を臨む避暑地のような町で、天才少女は豪邸に住んでいる。「ひと夏の少女」という映画は多いが、中でもこの映画は見どころが多い。またトリュフォー映画でなじみのベルナデット・ラフォンがシャルロットの家の家政婦役でセザール賞助演女優賞を取っている。
(『勾留』)
 製作順では『なまいきシャルロット』より前の1981年作の『勾留』は今回が初公開。連続幼女レイプ殺害の容疑者を、刑事リノ・ヴァンチュラが大みそかに署に呼んで取り調べる。被疑者は否認するけど、やがて妻(ロミー・シュナイダー)がやってきて…。僕はあんまり面白くなかった。取り調べ方法が国によって違うのは当然だが、あまりにも不自然である。証拠を突きつけるのではなく、状況面だけグダグダとやり取りする。日本の刑事ドラマで日本の警察を理解するのは無理だけど、同じようなことがフランス映画でも言えるんだろう。
(『伴奏者』)
 『伴奏者』(1992)はドイツ軍占領下のパリで、ドイツ軍にも大人気の女性歌手がいて、伴奏者を求めている。20歳の若く貧しい少女が選ばれたが、歴史の流れに翻弄される。ニーナ・ベルベロワという亡命ロシア人の小説の映画化。主演の少女ソフィーは大歌手イレーヌにすっかりのぼせて憧れる。この歌手はエレナ・サヴォノヴァというロシア人女優が演じて大変な貫禄である。ニキータ・ミハルコフ『黒い瞳』で主演していた人。歌手の夫はドイツ軍やヴィシー政府と協力してきたが、風向きが変わりつつあるのを感じて、スペイン、ポルトガルを経てロンドンの自由フランス政府に参加しようとする。何回かの演奏会シーンとともに、この逃亡劇が山場になる。ところがイレーヌには秘密があった。ソフィーは何とか悲劇を防ごうとするが…。
(『ある秘密』)
 一番の傑作は『ある秘密』(2007)だった。これも戦時中が舞台になっていて、フィリップ・グランベールという人の自伝的小説の映画化だという。第2次大戦後、スポーツが得意な両親のもとに、病弱な少年がいる。一人っ子のはずなのに、少年は兄がいると言い張っている。そこから時間は戦時中に戻り、戦時下フランスのユダヤ人迫害の物語になる。しかし、内容はかなり複雑で、二組の夫婦がいる。先の少年の父と母は大戦前に別の相手と結婚していた。さらに少年の父のかつての妻と、少年の母のかつての兄は兄妹だったのである。既婚でありながら、父は義弟の妻に一目惚れしてしまう。そして戦時中にそれぞれの相手が亡くなったのである。特に父のかつての妻と二人の子どもは逃亡直前にユダヤ人と見抜かれ収容所に送られた。

 ちょっと複雑な感じの筋だが、「ユダヤ人」であることと「秘密の恋」が、戦後を生きる虚弱な少年に影響していく。心理サスペンス映画的な感じの作品で、とても完成度が高い。セザール賞に沢山ノミネートされたが、結局一家の友人役のジュリー・ドパルデュー(ジェラール・ドパルデューの娘)だけが助演女優賞を獲得した。ヨーロッパ映画ではやはり第二次大戦が時代背景になっていることが多いなと思った。『ある秘密』『伴奏者』の緊迫感は高く完成度も高いように思う。

 「誰よりも映画を知りつくし、それを手中にした監督」とチラシにあるように、確かにスラスラ見られて面白い。でも何かもう一つ足りない感じがする。フランスでも日本でも大きな賞を取るような監督ではなかった。「知りつくす」だけではダメで、かつて彼が助監督に付いた巨匠の名作のような独自の文体がない。だけど、フランス語を聞きながらドキドキ見られる佳作揃いだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「注目すべき人々との出会い」、久々の上映を見て

2022年09月21日 23時07分00秒 |  〃  (旧作外国映画)
 2022年7月2日に亡くなったピーター・ブルックの追悼文(「ピーター・ブルックの逝去を悼むーイギリスの演出家、映画監督」)で、僕は以下のように書いた。「僕がまた見てみたいブルックの映画がある。それがグルジェフの原作をもとにした『注目すべき人々との出会い』(1979)という映画である。」ところが、新宿のケイズシネマで行われている「奇想天外映画祭」のプログラムにこの映画が入っているではないか。6回しか上映がないので、早速今日見に行ってきた。
(『注目すべき人々との出会い』当時のチラシ)
 『注目すべき人々との出会い』(Meetings with Remarkable Men)は、1979年に製作、1982年7月日本公開。全編英語なので、今見ると違和感を感じてしまう。思想家グルジェフ(1866~1949)の自伝的著述の映画化である。グルジェフはギリシャ系の父とアルメニア系の母との間に、現在のアルメニア(当時はロシア帝国領)に生まれた。冒頭で少年グルジェフらが谷間の円形劇場に集まっている。ペルシャやコーカサスからやって来た楽人たちがが、20年に1度、谷間の岩にヴァイブレーションを与え、こだまさせた者が勝者となる競争が始まったのである。もっとも説明がなく、今調べて、そうだったのかと判った。
 
 学校時代の「決闘騒ぎ」などを経て、人生の意義とは何かと問う少年グルジェフは、やがて「自分探し」の旅に出る。紀元前2500年に起源を朔る秘密教団、サルムングの記述を見つけ、そこに真実があるのではないかと考える。やがて教団を知る導師がエジプトにいると知り、船で働きながらエジプトまで出掛ける。そこで同じく人生の悩みを抱える旧知のルボヴェドスキー公爵(テレンス・スタンプ)と出会う。しかし、導師と公爵は彼を置いて、ブハラ(ウズベキスタン)に行ってしまった。グルジェフはゴビ砂漠を探検して幻の都を探す一団に参加するが、大きな砂嵐に巻き込まれて、全てを失ってしまう。
(ピーター・ブルック)
 やがてブハラにたどり着いた彼は、そこで再び教団を探し始める。導師の居場所を見つけ、どうにか秘密の場所を教えて貰えることになる。秘密を誓ってから目隠しをして馬に乗って、危険な山道を行く。ようやく着いたと思うと、谷間に掛かる恐ろしい橋を何とか渡りきる。その先を行くと、彼方に壮麗な城郭が見えてくるのだった。そこへ行くと、別れたきりのルボヴェドスキー公爵がいて、舞踏に明け暮れる教団の様子を案内してくれる。この「神聖舞踏」を目の当たりにして、彼の精神的彷徨が終わるのだった。
(神聖舞踏を行う人々)
 70年代、80年代には「精神世界」への関心が高かった。「気流の鳴る音」で紹介したドン・ファンシリーズなども、そういう中で広く読まれた。グルジェフもそういう流れで注目されたが、今回見るとラストの舞踏が余り面白くない。「舞踏」に大きな意味を見出すのは判る気がするが、シュタイナーの「オイリュトミー」の方が見ていて美しい。性別に分かれて舞踏していて、男の方の踊りはどうも変な気がする。そんなところも、今ではグルジェフが知られなくなった理由かもしれない。ブルックは『グルジェフ-神聖舞踏』(1984)というドキュメンタリーも作っているので、そっちも見てみたい。

 この映画は舞踏シーンはイギリスで撮影された以外は、アフガニスタンでロケされたと出ている。(今の情報は英語版ウィキペディアだが、エジプトのシーンはどうなんだろう。ピラミッドが見えているが。)谷間や砂嵐など、なるほどという感じである。アフガニスタンは、1979年12月にソ連が侵攻し、長い内戦が始まる。それ以前もゴタゴタしていたが、外国ロケを受け入れる余地はあったのだろう。ソ連、タリバン、アメリカ、タリバンともう外国映画がロケできる国ではなくなってしまった。その意味でも重要な映画かもしれない。デジタル版ではなく、公開時のフィルムだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャン=ポール・ベルモンドの映画を見逃すな!

