尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

岩波新書『桓武天皇』(瀧浪貞子著)を読むー画期的な桓武論に驚き

2023年10月04日 23時22分39秒 |  〃 (歴史・地理)
 家に読んでない本がいっぱいあるから、最近はネットで買わないことにしている。リアル書店を支える気持ちが強いのだが、なかなか大きな本屋に行く時間もない。買いたい本がいろいろあって、少し前にやっと行ったけど、つい歴史系の新書も買ってしまった。すぐに読みふけると、やはり面白いのである。いまや新書といえども千円超えるものが多いし、授業に役立てる意味もない。でも「趣味」なんだなあと思って、時々は買いたいと改めて思った。

 買ったのは呉座勇一動乱の日本戦国史 ― 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで ―』(朝日新書)と瀧浪貞子桓武天皇 ー決断する主君』(岩波新書)である。呉座氏の本は今まで紹介したこともあるが、とにかく面白い。桶狭間の戦い、長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど、有名な戦国時代の「戦い」に関して通念と近年の新研究を検討している。信長の奇襲(桶狭間)、武田騎馬軍団対織田鉄砲隊の三段打ち(長篠)など、昔聞いたような話はどんどん更新されている。昔読んだり聞いたままになってる人は読んで欲しいと思うが、まあ僕は大体知ってたな。ということで、ここでは簡単な紹介だけ。

 問題は瀧波貞子氏の『桓武天皇』である。「桓武」は言うまでもなく「かんむ」と読む。日本史上に名高い「天武天皇」「聖武天皇」などと並ぶ「諡」(おくりな)に「」(む)が付く天皇である。桓武天皇は日本史上の超重要人物で、絶対に覚えたはずである。何しろ「平安遷都」を行った人で、その年も大体覚えてるだろう。「鳴くよウグイス平安京」で、794年。日本史上最長の都であり、世界的大観光都市でもある「京都」を作った人物ということになる。
(桓武天皇)
 瀧浪貞子(1947~)氏は日本古代史が専門で、京都女子大名誉教授。近年女性天皇の評伝などの一般書を多く出している。集英社の「日本の歴史」シリーズで『平安建都』(1991)を執筆し、その本は僕も読んだ。ところが今回の本を読むと、「今まで誰も気付かなかったが」というフレーズが多用されている。以前書いた自分の本の記述も大胆に変更しているのである。ちょっと細かい話になるかもしれないが、以前は桓武天皇の父、光仁天皇の即位をもって「天武系から天智系へ」と理解されていた。教科書には天皇系図が載っていて、それを見れば一目瞭然。天武天皇から直系で続くのは称徳天皇で途絶え、天智天皇の息子施基親王(志貴皇子)の子である光仁天皇が62歳で即位したのである。「天武系から天智系へ」ではないか。
(瀧浪貞子氏)
 ところが当時の人々の意識では、光仁、桓武天皇は「天武系」だったというのである。それは施基親王が「吉野の盟約」に参列していたからである。679年、天武天皇と皇后(後の持統天皇)は6人の皇子とともに吉野に行幸し、草壁皇子(天武・持統の子ども)を事実上の次期天皇とし、兄弟が協力するように盟約を結んだ。(しかし、即位前に草壁は死亡し、母の持統が即位する。)その時の6人の皇子は、天武の子の草壁、大津、高市、忍壁と天智天皇の子の川島、施基(志貴皇子と書くことが多いが、この本では施基とする)だった。僕もその盟約は知っていたが、天智の皇子が二人入っていたことは重要視しなかった。

 というか、こういう盟約を結んでも、その後よく知られているように大津皇子は反逆の罪に問われ死を選ぶ。その密告をしたとされるのが川島皇子である。そういう意味で、「盟約」は崩れたと思いこんでいた。だが奈良時代を通じて、「盟約」は「伝説」「伝統」とみなされるようになり、施基皇子もいわば「名誉天武系」と扱われていたというのである。施基皇子は陰謀渦巻く奈良政界に背を向けて、歌人として万葉集に載るなど文化人として生き延びた。その第6皇子が白壁皇子(光仁天皇)で、聖武天皇の皇女井上内親王を妻としたのも、そのような「天武系」扱いだったからだ。

 聖武天皇の男子が亡くなった後で、未婚の女性だった皇女阿倍(あへ)内親王が即位し、孝謙天皇となった。一時は淳仁天皇に譲位したが、かつての寵臣藤原仲麻呂との関係が悪化し「藤原仲麻呂の乱」が起きる。仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は廃された。その後、前天皇が重祚(ちょうそ=二度即位すること)して、称徳天皇となった。称徳天皇は僧の道鏡を重く用い、道鏡は自ら後継の皇位を望んだという。しかし、天皇は後継を決めずに亡くなり、白壁皇子が62歳(日本史上最高齢の即位)で光仁天皇となった。皇后は聖武天皇の娘、井上内親王で、皇太子は二人の間の子、他戸(おさべ)親王だった。

 一方、桓武天皇(山部皇子)は生母の身分が低く(百済渡来系の和=やまと氏)、当初は光仁の後継者とは想定されていなかった。それが(恐らく藤原百川らの暗躍もあって)井上内親王、他戸天皇が廃され、山部が皇太子となった。781年に譲位され山部が即位すると、同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とする。しかし、この早良も785年に廃され、実子の安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。つまり、桓武は皇位を継ぐとは誰も思わないところから出発し、自身の子孫が皇位を継ぐように歴史の流れが変わったのである。しかし、その影で自分の弟二人を死においやった。そのため早良親王の「怨霊」に長く苦しめられる。