2022年09月18日 23時10分32秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスの映画俳優ジャン=ポール・ベルモンド(1933~2021)と言えば、先頃亡くなったジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』ぐらいしか、長いこと見られなかった。しかし、2年前から「ジャン=ポール・ベルモンド傑作選」が行われ、現在3回目が新宿武蔵野館で上映されている。半世紀以上前の映画だから、今見ると中にはもう古いなというのもある。でも体を張った壮絶アクションが今も色あせない超絶エンタメ映画がいっぱいあって見応え十分だ。

 ジャン=ポール・ベルモンド傑作選では今のところ20本が上映されている。名前だけ挙げておくと、第1期が『大盗賊』『大頭脳』『恐怖に襲われた街』『危険を買う男』『オー!』『ムッシュとマドモアゼル』『警部』『プロフェッショナル』の8本。第2期が『リオの男』『カトマンズの男』『相続人』『エースの中のエース』『アマゾンの男』の5本。今やってる第3期が『勝負(カタ)をつけろ』『冬の猿』『華麗なる大泥棒』『ラ・スクムーン』『薔薇のスタビスキー』『ベルモンドの怪盗二十面相』『パリ警視J』の7本。ゴチックにしたのが現時点で見ている映画。

 お気に入りのロベール・アンリコ監督『オー!』とか、世界的に大ヒットした『リオの男』など、大期待してみた割りにはイマイチ感が強く、今まで記事には書かなかった。でも3回目の今回は充実したプログラムになっているので、少し紹介したい。やはり監督は大事だなと思ったが、アンリ・ヴェルヌイユ(Henri Verneuil、1920~2002)の作品が面白い。『ヘッドライト』『地下室のメロディ』などで知られた名匠である。70年代以後はほぼアクション映画専門で未公開作品も多い。第1期でやった『恐怖に襲われた街』(1975)も面白かった。連続殺人鬼を追ってパリを駆け回る敏腕刑事。ちょっと無理な展開かなとも思うが、アクションがすごい。

 しかし、アクションの素晴らしさでは、今やってる『華麗なる大泥棒』(1971)が図抜けている。アテネで宝石泥棒を企むベルモンド一味。それに目を付けた悪徳警官オマー・シャリフ。冒頭の金庫の錠開け、中程のすさまじいカーチェイス、バスからトラックに移って砂利山を落下するシーン、すごすぎる。これを見るとジャッキー・チェンの『ポリス・ストーリー/香港国際警察』は明らかにこの作品の影響を受けている。アメリカ映画『ブリット』(1968)のカーチェイス(サンフランシスコ)よりスゴい。アクション監督レミー・ジュリアンという人の設計が素晴らしい。007なども担当し、二人の息子も世界的に活躍中。
 (『華麗なる大泥棒』)
 同じくヴェルヌイユ監督のモノクロ作『冬の猿』(1962)は心に沁みる名作。ジャン・ギャバンとの唯一の共演である。実はこの映画は池袋の文芸坐であった特集上映で見たことがある。人生でもう一回見られるとは思ってなかった。ノルマンディーの港町で旅館を営むギャバンはいつも酔っ払っている。でも、戦時下の空襲中、無事に戦後まで生き延びられたら酒を断つと神に誓った。戦後は酒を出さない安宿になってしまったが、そこにベルモンドが泊まりに来る。屈託を抱えた二人にいつか心が通っていくが…。冬空の花火、ベルモンドの心の秘密、犯罪映画ではなく、切ない映画の傑作。
(『冬の猿』)
 二度見られて嬉しいのは、アラン・レネ監督『薔薇のスタビスキー』(1974)も同様。『二十四時間の情事』(ヒロシマ、モナムール)、『去年マリエンバートで』のあのアラン・レネとは思えない判りやすい映画。フランス現代史に有名な(と言うんだけど)、1930年代初頭にフランス政界を揺るがしたスタビスキー事件を描く。タイトル・ロールのベルモンドと愛人のアニー・デュプレーが魅力的。衣装をサン=ローランが担当していて、見応えがある。凝りに凝った30年代の懐古的ムードに心奪われるけど、次第に編集や音楽のリズムが気になってきた。結局、監督が主人公を好きになれなかったのではないか。
(『薔薇のスタビスキー』)
 興味深いの『勝負(カタ)をつけろ』(1961)と『ラ・スクムーン』(1972)で、同じ話である。実際に獄中にいたギャング出身の作家ジョゼ・ジョヴァンニの原作。ジョヴァンニは作家を経て、映画監督にもなって沢山の映画を作った。『ラ・スクムーン』は最初の映画化に不満が残って、自分でリメイクしたらしい。『勝負をつけろ』はジャン・ベッケル(『穴』『モンパルナスの灯』などの名匠ジャック・ベッケルの息子)の初監督作品。「死神」と呼ばれたギャングの生涯を描いている。友人を救いに自分も獄に入り、戦後には一緒に地雷除去作業に携わる。(刑期短縮を条件に危険な作業への応募を刑務所が呼びかけた。)『ラ・スクムーン』は友人の妹役がクラウディア・カルディナーレと超豪華。でも派手さがない前作『勝負をつけろ』の方が僕は好きかな。
(『ラ・スクムーン』)
 『ムッシュとマドモアゼル』『エースの中のエース』も面白かったけど、もう省略。昔のヨーロッパ映画はアート系巨匠の特集上映はあっても、娯楽作はほぼ見られなかった。最近は事情がずいぶん違ってきて、デジタル修復されて蘇った旧作が上映されるようになった。今年の夏には「ロミー・シュナイダー映画祭」があり、来週末からは「クロード・ミレール映画祭」まであるので驚いてしまう。誰だって感じだが、ロミー・シュナイダーはアラン・ドロンの恋人だった有名女優。クロード・ミレールは僕も知らなかったが、「なまいきシャルロット」などの監督である。見てると時間もお金も大変だけど、フランス語を聞いてるだけで楽しい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPartⅡ』再見

2022年06月04日 23時01分46秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPartⅡ』を続けて再見した。今年は第一作から50周年になるので、デジタル修復版を「午前10時の映画祭」で上映していた。池袋の新文芸坐で続けて上映するので、朝10時45分から第1作、14時20分から第2作を延々と見た。その間に関東地方は激しい雷雨に見舞われていたというが、映画の間に通り過ぎてしまった。かなり疲れていたんだけど、全く退屈せずに見られたのは、やはり面白くて良く出来ているからだ。この種の映画の古典になったほど、脚本、演技、撮影、音楽、編集が見事に融合していて、飽きる間もない。
(「ゴッドファーザー」
 以下、映画を見ていることを前提に書くので了解を。『ゴッドファーザー』(1972)はマリオ・プーゾ(1920~1999)の同名のベストセラー小説の映画化。監督のコッポラとマリオ・プーゾが共同で脚色し、アカデミー脚色賞を受賞した。非常によく出来たシナリオで、それを見事に映像化した『ゴッドファーザー』もアカデミー賞作品賞を受賞した。アメリカで大ヒットして、『ゴッドファーザーPartⅡ』(1974)が作られた。続編もアカデミー賞作品賞、脚色賞を受賞したが、数多いシリーズ映画で続編がアカデミー賞作品賞を受賞したのは、この作品だけである。当時僕は第2部の方が傑作だと思ったが、今回見ると甲乙付けがたい。

 日本でもヒットしたし、両作ともベストテンに入っている。しかし、どっちも第8位である。1位は『ラスト・ショー』(1972年)、『ハリーとトント』(1975年)で、その頃は身近な世界を事細かく見つめたようなアメリカ映画が日本で評価されていた。ベトナム戦争のさなかで、アメリカでは「ニュー・シネマ」と呼ばれた低予算映画がヒットして、映画会社はテレビ社会に対応出来ず地盤沈下していた。この頃からようやく「超大作」を作ることでハリウッドの復活が顕著になっていく。

 しかし、この映画がこれほどヒットするとは予想されてなかった。監督のフランシス・フォード・コッポラ(1939~)は『パットン大戦車軍団』(1970)でアカデミー脚色賞を得ていたが、まだ30歳を越えたばかりの若い監督である。監督としては低予算映画を作っていた若手に過ぎない。主演のマーロン・ブランドは『波止場』(1954)でアカデミー賞を受けたが、その頃は「わがままな大物俳優」のイメージが定着し作品に恵まれなかった。2代目マイケル役のアル・パチーノは舞台で注目されていたが、世界的には無名。今見るとオールスター映画なのだが、皆『ゴッドファーザー』で知られたのである。
(コルネオーネ一家)
 その後の第2部、第3部を通して描かれるのは、マフィア組織のボスの座がどのように継承されていったかである。もっと言えば、2代目マイケルがいかにして「冷酷非情なボス」になったかである。本来ボスの座は長男ソニージェームズ・カーン)が継ぐはずで、マイケルは大学進学を許されていた。戦争開始時(真珠湾攻撃の日)に軍隊に志願し、一家でただ一人従軍した。大学ではイタリア系ではない恋人ケイダイアン・キートン)に家業には就かないと言っていた。しかし、父が銃撃され、兄ソニーが惨殺された後で、一家を代表して復讐に乗り出さざるを得なくなる。

 「敵」は警察ともつながっていたため、マイケルは警官も暗殺せざるを得ず、その結果シチリア島に逃れることになる。そこで一目惚れした相手と結ばれるが、妻も暗殺される。このような過酷な体験がマイケルを変えたのは間違いないだろう。父の銃撃事件をもたらしたのは、麻薬をめぐる問題だった。戦争直後であり、これからはギャンブルや売春だけでなく麻薬に乗り出すしかないと考える組織が出て来て、コルレオーネ一家に協力を求める。だが父のヴィトーは他の一家の妨害はしないが、自分の組織では麻薬は認めないと宣言する。その時にソニーは儲けを逃すのかと父に反論する。そのことで父を排除して、ソニーの時代になれば一家は変わるかもと思わせてしまった。これがマイケルにとって「一家の団結を乱すものは容赦しない」という教訓になったのか。
(「ゴッドファーザーPartⅡ」)
 ただ彼としては本気で、「合法ビジネス化」も考えていたのだろう。だからマイケルが実権を握ってからは、組織を二分していずれは一家ごとラスヴェガスに移転することを計画する。しかし、全米で、あるいは革命直前のキューバまでも進出する「一大娯楽産業」になっていく中で、他組織とのあつれき、議会やFBIの追求、妻ケイの離反など悩みが尽きない。その中で家族の問題を大きく扱うのが、イタリア系組織を描くシリーズの特徴だ。ちょうど同時期に、日本で『仁義なき戦い』シリーズが作られた。これは東映の岡田茂社長がアメリカでの『ゴッドファーザー』大ヒットを聞き、日本でもヤクザの実録映画の企画を命じて始まったとされる。

 しかし、結果的に両シリーズの感触はかなり違う。共通するのは見た後でテーマ音楽が耳から離れなくなることぐらいだろう。『仁義なき戦い』の山守親分(金子信雄)は各組織の上に乗っているだけで、専制君主ではない。そのため権謀を尽くして生き残りを策謀し、徹底的に「無責任」である。「無責任の体系」としての「天皇制」を体現しているとも言える。一方でアメリカのマフィア組織はボスが専決し、部下はボスに信服する。マイケルはヒトラーやスターリンを思わせる非情なボスになっていく。生き残るための冷酷さが妻や長男を遠ざけてしまい人生に悲劇をもたらす。そのギリシャ悲劇のような運命劇がこのシリーズだ。
(若き日のヴィト=ロバート・デ・ニーロ)
 『ゴッドファーザーPartⅡ』はマイケルをめぐる組織間の争いと同時に、父ヴィトーの少年時代が並行して描かれる。200分を越える、当時としては異例なほどの大作だが、実質的に二つの作品が融合しているのである。この作り方は明らかに新しいもので、当時の僕が第1部より面白いと思ったのは、この作り方の新鮮さが大きい。少年時代のヴィトーは若手のロバート・デ・ニーロが演じて、アカデミー賞助演男優賞を受賞した。このデ・ニーロを見ると、シチリアを追われてアメリカに移民した少年時代、やがて地域ボスとしてのし上がっていく様子が実によく判る。ここが見どころで、アメリカの移民社会の実態を描いた意義は大きいと思う。

 僕は特にこのシリーズが好きなわけではなく、公開時に(恐らく名画座で)見ただけである。だからおよそ半世紀ぶりなので、細かいことは忘れていた点が多い。しかし、見れば大体その後の展開が判った。それは物語として基本的な構造で作られているということだろう。悲劇ではあるが、意外感がないのはそのため。第1部は妹コニーの結婚式から始まるが、それは黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』の影響だという。他にも儀式が重要なところで出て来る。特にコニーの子どもの洗礼式で、マイケルが名付け親になるシーン。それと同時にマイケルは「同時多発粛清」を命じていて、その子の父も殺される。その時マイケルは神父に誓いを立てているところなど、実に悪魔的なまでの凄みである。

 その後、1990年になって第3部が作られた。2020年になって修復、再構成された『ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期』が公開された。今回はそれも2回だけ夜に上映されるんだけど、大変だからパス。バチカンのスキャンダルも取り込みながら、長男が後を継がずオペラ歌手になってパレルモでデビューする。イタリアを舞台に壮大な映像が繰り広げられるが、当時見た記憶では「まあ一応面白いし、その後も知りたいし」のレベルでは満足したが、映画の出来そのものは中の上かなと思った。

 このシリーズを通してゴードン・ウィリスが撮影していて、陰影の深い映像美が素晴らしい。ウッディ・アレンの『アニー・ホール』『カメレオン・マン』などの撮影監督である。また聞けば誰もが判るほど有名になったニーノ・ロータの「愛のテーマ」が効いている。フェリーニ映画で知られるが、他では『ロミオとジュリエット』と『ゴッドファーザー』が有名。第2部でアカデミー賞を得ている。妹コニー役のタリア・シャイアは監督の実妹で、後に『ロッキー』で知られた。詳しく書く余裕がなかったが、一家の養子となって育てられたトム・ヘイゲンロバート・デュヴァル)は一家の懐刀役で見事な存在感を出している。『仁義なき戦い』シリーズの成田三樹夫みたいな感じで素晴らしかった。話題は尽きないが…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性監督の映画「美しき青春」ー「細雪」姉妹が見た「リケジョ」映画

2022年03月21日 22時59分24秒 |  〃  (旧作外国映画)
 国立映画アーカイブで「フランス映画を作った女性監督たち―放浪と抵抗の軌跡」という特集上映をやっている。シネマヴェーラ渋谷でも、4月から5月に「アメリカ映画史上の女性先駆者たち」という特集が予定されている。無声映画時代にフランスからアメリカに移って映画を製作したアリス・ギイという人は両方で上映される。最近発表された国立映画アーカイブの来年度の予定にも、2023年になるが「日本映画と女性(仮)」という特集が予告されている。

 これらは世界的に共通する問題意識があることを示している。映画草創期から「女優」は存在したが、女性の映画監督は少なかった。日本では歌舞伎では「女形」がいるが、初期の映画も「女形」から始まった。職業的に俳優をしている女性がいなかったのだから。しかし、顔が大きくクローズアップされる映画では、すぐに女優に取って代わられることになった。そのように「見られる側」としては女性も映画に必須だったが、製作スタッフには女性はいないと思われてきたのである。

 一般的な通念として、個人で創作可能な作家や画家には「女流」がいても、多くの人を束ねるオーケストラの指揮者映画や演劇の演出家などは「男の仕事」とみなされてきた。最近でこそ少しは女性の映画監督が登場したが、歴史的にはほとんどいなかったと思われてきた。しかし、実は映画が始まった頃から、女性は映画製作に関わっていた。確かに数は多くないけれど、今までは「消されていた」のである。それは科学史における女性研究者の貢献が消されてきたのと似たような事情がある。

 と言っても全部見るのは大変だから、あまり見てない。その中で「美しき青春」と「ガールフッド」という2作品を見て興味深かった。「美しき青春」は1936年に作られ、日本でも1939年に公開された。当時からあったキネマ旬報ベストテンで第8位に入選している。これを見たのは、「細雪」に出て来るからである。下巻124頁には、妙子が家を出てしまった侘しさを紛らわすために、幸子と雪子姉妹はほとんど二日おきぐらいに神戸で映画を見て歩いたと出ている。見たのは「アリババ女の都へ行く」「早春」「美しき青春」「ブルグ劇場」「少年の町」「スエズ」などと出ている。
(「美しき青春」)
 この年の日本映画では「」(長塚節原作、内田吐夢監督)や「土と兵隊」(火野葦平原作、田坂具隆監督)などが話題作だが、確かにそれは幸子が見るような映画ではない。ではこれらの映画はどのような内容だったか。新潮文庫の注を見る。「美しき青春」は「一九三九年製作のフランス映画。ジャン・ブノワ=レヴィ監督。音楽に憧れつつ、家を継ぐために心ならずも医科大学に学ぶ学生が、父の癌を知って自殺するまでを描く。主演ジャン・ルイ・バロー。昭和一四年封切り。」と出ている。

 この注は何をもとに記述したのか不明だが、映画アーカイブのチラシでは「(監・脚)マリー・エプシュタイン、ジャン・ブノワ=レヴィ」と書かれている。そのことは映画のクレジットで確認できた。マリー・エプシュタイン(1899~1995)は日本語で書かれたサイトがないが、フランス語のウィキペディアを見ると生没年や作品名を確認することが出来る。まさに女性監督が消されていたのである。マリー・エプシュタインはジャン・エプシュタイン(1897~1953)の妹で、兄の作品の脚本を書くなどして映画界に関わりが出来た。ジャンは無声映画「アッシャー家の末裔」(ポー「アッシャー家の崩壊」の映画化)で知られている。
(マリー・エプシュタイン)
 1936年製作だから、先ほどの注は間違っているが、実はもっと重要な問題がある。川本さんの本にもジャン・ルイ・バロー(1910~1994)主演と出ているが、それが間違いなのである。映画の原題は「Hélène」(エレーヌ)で、タイトルロールのマドレーヌ・ルノー(1900~1994)が主演なのである。ルノーはコメディ・フランセーズ所属の人気俳優だったが、36年当時のバローはまだ知名度が高くなかった。この映画の共演をきっかけに二人は40年頃に結婚し、戦後になってルノー=バロー劇団を結成した。1960、77、79年の3回来日公演を行っていて、僕も70年代の来日は(見てないけど)記憶している。バローは1945年の映画「天井桟敷の人々」の主人公として有名になり、日本で夫婦の知名度が逆転したため、どこかで情報が間違ったのだろう。

 映画「美しき青春」の内容はさらに興味深いものだった。エレーヌマドレーヌ・ルノー)はグルノーブル大学で基礎医学を研究して修士号を取得した。さらに研究を深めたいとパリから列車で大学へ戻る時、教授と一緒になる。教授夫人の歌手はパリに残ってしまい、切符が余ったから一等切符をあげるという。列車内で相談をすると、女は台所や客間に居るのが似合っていて、研究室はふさわしくないと言われる。しかし、エレーヌは「定規のようにまっすぐ」研究者の道を進みたいと訴える。そして教授もエレーヌを助手として雇ってくれた。教授のテーマは「人工的にマウスにガンを発生させて、ガン抑制物質を見つける」ことである。DNA発見以前には最前線の研究じゃないか。エレーヌはそれを手伝いたいと言うのである。
(マドレーヌ・ルノー)
 マドレーヌ・ルノーは昔から大好きな女優で、もう30代半ばになるのに顔立ちが若いから20代の院生に違和感がない。そして、ピエールジャン・ルイ・バロー)という恋人も出来る。ピエールは歌を作っていて、医者向きではない。歌を教授夫人に送ると、歌って貰えることになった。もうすっかり音楽の道へ進みたいピエールは悩み多き日々を送り、エレーヌは彼と結ばれてしまう。そして妊娠、産めないと訴えるが、医者は健康に問題ないから産むしかないと言う。ピエールに相談出来ないまま、彼と山に行くと研究室から毒物を持ち出した彼は自殺してしまう。何とか警察の疑いを晴らしたエレーヌは頑張って博士号を取得したのだが…。