 何だか長くなってしまった。このことは歴史に詳しい人ならよく知られていることだ。だが、この本は細かく史料を検討し直し、桓武の心情を新たな目でとらえている。かつて原武史昭和天皇』(2008)を読んだとき、実母(大正天皇の皇后)の干渉や宗教狂いに苦しむ姿が印象的だった。天皇も人間なんだから、家族問題の悩みを抱えている。この本で読む桓武も、身分の低い母から生まれたという周囲の目をいかに意識していたか悩みが伝わる。そこで抜てきした藤原種継とともに、奈良の都を捨て784年に長岡京への遷都を決断した。ところが翌年に長岡京で種継が暗殺されるという大事件が起こる。
(長岡京跡地)
 これも「何か起こる」と察知した桓武はその時わざと都を空けていたという。まさか暗殺までとは思わなかったのだろう。そのぐらい長岡京遷都(平城京廃都)への反対が多かったのである。実行犯も特定され、昔から有力な大伴一族などが数多く罰せられた。歌人として知られる大伴家持は直前に死亡していたが、死後に処罰された。そんな中で、桓武は長岡京を捨て、さらに平安京への遷都を決める。その上申を行ったのが、何と和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)だった。和気清麻呂は戦前の教育を受けた人なら、日本史上の大忠臣として誰もが知っていた。道鏡が皇位を望んだとき、宇佐神宮まで神託の確認に行った人である。その時に皇族以外に継がせてはならないという神意を持ち帰った。そのため「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅(鹿児島県東部)に流された。光仁時代になって復権し、民政専門家として活躍したという。
 (和気清麻呂)
 和気清麻呂は「皇統を守った」として、戦前は10円札の肖像にもなった。各地に銅像も建てられ、上記画像は皇居外苑に今もあるもの。その和気清麻呂の後半生を知らなかったが、実務官僚として桓武朝で重く用いられ、平安京建設の中心となったのである。この人物の再評価も必要だと思う。さて、他にも「蝦夷」との戦争、仏教との関わり(特に最澄)など後の時代に大きな影響を与えた政策がある。また渡来系一族との関係など、今まで知らなかったことがいっぱい。まあ、一般的にはここまで知らなくても良いと思うが、こういうトリビアルな検討から人間や時代の全体像を構想するのが、歴史の醍醐味なのである。その意味で「桓武天皇」という重要人物を身近に見た感じがした。もっとも善し悪しは別であるが。
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『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』(ちくま文庫)を読む

2023年09月17日 22時32分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連の本を読んできて、これが最後。西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』(2018、ちくま文庫)を読んだ。先に書いた江馬修羊の怒る時』の解説(西崎雅夫)の最後に、この本が紹介されていた。そう言えば、持ってたはずだと思って探したけど見つからない。あっちこっち探し回って、何のことはないすごく近いところに積まれていた。この本は基本的には証言集なので、全員が読むというのは無理があるだろう。しかし、様々な「証言」を積み重ねることで「量が質に転化する」凄みがある。この問題に関心がある人ばかりでなく、学校現場の「自ら考える授業」などで是非使って欲しい本だ。

 この本は6つのパートに分かれている。「子どもの作文」「文化人らの証言 当時の記録」「文化人らの証言 その後の回想」「朝鮮人の証言」「市井の人々の証言」「公的史料に残された記録」である。人間ひとりひとりの見聞は狭いわけだが、関東大震災レベルの出来事になれば、非常に多くの人々が様々に書き留めていた。それを集合することで、ある程度全体像を再現出来るわけである。例えば、子どもの証言は一つ一つを検証すれば、思い込みや理解不足もあるはずだ。だが、学校で書いて公的に残された作文集などを通して、いかに「朝鮮人さわぎ」が恐怖だったかがよく判るのである。

 文化人の中では、志賀直哉、芥川龍之介、寺田寅彦、和辻哲郎などの他、今はあまり知られていない人物もいる。また、その後の回想には戦後に書かれた自伝なども集められている。それらの証言は文章を書く人がまとめたものだから、最初に出てきた子どもの作文を大人の目で理解しやすくしている。ところで、芥川龍之介大震雑記」は、今では内容的にちゃんと読めない人がいるらしい。

 「僕は善良なる市民である。」と始まり「しかし僕の所見によれば、菊池寛はその資格に乏しい。」「そのうちに僕は大火の原因は○○○○○○○○そうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論そう云われて見れば「じゃ、嘘だろう」と云う外なかった。」この調子でまだまだ続くが、これを芥川が「朝鮮人犯行説」を信じていた証拠と読む人がいるらしい。リテラシー(読解能力)の大切さをよく示す例だろう。短文だから是非読んでみて欲しい。

 圧倒的なのは、「市井の人々」の証言だろう。被害者側の「朝鮮人」の証言もあるが、数としては少ない。一方「市井の人々」は120ページもあって、54人もの証言が収められている。この場合、注意するべき点は「生き残った人しか証言できない」ということだ。多くの人が「朝鮮人に間違えられた」という恐怖体験を語っている。しかし、何とか逃れることが出来たために、後になって証言出来たのである。中には証明出来なかった人もいるはずだ。例えば聴覚障害者が犠牲になったケースもあるが、そういう人は証言出来ないのである。

 地域的には東京東部(東京市外)が火災も虐殺も多かった。当時の東京市は15区で、現在の新宿、渋谷、池袋なども市外(新宿、渋谷=豊多摩郡、池袋=北豊島郡)だった。江馬修は西側の東京市外に住んでいて、そのため火災にはあわずにすんだ。一方、隅田川の東では本所区(現墨田区南部)、深川区(現江東区西部)までが市内だった。JRの駅で言えば、錦糸町までが市内で、亀戸から市外の南葛飾郡である。そこが東京最大の工業地帯であり、労働運動も盛んだった。また1913年から荒川放水路の掘削工事が始まり、震災翌年の1924年に岩淵水門が完成して放水路への注水が開始された。

 このような工場や工事があり、零細な朝鮮人労働者は東部地域に多かった。一帯が焼失し、逃げていくためには川を渡らなければならない。四ツ木橋や小松川橋を目指すことになり、亀戸署や寺島署管轄地域に朝鮮人が集結して悲劇が起きる。また「亀戸事件」(労働運動家の虐殺事件)が起きたのも、たまたまではなくそれ以前から労働運動と警察の対立が続いていたのである。しかし、本書では東京東部の証言が思ったよりも少ない気がする。それは虐殺事件が一番多かった地域では被害者は証言出来ないのである。そういうことに注意して読む必要がある。
(西崎雅夫氏。追悼碑の前で。)
 多くの証言でよく判るのは、「社会主義者」と「朝鮮人」の虐殺は別々のものではなく、密接に結びついていたことである。当時の言葉で言えば、「主義者」と「不逞鮮人」である。(権力者側も「国家主義」や「天皇制絶対主義」などの「主義者」だったはずだが、当時それは「主義」とはされず、国家に反逆する「社会主義」や「無政府主義」だけが「主義」だったのである。また「朝鮮人」の「朝」は「朝廷」に通じるとして、下を取って「鮮人」と略称された。朝鮮を「鮮」と略すのは差別表現である。)

 外国と結んで「日本」を滅ぼそうとする「主義者」、その手足となって放火や暴動を起こす「不逞鮮人」というセットで「陰謀」が成り立つ。双方が「敵」であり、日本人であっても長髪だった画家や作家などは「主義者」と疑われて、自警団の検問でひどい目にあったことが多い。このような「陰謀論の構造」はどこかしら現代のそれと相通じるものがある気がする。「主義者」と「不逞鮮人」の「暴動」は、直接見た人が誰もいないのに、多くの人が信じてしまったこともこの本で判る。缶詰を持っていると「爆弾」、小麦粉を持っていると「毒薬」など、一度疑い出すと何でも疑惑の対象となる。

 と同時に、誰もが虐殺に関与したわけではない。多くの人はそこまでは出来ない。怪しいとしても確証はない、怪しければ警察に突き出せば良いなどと思っていた人が多いようだ。(「わが町を守るため自分が殺した」という証言は一人もない。)それに対して、突然暴力を振るう人が現れた。そもそも「武器」を持って自警団に集結して、「天下晴れての殺人」だと思っているのである。そういう人はどんな人々だったのだろうか。仮に「敵」とみなしたとしても、人間に向かって「鳶口」を頭に振りかざすことなど、慣れている人じゃないと不可能だ。

 軍隊経験があり(地域では「在郷軍人会」に組織され)、職業としては職人や小商店主など「労働者」や「旧中間層」に属する。都市の下層で、自分の生まれ住む「地元」意識が強く、労働力として競合する朝鮮・中国人を嫌っていた。そういう日常的に鳶口などを使い慣れた人々を想定出来るかと思う。これは恐らく20年後に「日本ファシズム」の支え手となった層(丸山真男の分析)と重なる部分が多いのではないか。そこら辺はもっと細かな分析が必要だが、証言を読んでいくと「どこでも似たような構図で虐殺が起きている」「同じようなタイプの人が虐殺を始めている」という印象を持つのである。
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大杉栄虐殺事件と甘粕正彦ー佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』を読む

2023年09月10日 22時58分58秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連で持ってた本に、佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社、2008)があった。470ページを越える重くて厚い単行本で、持ち歩くのも大変。15年間放って置いたが、この機会に読まないと永遠に読まずに終わりそうだ。著者の佐野眞一氏も2022年9月に亡くなっている。「甘粕正彦」という名前も知らない人が増えてきたかもしれない。映画『ラスト・エンペラー』で坂本龍一が演じたが、「満州国」で暗躍したことで様々の伝説に包まれた人である。

 この本は当時はまだ存命だった関係者の家族を探して新資料を発掘している。その結果、「甘粕正彦」という近代日本史上でも非常に興味深い人物に限りなく迫ったと言える。近代日本史に関心がある人には絶対面白い本だと思う。一時入っていた新潮文庫版は品切れらしいが、図書館などで見つけられるだろう。甘粕と言えば、後半生の「満州時代」がなんと言っても興味深い。「満州国皇帝」になる溥儀を北京から連れ出した陰謀の実行者であり、その後大スター李香蘭(山口淑子)を擁する「満映」の理事長となった。「満州国」は昼は関東軍が支配し、夜は甘粕正彦が支配すると言われたという。

 興味深い後半生は省略して、ここでは「大杉栄虐殺事件」に絞りたい。前に関東大震災時の虐殺事件を何回か書いたとき、この問題は書かなかった。近代史に関心がある人なら誰でも知っているし、新しく考えるべき論点もあまりないと思ったのである。今回佐野眞一氏の本を読んでも、基本的な事情は変わらない。「甘粕真犯人説」を疑う人は昔から多く、むしろ「甘粕犠牲者説」の方が多いんじゃないかと思う。だが、それを実証することは不可能だろう。そもそも大杉栄虐殺指令文書が存在したとは思えない。
(大杉栄と伊藤野枝)
 無政府主義者(アナーキスト)の「巨頭」として知られていた大杉栄は、9月16日夕刻に豊多摩郡淀橋町柏木(現新宿区西新宿)の自宅付近で憲兵に連行され行方不明となった。この日、大杉と妻の伊藤野枝は、鶴見に住んでいた伊藤の前夫辻潤を訪ねたが留守だったため、近くに住む大杉の実弟大杉勇宅を訪れた。そこに大杉の実妹あやめと子どもの橘宗一(6歳)が偶然来ていて、子どもが東京の焼け跡を見たいと言ったため大杉たちが連れて帰った。この橘宗一はアメリカ生まれで、アメリカは国籍が出生地主義なので、アメリカ国籍も持っていた。(上記画像の子どもは橘宗一少年ではなく、大杉夫妻の子ども。)

 そのまま3人の行方は知れず、心配した宗一の家人はアメリカ大使館に連絡した。その後、警察に捜索願を出したが、この件がもみ消されずに公表されたのは、少年殺害が外交問題になりかねなかったためだろう。亀戸事件や中国人王希天の場合は、誰も責任を取らずに真相は隠ぺいされた。大杉栄殺しも同じように隠ぺいするはずが、少年殺害があったために隠しきれなかったとも考えられる。もっとも大杉の知名度は非常に高かったので、裁判なしに済ませるわけにはいかなかったかもしれない。その後マスコミも動き出す中、20日になって事件内容も不明のまま、福田雅太郎戒厳司令官の更迭、小泉六一憲兵司令官小山介蔵東京憲兵隊長の停職が公表され、甘粕正彦憲兵大尉と森慶次郎憲兵曹長を軍法会議に付すという発表がなされた。
(甘粕正彦憲兵大尉)
 その後開かれた軍法会議では、甘粕が「単独犯行」を「自白」した。もっとも宗一少年殺害は違うのではないかと弁護士から指摘され、それを認めた。その後、3人の憲兵が「自首」して軍法会議に付せられた。その間の詳細は佐野著に詳しいが、いちいち書くまでもないだろう。結局、甘粕が懲役10年森が懲役3年3憲兵は無罪となった。