 もちろん時代の制約、幕切れの甘さなどがあるが、何と1930年代に「リケジョ、シングルマザーになって頑張る」という映画が作られていたのである。単に監督が女性だったというだけではない。時代に先駆けた問題意識に驚くしかない。もちろん死んじゃうピエールではなく、博士号を取るエレーヌこそ主人公である。理系の女子学生を描いた映画は世界的にもあまり思いつかない。吉永小百合が「女医」を目指す「花の恋人たち」(1968)という映画があったけど、他にあるんだろうか。そもそも学生が出て来る映画は山のようにあるが、何を勉強しているのか判らないことが多い。きちんと研究テーマが出て来るのも貴重。女性スタッフが関わることの重要性が理解出来る。
(「ガールフッド」)
 セリーヌ・シアマ監督の「ガールフッド」(2014)は簡単に。「16歳のマリエム(トゥーレ)は3人の少女との出会いをきっかけに今までとは違う自分になろうとする。『燃ゆる女の肖像』(2019)がカンヌ国際映画祭で2冠に輝き、世界的に注目を集めるセリーヌ・シアマ(1978-)の長篇第3作。前2作で自伝的な要素を盛り込み、思春期におけるジェンダーとアイデンティティを題材として取り上げたシアマが、緩急を効かせた演出によって思春期の少女の悩みと衝動、解放感を描き出した青春映画。」とある。
(セリーヌ・シアマ)
 これを真に受けたら全然印象が違った。まずマリエムは黒人で、勉強が出来ない生徒。すでに中学を1年留年していて高校には行けないと教師に言われる。学校を飛び出したら、3人の女子がつるんでる。この不良グループが実に日本のそれとそっくりで笑える。何見てんだよ、インネン付けるのかと言ってケンカを吹っかける。それが「3人の少女との出会い」で、結局マリエムも仲間に加わる。そしてケンカに勝って得意になるが、それも空しいと思い始め、地域ボスのアブに近づく。そして彼のもとでヤクの売人になるって、思春期の悩みとか解放感と違うだろ。セクシャルマイノリティを描くことが多いシアマ監督が描く「スケバン映画」だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パゾリーニ監督「テオレマ」と「王女メディア」

2022年03月09日 22時52分13秒 |  〃  (旧作外国映画)
 2022年はピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini、1922~1975)の生誕百年に当たる。衝撃的な死から50年近く経って、知らない人の方が多いだろう。現在「テオレマ」(1968)と「王女メディア」(1969)がデジタル化されて上映されている。日本ではどちらも1970年に公開され、それぞれキネマ旬報ベストテン6位、7位に選出された。僕はアート映画に目覚めたばかりの中学生で、どっちも見ているのである。「テオレマ」は99年に開かれたパゾリーニ映画祭で上映されたが、「王女メディア」は公開以来だから何と半世紀以上が経ってしまったことに驚くしかない。

 パゾリーニは戦後イタリアでもっとも注目された、あるいは「お騒がせ」だった人だろう。詩人、小説家、劇作家、脚本家、評論家として活躍し、映画監督にも乗り出して世界的に評価された。詩、演劇、映画を越境して活躍した人は、日本なら寺山修司が思い浮かぶ。しかし、パゾリーニはもっと政治的であり、闘争的であり、そして同性愛者だった。常にブルジョワ的な姿勢を攻撃し、ネオファシズムを敵視した。パゾリーニは、1975年11月2日にローマ郊外で暴行、轢殺された死体が発見された。公式には遺作「ソドムの市」に出演した少年との性的スキャンダルとされたが、今に至るも右翼勢力による謀殺という説が絶えない。

 久方ぶりに見た「王女メディア」から。これはマリア・カラスが出演した唯一の映画として知られている。「世紀の歌姫」で、20世紀最高のソプラノ歌手である。名前が特徴的だから僕も知ってはいたが、最初に見た時は中学生だから聞いたことはなかった。大人になってCDを買って、今も時々聞いている。出演当時は長く付き合っていたギリシャの海運王アリストテレス・オナシスがジャクリーン・ケネディ(ケネディ米国大統領の未亡人)と結婚して、マリア・カラスは「捨てられた」失意の時代だった。数年前に公開された記録映画「私は、マリア・カラス」には、その時代の苦境が描かれていた。

 ウィキペディアのマリア・カラスの項目にも「王女メディア」が出てないぐらいだから、今じゃこの出演もすっかり忘れられているのかもしれない。しかし、堂々たる主演である。ギリシャ悲劇のエウリピデスメディア」の映画化だが、事前に勉強していかなかったから、最初は戸惑うことが多かった。父の王位を奪った叔父から王位返還を約束されてイアソンは未開の国コルキスに「金の羊皮」を取りに行く。そこで王女メディアに助けられ皮を奪い取るも、叔父は約束を破って二人は隣国コリントスに逃れる。メディアが住む異国ってどこだ、奇岩怪石でカッパドキアかなと思ったら、やはりトルコでロケされたという。

 隣国の国王に見込まれたイアソンは、メディアを裏切って王の娘と婚約する。そこからメディアによる苛烈な復讐ドラマが始まる。必ずしも判りやすい描写ではなく、メディアの不思議な能力による幻想的なシーンが多い。当時は凄いアート映画だなと思って見たが、そういう「前衛」ムードが60年代末という感じ。「異国」をイメージするために、冒頭から「民族音楽」っぽい音楽が流れ、その中には日本の地唄まで出て来る。ヨーロッパ人にはエキゾチックかもしれないが、映画の中に日本語が出て来たら我々には違和感がある。衣装をピエロ・トージが担当している。「山猫」「ベニスに死す」などで知られる衣装デザイナーで見事な仕事である。ギリシャ神話に詳しくないので難しい部分があるが、間違いなく凄い映画。
(「テオレマ」公開当時のチラシ)
 「テオレマ」は完全な寓話として作られていて、まさに60年代の前衛映画である。題名は「定理」という意味だというが、見てても題名意味は良く判らない。あるブルジョワ一家に謎の男(テレンス・スタンプ)がやってきて、いつの間にか家族は彼と性的なつながりを持ってしまう。そしてある日彼は去って行き、家族それぞれが崩壊して行くのだった。映像も美しくなって(4Kスキャン版)、なんだか寓話の深みが増した気がした。パゾリーニ映画祭で再見したときは、なんだかもう意味がないような気もしたのだが、現代人の孤独と精神の不毛が今の方が身に迫るということか。

 母親はシルヴァーナ・マンガーノ(「ベニスに死す」や「家族の肖像」)、父親がマッシモ・ジロッティ、娘がアンヌ・ヴィアゼムスキー(当時ゴダールの妻で「中国女」「バルタザールどこへいく」)と国際的に知られる俳優が出ている。そんな中で家政婦を演じたラウラ・ベッティという人がカンヌ映画祭で女優賞を獲得しているのが不思議。今ならもっと性描写も描かれると思うが、なんだかスラッと通り過ぎる感じ。だからこそテレンス・スタンプ演じる男は一体何を象徴しているのかと謎が深まる。冒頭で大会社の社長が会社を労働者に渡したというニュースが出る。「労働者自主管理」という発想があった時代だが、この発想が今になって新たに意味を持ってきた感じがする。
(ピエル・パオロ・パゾリーニ)
 パゾリーニでは69年ベストワンになった「アポロンの地獄」(「オイディプス王」の映画化)やイエスの生涯を現代の目で描いた「奇跡の丘」がベストテンに入っている。それらもまた見てみたいが、それより公開以来やってないのが、70年代の映画。判らない、暗いという批判を気にして「デカメロン」(71)、「カンタベリー物語」(72)、「アラビアンナイト」(74)の艶笑シリーズを作った。その後がサド原作を現代に移した問題作「ソドムの市」。僕は「ソドムの市」はやりすぎだと思ったけど、「アラビアンナイト」ののどごしの良いウドンをツルツルッと食べるようなムードが結構良かった。これらもやって欲しいな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジンネマン監督の「結婚式のメンバー」(1952年)を見る

2022年01月03日 22時14分42秒 |  〃  (旧作外国映画)
 シネマヴェーラ渋谷で「Strangers in Hollywood 1」という特集をやっていて、ヨーロッパ生まれでアメリカに渡った3人の監督、ダグラス・サークロバート・シオドマクフレッド・ジンネマンの初期作品を上映している。全部見るわけにもいかないけど、僕は40年代、50年代ハリウッドのB級犯罪映画やメロドラマが大好きなので、いろいろと楽しんで見ている。今日はフレッド・ジンネマン監督「結婚式のメンバー」(The Member of the Wedding)を見に行った。これは日本未公開なので貴重である。

 名前で判る人もいると思うが、これはカーソン・マッカラーズ原作の映画化である。近年村上春樹の新訳が新潮文庫から刊行されている。そのことは「村上柴田翻訳堂①-村上春樹の本をちょっと①」(2016.11.17)で書いた。原作は1946年に刊行され、その後舞台化されて評判になったらしく、それが1952年に映画化された。フレッド・ジンネマン監督としては「真昼の決闘」(1952)と「地上(ここ)より永遠(とわ)に」(1953)の間に作られた作品。「真昼の決闘」と「地上より永遠に」は映画ファンなら皆が知る作品だが、その間にこんな文芸名作の佳品を作っていたとは知らなかった。
(村上春樹訳「結婚式のメンバー」)
 この小説はアメリカ南部(原作者の生まれたジョージア州あたり?)の蒸し暑いひと夏、ある小さな町に住む12歳のフランキージュリー・ハリス)を描いている。かなりエキセントリックなフランキーは、母はすでに亡く父も忙しくて相手にしてくれない。故郷に居場所がないフランキーは、もうすぐある兄の結婚式後の一緒に家出しようとしている。近くの基地で従軍している兄ジャービスは、優しいジャニスと結ばれた。まさか新婚旅行に妹が付いていくなんてあるわけないと周囲は頭から思っているが、まだ子どものフランキーはひたすら脱出の機会を待ち望んでいる。兄夫婦に憧れて、名前も「ジャスミン」と変えたいぐらい。
(フランキー役のジュリー・ハリス)
 フランキーの日常は優しい家政婦のベレニス(エセル・ウォーターズ)と幼い従兄弟のジョン・ヘンリー(ブランドン・デ・ワイルド)と遊ぶだけ。黒人のベレニスは自分の家に問題がある。フランキーの相手をしてくれるけど、本気で家出をするつもりの思春期の悩みは判らない。そして兄の結婚式が終わって、フランキーはハネムーンの車に乗り込んで待っているが、皆が力ずくで追い出してしまう。夜になって一人家出したフランキーだったが、酔った男にからまれる。やむなく自宅へ戻るとジョン・ヘンリーが突然危篤になっていた。こうしてひと夏の冒険が不発に終わったフランキーは大人に近づいて行くのだった。

 加島祥造訳では「夏の黄昏」と題されていた。そのような南部の夏の黄昏に、少女期の心の揺らぎ印象的に描いている。フランキー役のジュリー・ハリスは舞台でも演じて評判になったという。この映画ではすでに25歳を越えていたが少女の雰囲気を出している。この映画でなんとアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。舞台女優としてトニー賞を5回の受賞しているが、映画「エデンの東」で兄の恋人でありながら弟のジェームス・ディーンに惹かれていくアブラを演じた人だった。小さなジョン・ヘンリーを演じたブランドン・デ・ワイルドも劇で同役をやって評判になり映画に出演した。ゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞している。この人は「シェーン」のジョーイ少年、「シェーン、カムバック」と叫んだ少年である。でも「エデンの東」も「シェーン」も判らずに見た。

 ベレニス役のエセル・ウォーターズはまず歌手として有名になった人で戦前から有名だったらしい。やはり舞台版「結婚式のメンバー」からやっていて、やけに3人のアンサンブルがいいと思ったのも理由があった。カーソン・マッカラーズ原作では最近村上春樹訳が出た「心は孤独な狩人」の映画化「愛すれど心さびしく」(1968)も見てみたいものだ。フレッド・ジンネマン監督は同時代で見た「ジャッカルの日」「ジュリア」が思い出される。今回初期作品をいろいろと見てB級時代のノワール映画が面白いのに驚いた。また戦時中に作られた反ナチス映画、アンナ・ゼーガース原作の「第七の十字架」は以前に見て紹介したことがある。「結婚式のメンバー」は今後3連休を含めて6回の上映がある。古い映画やアメリカ文学に関心がある人向けに紹介した次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロベルト・ロッセリーニ監督「ローマで夜だった」

2021年11月27日 22時31分01秒 |  〃  (旧作外国映画)
 ロベルト・ロッセリーニ監督の「ローマで夜だった」(1960)を見た。イタリアのネオ・レアリズモを代表するロベルト・ロッセリーニだが、1961年のキネ旬8位の「ローマで夜だった」を長いこと見られなかった。(この年は1961年は1位がベルイマンの「処女の泉」で「ウエスト・サイド物語」が4位だった。)今回は池袋の新文芸坐が独自に上映素材を得て字幕も付けたもので、先週は「自由は何処に」(1054)の上映もあったが、夜遅くの上映なので2連続は辛いから今回だけ見た。
 
 前作「ロベレ将軍」(1959)はロッセリーニと同じくネオ・レアリスモを代表するヴィットリオ・デ・シーカ監督が主演した大層立派なレジスタンス大作だった。続く「ローマで夜だった」も同じようにイタリア戦線のレジスタンスを描くモノクロの大作。尼僧姿の3人の女性が農家で食料を買っている。農民たちは実は脱走捕虜3人を倉庫で匿っていて、もう限界だから何でも安くする、ハムも付けるから引き取ってくれと押しつけられる。やむを得ずトラックの後ろに匿って、何とかドイツ軍の検問を通過してエスペリアジョバンナ・ラッリ)の家まで連れてきたのだった。衣装箪笥の後ろが屋根裏に通じていて、捕虜はそこで匿うことにする。

 脱走捕虜はイギリス、アメリカ、ソ連と国籍も違う組み合わせだった。尼僧に連れられてきたので、当然修道院のようなところへ行くと思うと、町中の家である。彼らは不審に思うが、実は尼さん姿は買い出し用の偽装だった。ドイツ兵も尼僧には警戒を緩めるらしい。第二次大戦末期、イタリアでは1943年にムッソリーニが失脚し、連合軍に降伏した。しかし、ヒトラーが直接ドイツ軍を送り込んでムッソリーニを救出してイタリア北部を占領していた。連合軍はシチリア島に上陸し、本土進撃を目前にしていた。そんな時代の話である。エスペリアは家に3人も男がいることが不安、一方、3人もここがどこだか判らず不安。朝になると鐘が鳴り始め、窓外を見るとローマではないか。サン・ピエトロ寺院やサンタンジェロ城が見える。
(昔ビデオになったらしい)
 英語、ロシア語、イタリア語が交錯し、意思疎通もままならないが、エスペリアは男友達のレナート(レナート・サルヴァトーリ)を呼んでくる。「若者のすべて」で次男シモーネを演じていた人である。レナートは秘かにレジスタンスに参加しているようで、足を負傷しているアメリカ兵のために英語を話せる医者を連れて来る。初めはすぐに追い出したかったエスペリアだったが、負傷者がいるのでむげに追い出せない。そのうちに情が通うようになり、クリスマスまでと決める。3人はクリスマスの飾り付けをして、エスペリアとレナートを歓待する。このあたりまでは人民の連帯を感動的に描きだしている。

 もちろんすべてうまく行くはずがなく、翌朝逃亡しようとしたときにレジスタンスの拠点が襲われてしまう。レナートとエスペリアも逮捕され、ソ連兵のイヴァンは逃げようとして射殺される。イヴァンはソ連の有名な監督・俳優のセルゲイ・ボンダルチュクが重厚に演じていた。米英の二人は何とか逃れてエスペリアの家の屋根裏に隠れたが、そこに屋根伝いに隣家の貴族の息子が救いにきた。貴族の館に匿われるが、そこにもドイツの秘密警察が訪れ、今度は修道院に逃れる。この段階では貴族も教会も(おそらくバチカンの指導層も)反ナチスで一致している。

 ドイツ軍が襲われ、報復としてレナートは殺されたと伝わるが、エスペリアは釈放された。しかし、イタリア人にも親ドイツ勢力は存在し、密告で修道院も襲われる。密告者の手はエスペリアにも伸びてくるが…。その頃、ローマは連合軍によって解放された。しかし、レナートを救おうとしてエスペリアはナチスの尋問に屈してしまったと涙ながらに語るのだった。民衆の中の気高い心と卑屈な心をともに描き出して、この映画は終わる。イタリア戦線のレジスタンス映画もずいぶんあるが、脱走捕虜を主人公にする点が珍しい。しかし、米英ソと一人ずつ出て来て、皆が皆善人でイタリア人と心通わせるというのが公式的だ。

 「ロベレ将軍」は舞台を収容所に限定しながら、「抵抗者とは誰のことか」というテーマを突き詰めていた。それに比べると、「ローマで夜だった」は今ではずいぶん公式的なレジスタンス映画に見えてしまう。だからこそ、その後ほとんど上映の機会もないんだと思う。ロッセリーニ監督は「無防備都市」「戦火のかなた」が世界的に評価された。それを見て、ハリウッドの人気女優だったイングリッド・バーグマンがロッセリーニのもとを訪れ、お互いに配偶者と子どもがあったのに恋愛関係になった。しかし、その時期の映画は「世界一の美女を妻にしながら、なぜこんな判らない映画に主演させるのか」と当時は思われたらしい。その時期のことはロベルト・ロッセリーニのバーグマン時代(2016.11.30)にまとめた。