 この判決(事実認定)にはおかしなところが多く、佐野氏も明らかに上層部関与説に立っていると思われる。ただ事柄が事柄だけに実証したとまでは言えない。最後の最後に本人の言葉が紹介されているが、それは「伝聞」に過ぎない。この本の中に死因鑑定書が公表されている。これ自体不思議な運命の下に残された貴重なものである。それを見ると、「自白」は明らかに不十分で信頼出来ない。大杉の身長は163.9㎝で、それより身長が低い甘粕が後ろから絞殺するのは難しい。実際には大杉と伊藤は踏んだり蹴られて胸部骨折していて、誰がやったかはともかく複数人によって極度の暴行を加えられていた。

 甘粕は当時「東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長」であり、森憲兵曹長は当時「東京憲兵隊本部付(特高課)」だった。つまり、森は甘粕の直属の部下ではなく、軍隊的に考えて(というか、常識で考えて)「個人的犯行」に協力させることは不可思議である。渋谷分隊長が麹町分隊長(事件現場となった)を兼ねるという人事も不可解。軍法会議では9月1日付で兼任の命令が出たと甘粕が述べたが、後付けとしか思えない。甘粕と森の双方に命令を下せる上層部が関わっていると考えるのは、「陰謀論」というより「常識論」だろう。真相がどういうものだったか諸説あるが、僕には当否を判断出来ない。ただ「甘粕単独犯行説」は成り立たないと考える。(軍人が「個人的考え」で、部下と軍施設を使って「殺人」を実行するという判決は荒唐無稽である。)
(佐野眞一氏)
 ところで、震災当時の大杉は何故「自由」だったのか。大杉はドイツで開催予定の国際アナーキスト大会参加を目指し、1923年1月に上海からフランスに出航した。パリ郊外でメーデーに参加して逮捕され、大杉だとバレて日本に強制帰国させられた。(中国人を偽装していた。この旅の経過は「日本脱出記」に書かれている。)7月11日に神戸に着いたばかりで、まだ日本で本格的な運動を開始する時間がなかった。1922年に「第一次共産党」が結成され、その関係者は逮捕され獄中にあった。そのため、権力側からは「野放しになっている大物」は大杉だけと見えていたのだろう。

 当局側の発表が「大杉他二名」の殺害とあったため、社会主義弁護士の山崎今朝弥は「他二名及び大杉君のこと」を書いた。伊藤野枝の女性史的な再評価が進んで、今では大杉栄と伊藤野枝が狙われたと考えやすい。だが当時の状況では、やはり伊藤野枝は一緒にいて連行されたと考えるべきだろう。この時、「女子ども」を一緒に連行した責任者は誰なんだろうか。当時は「アナ・ボル論争」というアナーキズムとボリシヴィズム(ロシア革命を実行したレーニンらの共産主義者)の対立があった。陸軍の仮想敵国は一貫してロシア・ソ連だったから、ソ連式社会主義を厳しく批判していた大杉を抹殺したのは、軍にとって逆効果だった。大杉不在でアナ陣営は不振となって、以後共産主義が左翼の主流となった。

 甘粕は全く無実で、罪を被るだけの役目だったという考えもあるが、僕はそれはかなり無理な想定だと思う。やはり、何らかの意味で「大杉殺し」には関与していて、それは全く後悔しなかったと思われる。ただ、宗一少年殺害には確かに関与していなかったかもしれない。甘粕は上層部に責任を負わせず、一切を自分で被る役割として選ばれたのは間違いない。その意味で、その後の軍内で「触れてはいけない凄み」を持つ存在となった。しかし、若い時期の東条英機に世話になり、満州でもずっと従っている。結局「有能な部下」というべき人物だったのだと思った。
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亀戸事件殉難者、平沢計七『一人と千三百人|二人の大尉』を読む

2023年09月04日 21時45分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 そう言えば、関東大震災関連の本を何冊か持っていたと思い出した。直接の震災本ではないが、亀戸事件で犠牲になった平沢計七(1889~1923)の作品集を読んでみた。講談社文芸文庫に平沢計七先駆作品集と銘打ち、『一人と千三百人|二人の大尉』という本が入っているのである。2020年4月に出た本で、本体価格1800円もしたが貴重な機会だと思って買っておいたのである。

 「講談社文芸文庫」というのは、日本の昔の小説などを収録している。そこに労働運動家の平沢の本が入るのは不思議な感じがするかもしれない。しかし、平沢の特徴は労働運動には「文化運動」が伴わなければならないと主張した人なのである。小説もあるが、特に戯曲が多いのが特徴。労働者演劇の可能性を追求した人として忘れてはいけない人なのである。この本には小説13編、戯曲7編、評論・エッセイ7編が入っている。300ページ強の本にこれだけ入っているんだから、一編の作品は短いものが多い。

 まだ文壇で「プロレタリア文学」が流行する以前である。それが「先駆」とある理由で、確かに素朴な正義感に基づき、労働者の覚醒を促すような作品が多い。「純文学」とはちょっと違うが、単なるプロパガンダでもない。作品としては自立しているものが多く、読めばなかなか面白い。では多くの人が是非読むべきかと言えば、そこまで傑作揃いというには躊躇する。労働運動と連動した社会史的な読み方をしなければ面白くない段階と言えるだろう。
(平沢計七)
 内容的には、「国家」や「会社」の示す価値観に囚われている人々が、労働者の真の価値に目覚めるまでを描く啓蒙的作品が多い。作品の発表母体も労働組合「友愛会」の機関誌である「労働及産業」が圧倒的に多い。初期プロレタリア文学の雑誌「新興文学」に発表された作品も2つあるが、そのひとつ『二人の大尉』は軍隊に召集されていた時代を描き鮮烈だった。シベリア出兵を控えた時期に、タイプの違う二人の上官を描き分ける。軍内のリアルな感覚が興味深い。

 平沢は小学校卒業後、ずっと現場労働者として働いてきた。鉄道院の職工となり、軍から帰った後は浜松で働いていた。その時に「友愛会」の存在を知り上京、東京府南葛飾郡(現在の江東区大島)で労働運動家として知られた。そこでの活動が評価され、本部の書記に抜てきされたが、やがて友愛会が急進化して行くにつれ孤立するようになった。1919年には友愛会を脱して「純労働者組合」を結成して、労働会館や「共働社」(消費組合)を作るなどした。また労働金庫、労働者のための夜塾、労働劇団を立ち上げるなど時代を先取りした活動を行っていた。