 僕も50年代には評価されなかった「ストロンボリ」「ヨーロッパ、一九五一年」「イタリア旅行」などの不安と不条理の世界を生き抜くバーグマン主演映画が、今になるとロッセリーニの真骨頂だと思う。「ローマで夜だった」は公式的なレジスタンス映画の枠内で作られた「良心的映画」を脱していないように感じた。だからこそ、60年前の日本でベストテンに入選したのだと思う。もうすでにフランスではヌーベルバーグが始まっていた。フランスでは「ヌーベルバーグの父」と尊敬されたロッセリーニが作ったヌーベルバーグ以前の映画だが、戦争末期のイタリアの状況を教えてくれるという意味はある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロベール・ブレッソン監督「田舎司祭の日記」(1950)初公開

2021年06月21日 22時25分21秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスの映画監督ロベール・ブレッソン監督(1901~1999)の「田舎司祭の日記」(1950)が公開されている。なんと初公開である。ロベール・ブレッソンは映画史上の巨匠と認められているが、まだ未公開作品が幾つか残っている。あまり大衆受けしない映画ばかり作った監督で、スターは使わず素人を俳優に使ったことで知られる。音楽も使わず、ただ対象を凝視するような映像が続く。自分では「映画」と呼ばず「シネマトグラフ」と呼んでいたという。

 「田舎司祭の日記」(Journal d'un curé de campagne)はフランスの小説家ジュルジュ・ベルナノス(1888~1948)の1936年の小説の映画化である。この本の名前だけは、昔の新潮文庫に入っていたので知っている。文庫には「古典」だけが入っていた時代のことである。ブレッソンが映画化した「少女ムシェット」やモーリス・ピアラ監督が映画化した「悪魔の陽のもとに」の原作者でもある。カトリック作家として知られているが、若い頃は右翼団体アクション・フランセーズの活動家だったり、フランスを去ってブラジルで農場を経営したり、なかなか興味深い人生を送っている。

 「田舎司祭の日記」はブレッソンの長編第3作で、監督のスタイルが確立された映画と言われる。僕は昔第2作の「ブーローニュの森の貴婦人たち」を英語字幕で見たことがある。何だか全然判らなかった気がするが、なかなか独自の映画ではあった。それでもまだ映画音楽があったが、「田舎司祭の日記」では効果音しか使われていない。フランスの有力な映画賞ルイ・デリュック賞を受けた。主演したクロード・レデュは素人だったが、その後テレビの人形劇などで活躍した。

 映画は若い司祭が北フランスの寒村に赴任したところから始まる。司祭は初めての赴任で、さらに病気を抱えている。胃が不調続きで、肉や野菜を食べられずにパンとワインしか取らない。本当に何もないような村で村人も新人を温かく迎えるゆとりがない。自転車で村を回って人々の悩みに応えようとするが、なかなかうまく行かない。日々の思いや悩みを日記に書き付けたのが原作ということになる。それでは映画にならないから、ナレーションを多用しながら、主人公の司祭をずっと追い続ける。他の映画と同じく、ドキュメント的な作り方になっている。

 悩み多き司祭の楽しみは、子どもたち相手の教理問答。しかし、一番しっかりと教理を理解しているセラフィータは司祭に懐かない。村には領主がいて、広い屋敷に住んでいる。子どものためのフットボールチームを作ろうと領主を訪れると、悲しみにくれる夫人がいる。領主のもとには息子と娘がいたが、息子は事故で死んだという。それ以来夫人は神を信じない。夫は家庭教師と不貞しているらしく、娘は寄宿舎に送られると司祭に訴える。一族の悩み多き生活にどう対応するべきか。神を畏れぬ夫人に神の愛を説くのだが…。

 領主一族の問題に関わる内に、村人は彼を非難し司祭の病気は重くなる。その様子がドラマティックに描くけれど、基本的にキリスト教の神をどう理解するかというのがテーマである。だから登場人物にとってドラマなんだなとは理解出来るけれど、遠い感じもする。子どもが亡くなったという悲劇に立ち向かうのに、「神の愛」で納得できるのか。神など存在しないという方が納得できちゃうだろう。そういう風にテーマが日本人には遠いということが、ミニシアター・ブームの中でも公開されなかったんだろう。しかし、今見てもモノクロの力強い映像が印象的で、映画史的な意味でも、キリスト教文化理解の意味でも、重要な映画だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリヴィアとジョーン、東京生まれの姉妹女優②

2021年02月17日 22時33分38秒 |  〃  (旧作外国映画)
 1回目にオリヴィア・デ・ハヴィランドだけで長くなった。次は妹のジョーン・フォンテインについて。姉は理知的な美女という感じだが、妹は一見して「可愛い」タイプで、主人公が一目惚れしてしまうようなヒロイン役が多かった。この姉妹は仲が悪かったらしい。原因は判らないが、母が姉の方をより愛していたとよく言われる。そのためかジョーンだけ再び東京に帰って、聖心インターナショナルスクールを卒業した。帰国後に舞台に出た後に映画会社と契約した。
(「レベッカ」)
 ジョーンはヒッチコック監督のハリウッド第一作「レベッカ」(1940)で成功した。「レベッカ」は今見ても鮮烈なサスペンス映画で、この一作でアカデミー作品賞を受賞してしまった。ジョーンも主演女優賞にノミネートされた。富豪の夫ローレンス・オリヴィエに請われて結婚したものの、先妻の謎の死に怯えるサスペンスが怖い。ゴシック・ホラーの傑作だ。そして続いてヒッチコックの次作「断崖」(1941)に主演して今度はアカデミー主演女優賞を受賞した。結果的にヒッチコック映画で俳優がアカデミー賞を受賞したのはジョーンだけである。
(「断崖」)
 シネマヴェーラでは今まで2回ヒッチコック特集をやっているが、「断崖」の上映はなかった。僕もテレビで見ただけなので期待して見たんだけど、あまり面白くなかった。日本では1947年に公開されてベストワンになっているが、ヒッチコックの最高傑作とは言えない。フランシス・アイルズのミステリーの映画化で、ケーリー・グラントが列車の中でジョーン・フォンテインを見初める。ジョーンは舞い上がって結婚するが、男は無職の一文無しだった。夫は全然仕事に就く感じもなく、妻はやがて夫に殺されるのではないか…と疑心暗鬼になっていく。ケーリー・グラントがひどすぎて、ジョーンに同情できない。確かに魅力的なんだけどという映画だった。
(「忘れじの面影」)
 1943年の「永遠の処女」で三度目のアカデミー賞ノミネート。しかし上映はなく見たこともない。同年の「ジェーン・エア」は有名な原作の映画化で、前に見てるからパス。夫がオーソン・ウェルズに代わっただけで、ジョーンの役柄は同じような感じ。夫や先妻を気にする若い妻である。1948年の「忘れじの面影」(マックス・オフュルス監督)はアパートの隣に引っ越してきたピアニストに恋した娘の哀しいロマンスを描く。思い続けてある一夜に結ばれたが。監督の語り口が絶妙で見せるんだけど、ジョーンの役柄は似たようなもので観客はジョーンを見るだけ。

 ジョーンの役柄は似たようなものが多い。その中でもジョーンの美貌だけに頼っているのが「旅愁」(1950)だ。テーマ曲の「セプテンバー・ソング」が有名で昔から名前は知っていたが初めて見た。飛行機が故障でナポリに降りる。修理の間に、機内で知り合ったジョゼフ・コットンとジョーン・フォンテインはナポリ見物に出かける。どうせすぐ直らないと油断したら、空港に戻った時飛行機はもう出発していた。二人はもう離れられなくなっていたが、その飛行機が地中海で墜落したことを知って…。いくら当時だって遅れた乗客はチェックしているだろう。
(「旅愁」)
 女はピアニストで、先生を戦前のフランス映画の大女優フランソワーズ・ロゼーがやっている。男の妻はジェシカ・タングで、脇役は面白かった。当時のアメリカ人の「イタリア幻想」がよく判る観光映画。映画としてはなるほどジョーンとだったら、死んだことになってもいいかなとは思うかも。女は有能なピアニストで、結婚せずに生きてきて一世一代のロマンスに巡り会う。ジョーンも30を過ぎて、このような役が回ってくるのも終わりかかっていた。それでもジョーンは確かに魅力的だ。映画としてはデヴィッド・リーンの「旅情」には全く及ばない。

 その後の「生まれながらの悪女」(1950)や「二重結婚者」(1953)では少し違った役をやっている。しかし、映画としてはともかく、女優として成功したとは思えない。こうして見てくると、姉のオリヴィアの方が演技の幅が広い演技派だったと言えるだろう。それは偶然ではなく、オリヴィアは自分の望む役を求めて闘った人だった。当時は契約期間内にオファーされた役を断った場合、その分だけ契約が延びる慣行があった。これに対して訴訟を起こして勝訴したのである。ハリウッドではプロデューサーが絶対的な権力を持つことが多かったが、それに対して俳優の権利を主張したのである。これは「デ・ハヴィランド法」と呼ばれている。