 このように平沢は急進的な共産主義的労働運動家ではなかった。しかし、震災とともに亀戸署に拘束され、虐殺された。その時点で34歳で、妻子もあった。日本共産青年同盟(民青の前身)の初代委員長を務めていた川合義虎は、1902年生まれでまだ21歳だった。平沢とは一世代違うのである。そのような平沢が何故殺されたのか。日本で一番労働運動が盛んだった「南葛」地区で、地域密着型の活動を長く続けてきた平沢は、日々の活動を通じて警察と常に衝突してきて「目を付けられていた」のだろう。

 やはり戯曲が一番興味深いと思う。もっとも終わり方がどうも都合が良いのが多い。それでも題名通りの『工場法』や造船所の大ストを扱う『一人対千三百人』は貴重だ。実際に労働者によって上演出来るかは難しいと思うけれど。特に大正11年に時間が設定された『非逃避者』(大正12年1月)は問題作である。それは「支那人労働者」に職を奪われるとして、「階級的自覚のない労働者」たちが、「河岸揚人夫頭」を訪れる。賃銀値下げに怒っているのである。その元凶は安く働く「支那人労働者」であるとし、その排撃を訴えるのである。ところが人夫頭は同調すると見えて、思いがけないことを言う。

 昔アメリカで人種差別にあったことがあり、「排日」はおかしいと思っていたのである。同じように、日本が外国人労働者を攻撃するのもどうかと思うと述べる。このような「排外主義反対」は職人の胸にストンと納得されるだろうか。それは現実によって証明されてしまった。震災時の中国人労働者の虐殺事件はまさに、平沢が活動してきた大島で起こったのである。そして、それは中国人の河岸労働者への襲撃に他ならなかった。中国人リーダーだった王希天と平沢は連帯出来たはずだが、そのような動きはあったのだろうか。逆に考えれば、排外主義を批判している平沢は警察からすれば警戒対象に他ならなかっただろう。そういう意味で、震災時の悲劇を予知した作品集でもある。
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関東大震災100年、「虐殺事件」と日本国家

2023年09月01日 22時19分58秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連で、8月31日から9月2日頃にいくつかの集会が予定されている。参加する気でいたのだが、猛暑続きのうえ諸事雑事に追われていて、何だか行く気が失せてしまった。昨日も関連記事を書くつもりが、どうも疲れて頭がはっきりしないなと思って止めた。それに自分が昔書いた記事を読み直すと、それ以上のことは今では書けないなと思った。

 それは、2017年8月から9月に書いた「関東大震災時の虐殺事件」に関する4回の記事である。
①『福田村事件
②『王希天と中国人虐殺
③『亀戸事件
④『朝鮮人虐殺

 これは当時として、知名度の少ないだろうと思った順番に書いたものである。「福田村事件」は劇映画になったので、知名度は高くなったと思う。これは明らかに「朝鮮人と間違われた」ことで起こったと考えられる。そのような事件は数多く、日本人でも沖縄出身者や障害者などで殺された人は相当数いたとされる。しかし、②の中国人虐殺は朝鮮人と間違えられたものではなかった。明らかに中国人労働者を狙って虐殺したのである。中国人労働者のリーダーだった王希天も狙って殺されたのである。

 もちろん亀戸事件(現在の江東区、当時は南葛飾郡)で殺された労働運動家、社会主義者たち、あるいは9月16日に起きた大杉栄伊藤野枝らの虐殺も狙って殺された。大杉らの事件に関しては、震災当日から2週間以上経っていて、「大震災の混乱の中で虐殺された」という認識では理解出来ない。他にも刑務所にいた社会主義者を引き渡すよう軍が要請したとか、個人的に警察に付け回されたなどの証言もある。日本政府が全体として、大地震をきっかけにして社会主義者、あるいは朝鮮独立運動家などを「始末」する計画を立てていたというと言い過ぎになるだろう。だが間違いなくそう考えていた人が存在したのである。

 それは1917年のロシア革命、1922年のソ連成立、同じく1922年の「第一次共産党」結成、あるいは1920年に始まった「メーデー」集会などが背景にある。支配層からすれば、日本にも「赤化」の恐怖が「ひたひたと迫っている」と見えたのである。これはもちろん日本の社会主義運動を過大視している。でも、何事も始まりの時はちょっとした出来事でも大げさにとらえるものだ。(全然問題が違うが、新型コロナウイルス流行の初期を思えば判るだろう。)

 いま関東大震災を総括するとき、単に揺れや火事だけを語るのは一番重大な問題を外すことになる。当時の多くの体験者が共通に語っているのは、むしろ「自警団の恐怖」の方だ。これもコロナの時に起こった「自粛警察」を思えば、理解出来るだろう。政治家はこの機会に当たって、この問題こそ語らなければならない。その点、東京都の小池都知事は在任期間を通じて、全く逆の言動を行ってきた。その結果、虐殺事件の碑の前で「ヘイトスピーチ団体」が集会を開くような事態にまでなってしまった。
(小池都知事の震災対応)
 「すべての犠牲者を追悼する」という言い方は、もちろん判っていて発言しているのだろうが、「虐殺事件」の重みを相対的に低下させる役割を果たしている。2022年秋には、よりによって東京都人権部が関東大震災時の朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映を禁止した事件が起こった。何しろ都の人権啓発センターの責任者が「都ではこの歴史認識について言及していない」「朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念がある」と伝えたという。東京都の職員のレベルはこんなものだとは知っていたが、これでは都知事発言の表面的意味を逸脱している。(ということは「真の意味を暴露している」ということか。)
(東京都の「検閲」を批判する人々」
 日本政府自体の問題ももちろんある。残された史料は無数にあることを知っていて、「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」などと松野官房長官が述べている。これを見れば「調査」したというのだが、いつどんな調査をしたのか。ちょっとマジメに調査すれば、あちこちに記録は残っている。何しろ、中国政府は日本政府に公式に抗議したし、検察官はいくつかの自警団や大杉ら殺害の甘粕憲兵大尉らを起訴している。おざなり的な裁判だったけれど、日本国が公式に裁判をしたのだから、いくつかの記録はあるはずだ。(空襲で失われたり、隠ぺいされたものも多いとは思うけれど。)

 もちろん当時の日本政府は、きちんとした調査をしなかった。それは虐殺事件が「民衆が勝手に暴走した」というものではなかったことを逆に証明していると思う。そして、そのような政府が継続している。「殺した側」が権力を持ち続けているのだ。
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関東大震災100年、自分の歴史の中で

2023年08月30日 23時15分14秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年9月1日は、「関東大震災100年」の日である。この日は「防災の日」になっていて、大規模な防災訓練が行われる日である。この由来を知らない人が半分近いという調査結果が載っていた。なるほど、そんなこともあるだろうと思う。
(NHKの特集ページ画像)
 東京の多くの学校は、9月1日が2学期の始業式である。自分が学校に通っていた頃は、始業式、大掃除に続いて、ホームルームで通知表を返したり宿題を提出した頃になると、サイレンが鳴り響いた。「地震が発生しました」と放送があって避難訓練になるのが決まりだった。鞄を持ったまま集合して、そのまま下校となったと思う。今じゃ夏休みを短縮したり、始業式後にすぐ授業を始めたりする学校もあるようで、それでは防災の日の由来も知らない子どもが出て来る。

 僕の生徒時代から、「東京ではもうすぐ大地震が起きる」とずっと言われてきた。東京で起きたそれ以前の大地震としては、1855年の「安政江戸地震」が知られている。水戸藩の学者、藤田東湖が圧死した地震である。そこから関東大震災まで約70年。同じ時間差で起きると仮定すれば、20世紀末にも大震災が起きる可能性がある。少し早めに起きる場合もあると考えると、70年代後半頃から危険性が増大するというわけである。

 それからすでに半世紀近く経ち、まだ東京を再び襲う大地震が起きていない。結局は「相模トラフ」が原因である関東大震災と直下型地震の安政江戸地震では、起きる原因が違っていたということなんだろう。いつでも大地震が起きる可能性は日本中どこでも否定出来ない。しかし、「何年ごと」と決めつけられる問題じゃないんだろう。
(関東大震災震源地)
 自分は教員生活のほとんどを東京東部の中学、高校で勤務してきた。そこは関東大震災で多くの犠牲を出した地域である。火事で何万もの人が亡くなり、同時に朝鮮人、中国人の大規模な虐殺事件が起きた地域でもある。授業では関東大震災ばかり教えるわけにはいかない。だが、やはりきちんとした理解をしておかなくてはと考え、今まで「周年」ごとに行われた集会には出来る限り参加してきた。特に70周年80周年の時は高校に勤務していたから「日本史」や「現代社会」の授業と直結する課題でもあった。

 東日本大震災以前だから、若い世代にはもう東京に大地震が起きたという実感がない。その22年後の「東京大空襲」で再度東京が大規模に破壊されたからだ。そっちの記憶もずいぶん薄れているけれど、まだ「戦争」の方が語り継がれている。マスコミでも取り上げられていたし、教師側からしても「戦争」の方が重大なテーマである。

 だから、つい関東大震災は「そんなこともあった」程度で済ませてしまいがちだ。当時の子どもたちの作文など直接的な史料をどう生かすかが大事だと思う。僕が忘れられないのは、「魔法の絨毯」というのはこれかと思ったという感想である。地震直後の縦揺れに驚いたのである。ちょうど昼時だったので大火災となったことも教訓。これは今も全国で生きていると思う。大火災で巻き上げられた紙類が焼けて千葉県側に降り注いだ。「黒い雨」は関東大震災でも降ったのである。

 その後の「虐殺事件」をどう認識するか。これはなかなか難しい。男は皆兵役の義務があった時代である。日本は日清、日露、第一次世界大戦と10年おきに戦争をしていた。戦場で「活躍」した「勇士」が町のあちこちにいた。かれらは「在郷軍人会」として組織化されていた。「町を守る気概」にあふれた男たちが「殺人を公認された」と思い込んだのである。

 当局も「公認」したわけではないだろう。だから、後に刑事裁判にもなっている。だけど、それらは非常に緩やかな刑罰に終わっている。政府もまとまった調査を行わなかった。今に至るも、何度も野党側や弁護士会などから要求されているにもかかわらず、ちゃんとした調査を行わない。調査を行わないから、「記録がない」などと平気で言っている。(当時植民地だった朝鮮は別にしても、独立国だった中華民国民の虐殺事件に関しては記録が残っている。)

 インドネシアで1965年に起きた「9・30事件」では、軍・警察ともに民衆が共産党員を多数虐殺したと言われている。記録映画『アクト・オブ・キリング』を見ると、これも殺人を「公認」されたと思った人々が、国を守るための「愛国」行為として実行したのである。悪いことをしたとは全く思っていない。日本で1923年に起きたことも、それと同様のケースと思われる。

 結局、外国人も「同じ人間である」という認識は、それまで生きてきた様々の体験の中で人権感覚が養われているかという問題だろう。単に震災時にデマに惑わされないということではなく、日常の生活の中で「いじめ」「差別」などにいかに対処していくかという問題だと思う。
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関東大震災、恐怖の記録ー江馬修『羊の怒る時』発見!

2023年08月29日 23時01分37秒 |  〃 (歴史・地理)
 江馬修(1889~1975)という作家がいる。読み方は「えま・しゅう」になっているが、本名は「なかし」なんだという。飛騨高山の生まれで、明治2年に故郷で起きた「梅村騒動」を描いた『山の民』という大作小説で知られている。一部では島崎藤村『夜明け前』を越える傑作と評価する人もいるようだが、文壇ではほぼ無視されてきた。文庫に入ったこともなく、僕も読んだことがない。代表作を読んでないぐらいだから、他の本も知らない。今ではほとんど忘れられた作家に近い。

 ところが、8月のちくま文庫新刊で(金子光晴『詩人/人間の悲劇』とともに)、江馬修の『羊の怒る時』という本が出たのである。それが「関東大震災の三日間」と副題が付いた稀有のドキュメントなのである。もとは1925年に聚芳閣という出版社から出されたまま忘れられていた。1989年に影書房というところから再刊されたというけど、全く知らなかった。一般的には忘れられていた本だと思うが、これは大発見である。関東大震災理解の基礎文献として必読になると思う。

 江馬修は今ではほとんど知られてないから、僕は「貧乏文士」だと思い込んでいた。ところが調べてみると、1916年の『受難者』という本がベストセラーになり、当時は人気作家だったらしい。震災当時は代々木辺りに住んでいた。もっと細かく言えば「初台」で、「自警団」の合言葉は「」「」だったと出ている。この本では「東京へ行く」、「東京では」という言葉が出て来る。今では世界に知られる新宿や渋谷だが、当時は豊多摩郡だった。東京市外だったのである。東京市が拡大され、35区体制になったのは震災後の1932年のことである。その辺りにはお屋敷も建ち並び、隣家は「I」という退役中将だった。