 当時のことだから、女優は30を過ぎると主役に恵まれなくなる。オリヴィアは映画界に2年間干されたこともあった。二人とも結婚して育児に時間を取られたこともある。やがて二人とも脇役で映画にも出るが、それ以上に舞台やテレビで活躍したようである。舞台公演で各地を回れば、昔の知名度で長く人気を得られるし、クローズアップもない。日本でも映画が斜陽になった60年代に、映画女優の多くは舞台やテレビで活躍した。オリヴィアは「アナスタシア」というテレビドラマのロシア皇太后役で、ゴールデングローブ賞を受賞している(1986年)。それにしても30年以上前のことで、何しろ姉妹とも長命だったから知らない人も多いだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリヴィアとジョーン、東京生まれの女優姉妹①

2021年02月16日 23時29分47秒 |  〃  (旧作外国映画)
 最近は昔の映画を見ることが多かった。特にシネマヴェーラ渋谷でやっている「オリヴィア・デ・ハヴィランド追悼 女優姉妹の愛と相克」をかなり見たので簡単にまとめ。オリヴィア・デ・ハヴィランドは2020年7月26日に亡くなった。なんと104歳である。妹のジョーン・フォンテインも有名な女優で、2013年に96歳で亡くなった。現在までともにアカデミー賞主演女優賞を受賞したただ一組の姉妹である。親子で違う部門の賞を取ったケースはあるが、姉妹では二度とないのではないか。そして、この二人は共に東京で生まれたのである。

 何で二人が東京で生まれたかといえば、父親のイギリス人、ウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872~1968)が日本に働きに来ていたからだ。特に専門技術や宗教的情熱があったのではなく、先に日本に来ていた兄を追ってきたらしい。そして函館や金沢で英語を教えた後で、東京高等師範学校の教師になり、1906年に退職して特許事務所を開いた。東京で早稲田大学教授アーネスト・ルースの妹リリアンと出会い、一度はプロポーズを断わられたが、第一次大戦が勃発して帰国したウォルターは母国で再度プロポーズした。年齢はすでに42歳だった。
(「風と共に去りぬ」のオリヴィア・デ・ハヴィビランド)
 ニューヨークで結婚して東京に戻り、1916年にオリヴィア、翌年にジョーンが生まれた。「デ・ハヴィランド」(de Havilland)とは珍しい名前だが、もともとは英仏海峡のチャネル諸島ガーンジー島の貴族で、ノルマン王朝のイングランド征服に従った一族だという。ウォルターは日本では函館や東京などでサッカーを教えたことで、黎明期の日本サッカー史に名前を残している。
 
 父親は囲碁を紹介する本も書いているように、趣味人タイプだったようだ。子どもが病弱で帰国する途中で夫婦関係が破綻して、ウォルターだけが女中と日本に戻った。「ゲイシャガール」を持ちたかったらしく、帰国後にその女中と再婚した。戦時中に日本人の妻とカナダに移住し、妻の死後に三度目の結婚をして96歳で亡くなった。姉妹とも長命だったのは父の体質だろうか。それほど有名な人ではないが、ウィキペディアに載っていて以上の情報はそれによっている。

 イギリスに帰る途中で子どもたちが病気になって、母と姉妹はカリフォルニアに止まった。リリアンはロンドンの王立演劇学校を出た舞台女優で、子どもたちにシェークスピアを読み聞かせたりした。その後母は再婚し、その相手の姓がフォンテイン。二人は姉妹仲が悪かったことで有名で、別の姓を名乗ることになった。オリヴィアは高校演劇で評価されワーナーと契約しアクション映画やコメディに出演した。そして1939年の「風と共に去りぬ」でスカーレット・オハラの友人メラニー役が一躍評価されてアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。同じく女優になっていたジョーンはスカーレット役を狙っていてヴィヴィアン・リーに敗れた。

 オリヴィアは正統的な美女で、ちょっとマジメなために婚期に遅れそうといった役柄が多い。「国境の南」(1941、Hold Back the Dawn、日本未公開)ではアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、なんと受賞したのはヒッチコック「断崖」に出ていた妹のジョーン・フォンテインだった。「国境の南、太陽の西」という村上春樹の長編があるが、その「国境の南」は1939年の「South of the Border」 という歌である。同名の映画のテーマだと言うが、今回の映画ではない。
(「国境の南」)
 大戦中に米国入国を待つ人々がメキシコ国境の町に溜まっている。ジゴロのシャルル・ボワイエは米国人と結婚すれば早く入国できると知って、子どもたちの遠足で来た小学校教師オリヴィアに目を付ける。帰れないように車に工作し、翌朝には結婚に持ち込んでしまう。しかし、ヨーロッパで一緒に組んで詐欺を働いていた女が仕組みをバラしてしまう。そんな中でアメリカの捜査官が迫ってくるのだが。婚期に遅れて大学院に行こうかと思っていた女性教師が一途な恋に目覚めてしまった切ないメロドラマ。貴重な映画だが、やはり当時のハリウッド的な結末になっている。

 名監督ジョン・ヒューストンの第2作「追憶の女」(1942)では妹のベティ・デイヴィスが夫と駆け落ちして、やがて行き詰まった夫は自殺する。残されたオリヴィアはベティの婚約者だった男性と次第に心を通わせるようになっていくが、そこにベティが戻ってきて…。名優ベティ・デイヴィスが暴走するドロドロの不倫ドラマを落ち着いたオリヴィアの演技が救う。
(「追憶の女」、ベティ・デイヴィスと)
 「暗い鏡」(1946、ロバート・シオドマク監督)はオリヴィアが双子の姉妹を一人二役で演じるミステリー。殺人事件が起き、目撃証人もいるが、逮捕しようと思うと全く顔かたちが同じ姉妹だったことが判明する。これではアリバイも証明しようがなく、捜査は迷走するが…。正反対の姉妹をオリヴィアが演じ分け、しかも同じシーンで一緒に写っている撮影には驚き。光と影が印象的なモノクロのノワール映画で、いかにも昔のハリウッド映画の醍醐味。

 「蛇の穴」(1948、アナトール・リトヴァク監督)も凄い。幼い頃からのトラウマで心を病んだオリヴィアは精神病院に入れられる。当時のことで治療には「電気ショック」という恐怖の連続で、そこを精神分析で救おうという医師が奮闘するが、果たして治癒するのか。恐るべき精神病院というのは、昔の映画には時々出て来るが、この映画は最高レベル。オリヴィア・デ・ハヴィランドの演技は見事で、アカデミー主演女優賞にノミネートされた他、ニューヨーク映画協会主演女優賞やヴェネツィア映画祭女優賞など多くの演技賞を受賞した。
(「蛇の穴」の電気ショック)
 オリヴィア・デ・ハヴィランドがアカデミー賞主演女優賞を獲得したのは「遙かなる我が子」(1946)と「女相続人」(1949)だった。「遙かなる我が子」は監督のミッチェル・ライゼン(「国境の南」と同じ)と共に今は忘れられたような映画で、今回も上映がなかったので全然判らない。「女相続人」はヘンリー・ジェイムズ原作の舞台化が基になった究極の文芸心理ドラマ。ここでも「オールドミス」の資産家の娘の恋を演じている。名匠ウィリアム・ワイラー監督の本格ドラマだが、昔リバイバルされたときに見ているので今回はパスした。

 他に「いちごブロンド」(1941)と「謎の佳人レイチェル」(1952)を見た。後者は「逆レベッカ」という感じで、年上のオリヴィアにいかれてしまう青年を若き日のリチャード・バートンが演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされた。オリヴィアは珍しく謎めいた悪役的演技。父親が長くなってしまって、妹のジョーン・フォンテインを書くのが大変になった。オリヴィアにもまだ書くことがあるんだけど、一端切ってもう一回書きたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウォン・カーワァイ(王家衛)監督の映画

2020年11月20日 22時15分39秒 |  〃  (旧作外国映画)
 香港の映画監督、ウォン・カーウァイ(王家衛、1958~)の映画を6本見た。池袋の新文芸坐の特集上映で、もう先週に終わっているが一応記録しておきたい。都合で全部は見られないはずが、都合の方が変わって6本全部見た。デビュー作の「いますぐ抱きしめたい」(1988)、キムタクが出た「2046」(2004)、アメリカで撮影した「マイ・ブルーベリー・ナイツ」(2007)、現時点で最後の「グランド・マスター」(2015)がないけれど、代表作は全部見直したことになる。

 改めて思ったのは、ウォン・カーウァイ映画は、クリストファー・ドイルだ。オーストラリア出身の撮影監督である。今回見た6本は全部ドイルで、杜可風という中国名もある。ウォン・カーウァイ映画で有名になり、その後は中国、アメリカ、日本などでも活躍している。(公開中の手塚真監督「ばるぼら」もドイル。)手持ちカメラが多いが、スタイリッシュな画面構成に魅入られてあまり気にならない。暗い夜の映像を魅惑的に撮影し、光と影の中にたたずむ人物を忘れられなくする。