 まず大地震が起きる。このままでは家がつぶれてしまう恐怖が描かれる。6歳と3歳の女児がいて、まず子どもを助けなければと思って、下の子を連れて庭に出た。前に書いたけれど、夏目漱石の自伝的作品と言われる『道草』では、主人公が地震の時に一人で庭に逃げてしまう。妻から「あなたは不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」と言われると、「女にはああいう時にも子供の事が考えられるものかね」と答える。このトンデモ主人公には驚いたが、さすがに当時の男でもそんな人ばかりではなかった。まあ江馬は「人道主義的作家」として有名だったらしいけど。

 自分の家は何とかつぶれずに助かるが、周囲を見ると全壊した家もある。大変だと手助けに向かう。近くには交際があった朝鮮人学生もあり、無事だった朝鮮人たちが他の家を手助けしている。「李君」はついに壊れた家から幼子を助け出す。そんな民族を越えた助け合いが直後にはあったのである。遠くの空がなにやら怪しくなり、どうも東京市各地で火事が発生しているという噂が流れる。まだラジオもなく、新聞も発行できず、情報は「噂」と「警察」だけになってしまった。
(江馬修)
 第1日が終わり第2日になると、「朝鮮人さわぎ」が起きてくる。朝鮮人も震災にあって逃げ回るだけなのに、その朝鮮人が放火などをして回っているという「噂」が流れる。「朝鮮人」が騒いでいるのではなく、日本人が騒いでいるだけだったので、本来は「日本人さわぎ」とか「自警団さわぎ」と呼ぶべきだろう。(これは袴田巌さんは無実なのに、「袴田事件」と呼ぶのがおかしいのと同じである。)しかし、当時書かれた文献には皆「朝鮮人さわぎ」として出て来るのである。

 そして著者自身も「そういうことも無いでは無いだろう」と思う。著者自身が個人的に親しくしている朝鮮人は立派な学生ばかりだが、中には悪い人もいるだろう。近くには朝鮮総督を務めたT伯爵邸もあるから、この地域は標的にされるかもしれないと考えてしまった。これは初代朝鮮総督の寺内正毅と考えられる。つまり、日本人は朝鮮人から恨まれることがあると認識していたからこその恐怖なのである。一般民衆が「暴力」に囚われた理由は著者にもよく理解出来ない。著者自身も朝鮮人と疑われたりして、民衆の中にある恐ろしい「殺意」に恐怖を感じている。

 その間に本郷にいる兄一家が心配で、危険を冒して訪ねたりしている。この兄は浅草区長をしていた江馬健という人だという。途中で大火災の実態と「朝鮮人さわぎ」で各町ごとに自警団による「結界」が作られている実情が語られる。東京市の西側で比較的被害が少なかった地区に住んでいた江馬ならではの観察が鋭い。ラスト近くでは兄を通して、浅草区の実情を視察している。兄は浅草寺が焼け残ったことを喜ぶとともに、「吉原復興」が急務だと考えている。

 江馬は後に無事が確認された朝鮮人学生を匿っている。先に子どもを救った李君は、知人を探すために市内に出掛けて戻らない。助けて貰った恩義がある母親は何とか李君を探し回るのだが…。どうしてこんなことが起きたのか。結局、毎夜朝鮮人が押し寄せると言われて「自警団」に駆り出され、著者も周囲の人々も疲弊していく。火事に合わなかった江馬にとって、大震災の最大の恐怖は「朝鮮人さわぎ」だったのである。何故、こんなことになったのか、著者はこの段階では「同じ人間だ」という認識を持てるには「教養」が大切だと考えている。

 その後の江馬は社会主義に近づいて行く。関東大震災を経て、「人道主義」では日本人は変わらないと考えて行ったのである。震災で苦労した妻とも別れ、その後は波乱の人生を送った。再婚した妻がいたが、戦後になって『綴方教室』で知られた豊田正子と暮らすようになり、晩年にはさらに別の女性と暮らしたという。1946年には日本共産党に入党したものの、1966年には中国派として離党した。これはウィキペディアの情報だが、興味深い経歴の人物である。ルポの観察力や文章力は確かで、この本は重大な出来事を後世に書き残した貴重な本だ。
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『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』(池上彰、佐藤優)を読む

2023年08月14日 22時48分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 講談社現代新書の池上彰・佐藤優氏の対談『日本左翼史』シリーズは3冊で終わりかと思ったら、2023年7月になって戦前編が出た。『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』と題され、対象の時代は「1867ー1945」となっている。戦後を扱った3冊は先に読んで、3回ほど感想を書いた。『「左翼」は復活するのか』『「講座派」「労農派」論争を越えて』『「清張史観」の克服を』である。僕は先の三部作を面白く読んだので、4冊目の今度の本も早速読んでみた。

 今度出た4冊目になる完結編は、相変わらず該博な知識を披露しながら独自の近代左翼史を展開している。歴史の流れに関しては、ほぼ定説が出来ているので、それほど新しい感じはしない。だが、大きな見通しや個別の人物論はなかなか読ませる。近代史に関心がある人は興味深く読めると思う。前3冊を読んでない人は、むしろこの4巻から読み始めて時代順に読んでいく方が良いかもしれない。まず、明治初期には左翼、右翼は未分化で、新宗教」という方向性もあったと鋭い指摘をしている。

 幕末から明治初期の時代は、後に「教派神道」とまとめられる天理教金光教大本教などが一斉に登場した時期として知られる。そのことは70年代に「民衆史」が注目された時代に多くの人が関心を寄せていた。「左翼」は「文明開化」で入ってきた欧米の新思想を日本でも実現しようとした。「右翼」は「富国強兵」で可能になった強大な武力で近隣諸国を侵略する方向に進んだ。どちらも「明治維新」による「近代化」を前提として、新しい国家を建設しようとする点では共通している。しかし、民衆の中には「近代化」そのものへの拒否感も強かった。それらの人々の拠り所となったのが、新しい宗教だったのである。

 その後「松方デフレ」によって階級分化が進んで、それが近代化と左翼運動をもたらす。佐藤優氏の特徴は「自由民権運動」を「負け組による権力闘争」として、日本左翼の源流とは言えないとみることである。僕はそれは言い過ぎで、やはり「自由民権運動」は左派系民衆運動の初期形態として良いと考える。「左翼」は社会主義や労働運動を意味する政治用語ではない。いずれ国会を開設することは共通していても、時期をめぐって対立がある場合、早期開設派を左派として問題ないだろう。士族層が中心とは言え、全国に広がった反政府運動である。中江兆民を通して、初期社会主義につながるという通説通りで良いと思う。

 その後は、明治末の初期社会主義と「大逆事件」による「冬の時代」、ロシア革命と「アナ・ボル論争」日本共産党の結成と「転向」の問題と順を追って、快刀乱麻を断つごとく日本左翼史の問題点が解明されていく。戦後編ですでに展開されているように、「基調報告」担当である佐藤氏は「労農派中心史観」である。講座派=日本共産党は、「コミンテルン日本支部」であり、日本事情を詳しく知らない担当者が作った方針を掲げていた。そのため、当時では無謀な「天皇制廃止」を全面に押し立てて、大衆組織を引き回した上に壊滅していった。まあ、そういう指摘は事実だから、労農派をより高く評価するのは当然か。

 全部書いてても長くなるだけだから後は簡単にするが、人物としては高畠素之(たかばたけ・もとゆき、1886~1928)の評価が興味深かった。初期社会主義に関わった後、得意のドイツ語を駆使して『資本論』の全訳を初めて行った人物として知られている。次第に国家社会主義に近づき、むしろ右翼思想家になったことでも知られる。早世したこともあり、僕はあまり関心を持たなかったが、この人はソ連を国家社会主義として評価したんだという。高畠が長生きしていたら、五・一五事件や二・二六事件はもっと凄惨なものになっていただろうとまで言っている。通説的には過大評価だろうが。
(高畠素之)
 もう一つは「転向」の問題で、この問題はある時期まで非常に大きな意味を持っていた。思想の科学研究会の共同研究「転向」が刊行されたのは、1959年から1962年のことだった。この「転向」というのは、1933年に獄中にいた日本共産党の最高指導者だった佐野学鍋山貞親が、それまでの党の路線を批判して天皇制の下での社会主義革命を目指すと声明を出したことに始まる。その後、続々と獄中で「転向」が相次ぎ、ほぼ8割ほどが従来の路線を離れた。一方、徳田球一志賀義雄ら「非転向」を貫いた党員もいて、戦後になると「獄中十八年」を生き抜いた英雄として迎えられた。
(佐野、鍋山の転向声明を報じる新聞)
 この「転向」をどう考えるべきだろうか。天皇の下の社会主義革命をその後も追求した人などいないだろう。戦後まで生き延びた鍋山貞親三田村四郎田中清玄などは、政財界の黒幕的な右翼として生きることになる。一方、非転向なら良いわけでもなく、「転向」が突きつけた「外国盲従的な党体質」は戦後の共産党に引き継がれてしまった。獄中を生き抜いた徳田も志賀も、結局は除名されている。結局、自由な思想競争のない中で、権力に強いられた「思想変更」には問題がある。

 戦後になると、今度は右から左への「転向」が起きる。そして、高度成長の中で再び左翼陣営から自民党支持者に変わる人々が出て来る。若い時に全学連指導者だった人が、やがて政界、財界、学界で右寄りのリーダーになるのは、むしろ通常のコースになった。90年代以後は、特に湾岸戦争以後に左派から右派に軸を移した人がかなりいる。(教育学者の藤岡信勝などは典型的である。)教員組合のリーダーだった人が管理職になったら、文科省・教育委員会の言いなりになることなど見慣れた風景である。「転向」は戦前だけの問題ではなく、「権力」行使がソフトになった現代にあっても、問い直すべき論点として続いていると思う。
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大木毅『歴史・戦史・現代史』を読む

2023年07月23日 22時02分43秒 |  〃 (歴史・地理)
 平山優氏の本に続いて、大木毅歴史・戦史・現代史』(角川新書)を読んだ。大木氏は岩波新書の『独ソ戦』がベストセラーになった人で、その後続々と第二次世界大戦頃のドイツや日本の軍事史的な本を出している。ここでは以前に『大木毅『独ソ戦』『「砂漠の狐」ロンメル』を読む』で、『独ソ戦』と『「砂漠の狐」ロンメル』(ともに2019年)を合わせて紹介したことがある。「ウクライナ侵略戦争」(大木氏の呼称)開始以後、再び『独ソ戦』が売れているということで、マスコミでも大木氏に意見を聞くことが多くなったらしい。今回の本はそうした短文を集めたもので、折々に書かれた文章をまとめた本である。
(『歴史・戦史・現代史』)
 平山氏と同じく、大木毅氏も立教大学大学院の出身である。大木氏は1961年生まれ、平山氏は1964年生まれなので、お互いが同時期に学んでいたかどうかは知らない。大木氏は軍事史的アプローチで歴史を考える人で、僕にはない視角から第二次大戦を見ていて教えられるところが多い。帯の裏には「軍事・戦争はファンタジーではない。」「戦争を拒否、もしくは回避するためにも戦争を知らなければならない」「軍事は理屈で進むが、戦争は理屈では動かない」「軍事理論を恣意的に引いてきて、一件もっともらしい主張をなすことは、かえって事態の本質を誤認させる可能性が大きい」と書かれている。
(大木毅氏)
 さらに帯の裏には『歴史の興趣は、醒めた史料批判にもとづく事実、「つまらなさの向こう側」にしかない』『歴史「に」学ぶためには、歴史「を」学ばなければならない。』『イデオロギーによる戦争指導は、妥協による和平締結の可能性を奪い、敵国国民の物理的なせん滅を求める絶滅戦争に行きつく傾向がある。』『戦争、とりわけ総力戦は、体制の「負荷試験」である。われわれー日本を含む自由主義国もまた、ウクライナを支援し続けられるかどうかという「負荷試験」に参加しているのである。」と書かれている。(赤字にしたところは、原文の通り。)特に「つまらなさのむこう側」という言葉は金言だ。
(『独ソ戦』)
 「独ソ戦」がいま改めて注目されるというのは、常識では想像出来なかった事態である。しかし、プーチンのロシアがウクライナに対して