 「欲望の翼」(1990)は多分見てないか、見たとしてもあまり覚えていない。強く印象づけられたのは、多くの人がそうだったように「恋する惑星」(1994)だった。他の映画も似ているが、ウォン・カーウァイの映画では、前半と後半が違ったりすることが多い。この映画も香港の警官二人、金城武トニー・レオンのエピソードがある食べ物屋だけを共通点にして別々に語られる。後半のトニー・レオンの部分で出てくる新入り店員フェイ(アジアを代表する歌手と言われるフェイ・ウォン)が圧倒的に素晴らしい。フランス映画「アメリ」のオドレイ・トトゥみたいな役が魅力的。
(「恋する惑星」)
 画像にある有名なセントラルの「世界で一番長いエスカレーター」もうまく使われている。僕も行ったことがあるけれど、何だか不思議な名所になっている。何度も出てくるママス&パパスの「夢のカリフォルニア」(California Dreamin')も上手に使われている。前に2回見ているけれど、この新鮮な感覚は3回目でも全く薄れていない。「物語」というより、映像編集で切り取られた「香港の青春」が生き生きしているのだ。恐らくもう作りようがないのが寂しい。
(「天使の涙」)
 「楽園の瑕」をはさんで、1995年の「天使の涙」(原題=堕落天使)はもともと「恋する惑星」のエピソードの一つだったという。似た感じがあるのはそのためだろう。殺し屋レオン・ライと謎のエージェント、ミシェル・リー。それに金城武チャーリー・ヤンカレン・モクの関係が交錯する。どうも僕はこの映画が判らない感じ。ストーリーを楽しむ映画じゃないんだろうが、それにしてもゴチャゴチャしていて付いていくのが大変。作品的にちょっと弱いなと思っていたが、再度見ても同じだった。

 僕が一番好きなのは、「ブエノスアイレス」(1997)だ。カンヌ映画祭監督賞を受賞した作品で、題名通りアルゼンチンの首都で撮影されている。ゲイのカップルをレスリー・チャントニー・レオンが演じている。この時代にはセクシャル・マイノリティの映画はまだ少なかった。トニー・レオンがゲイ役は出来ないと断ったというが、なんか欺されて呼ばれたらしい。撮影が延びて、レスリー・チャンはコンサートの予定があるからと帰っちゃって、後半には出て来ない。
(「ブエノスアイレス」)
 ウォン・カーウァイ映画はそんなものと思っているから、今度は若いチャン・テェンの役割が膨らむことを見る側も納得しちゃう。ほとんどモノクロで、パンパやイグアスの滝が絶妙に撮影されている。カット一つ一つが見事にスタイリッシュで、惚れ惚れする。香港や台湾の若者が南米をさすらっても不自然ではない時代になった。僕がこの映画を好きなのは、基本的に「腐れ縁」の映画だからだ。「浮雲」や「秋津温泉」、あるいは「COLD WAR あの歌2つの心」みたいに。「ブエノスアイレス」も別れられずに南米まで来てケンカしているカップルだ。
(「花様年華」)
 「花様年華」(2000)はトニー・レオンカンヌ映画祭男優賞を獲得した。日本やヨーロッパで非常に高く評価されている映画だが、僕はどうもスタイリッシュ過ぎる気がする。1962年から数年間の香港を舞台にして、新聞記者から作家になるトニー・レオンと隣家に住むマギー・チャンの触れあいを描く。どうやら二人の夫と妻が親しくなったらしく、その事に気付いた二人も接近する。お互いの気持ちに気付きながら、何とか止めたいとする二人だったが…。ナット・キング・コールの「キサス・キサス・キサス」初めラテンミュージックが心に残る。名品には間違いない作品だ。
(「楽園の瑕」)
 1994年に作られた「楽園の瑕(きず)」(東邪西毒)は、今では監督自身が再編集した「楽園の瑕 終極版」(2008)が上映されている。スターがたくさん出ている「武侠映画」だが、ストーリーが判りにくく興行的には失敗した。でも映像とセリフがカッコよすぎて、一度見たら忘れられない映画。今回が3回目だが、内容が何だか全然判りにくいのは変わらない。でも、その判りにくいところが魅力だというしかない。武侠映画らしからぬ、剣戟シーンより人間心理の謎の方が面白い。
(「欲望の翼」)
 「欲望の翼」(1990)は、カーウァイ、ドイルのコンビの誕生した作品で、詩的なセリフ映像美錯綜した人物関係など後の映画の出発点になった。2018年に上映されたリマスター版は今度初めて見たが、もしかしたら原板を見てないかも。1960年の香港で、満たされない思いを抱いた青年たちが描かれている。マギー・チャンの役名が「花様年華」と同じで、前編的だというが内容的にはつながるものはない。実母に捨てられたレスリー・チャンがフィリピンまで母に会いに行く。そのジャングルの映像が折々にインサートされるが、ラテン音楽が流れて心の空虚を映し出す。完成度はまだまだだが、その意味で「未完成の魅力」が詰まっている。
(ウォン・カーウァイ監督)
 ウォン・カーウァイの映画とは何だったのか。「香港」は大陸や台湾に先駆けて映画が世界で有名になった。最初はブルース・リージャッキー・チェンなどのアクション映画が中心だったが、次第に作家的な映画も現れる。「香港ノワール」でもジョニー・トー監督や「インファナル・アフェア」シリーズのような作品的な完成度が高い映画が出てくる。アン・ホイピーター・チャンなど多彩な監督が活躍する中、世界的人気や映画的完成度ではウォン・カーウァイが突出している。

 しかし、ウォン・カーウァイの成功は、「香港」が中華世界で持っていた独自性にも負っていたのではないか。「自由」と「拘束」の微妙なバランスが全ての映画に共通している。「自由」の失われた香港では、このような映画は作れない。90年代の「香港返還」の前後に作家的ピークを迎えたが、直接には同時代の社会問題を描かないウォン・カーウァイも「時代」を生きていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロベール・ブレッソン監督「バルタザールどこへ行く」「少女ムシェット」

2020年11月19日 20時50分06秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスのロベール・ブレッソン監督(1901~1999)の映画「バルタザールどこへ行く」(1966)と「少女ムシェット」(1967)を見た(新宿シネマカリテ)。「バルタザールどこへ行く」は1970年にATGで公開され、「少女ムシェット」は1974年に岩波ホールで公開された。その後一回リバイバル上映されているようだが、見た記憶がない。最初の上映で見た時以来じゃないかと思う。
(「バルタザールどこへ行く」)
 ブレッソンの映画ではキネマ旬報ベストテンに入った「抵抗」や「スリ」という映画が見られたのは最近のことだ。僕が若い頃に見られたのは、この2本と「ジャンヌ・ダルク裁判」ぐらいだった。いずれも研ぎ澄まされたというか、研がれ過ぎてしまった感じの映画である。「物語の本質」に鋭く迫るものだとは思うが、玄米を研いで白米にして、さらに研いでいくような映画ばかりだ。純米酒造りじゃないんだし、僕はもう少し雑なものが映画に入っていた方が好きだ。
(ロベール・ブレッソン監督)
 「バルタザールどこへ行く」は96分あるが、「少女ムシェット」はわずか80分だ。それで短いと感じさせない。「バルタザール」というのはロバの名前で、映画はずっとバルタザールの運命を見つめ続ける。「少女ムシェット」も幸薄き少女を見つめ続ける。だから、僕はブレッソンの映画は「凝視する映像」のように思い込んでいた。しかし、久しぶりに見直してみたら、案外普通にカットバックを積み重ねた映画だった。タル・ベーラ監督「ニーチェの馬」とは違うのである。
(「バルタザールどこへ行く」)
 「バルタザールどこへ行く」では少女マリーがロバにバルタザールと名を付けて可愛がる。しかし校長だった父が農業経営に乗り出し、周囲との紛争に巻き込まれて没落してゆく。アンヌもまた悪い男にたぶらかされて堕落してゆく。バルタザールは売られたり、サーカスに出たり、虐待されて逃げたりと転々とし、最期はピレネー山脈の羊たちの中で死んでゆく。

 人間の心理描写抜きなので、バルタザールの転々とする運命だけが崇高さを感じさせてゆく。主演のアンヌ・ヴィアゼムスキーは当時17歳で、作家モーリアックの孫だった。この映画で抜てきされ、ゴダールの「中国女」に出演した後、ゴダールと結婚した。離婚後に作家となって、2017年に亡くなった。ヴェネツィア映画祭審査員特別賞など受賞。
(「少女ムシェット」)
 「少女ムシェット」の主人公は14歳の少女ムシェットである。母は産後の具合が悪く、父は横暴で、ムシェットが赤ちゃんと世話している。家庭的に恵まれないムシェットはクラスメートからも(教師からも)無視されている。ムシェットの方も黙っていないで、放課後になると泥をつかんで他の少女に投げつけている。孤独で居場所がない少女は森をさまよって、密猟者と遭遇する。それからは悲劇が相次いで襲うが映画はただ苛烈な運命を見続ける。

 原作はカトリック作家ジョルジュ・ベルナノスで、ブレッソンの出世作「田舎司祭の日記」(1950)と同じだ。(「田舎司祭の日記」は未だに正式に公開されていないで見ていない。)この後、ブレッソンはドストエフスキー原作を基に「やさしい女」「白夜」を作った。どっちもこれがドストエフスキーかと思う凝縮映画だった。文章では心理描写が出来るが、演劇や映画では心の中を直接描けない。そこでナレーションを入れるとか、説明的セリフで工夫するものだが、ブレッソンの映画はそれがない。そのことで人間の生の姿が焼き付けられて、宗教的な境地にまで至ってゆく。そんな映画だから、いわゆる「面白さ」はないんだけれど、「聖なるもの」に触れた触感が残る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする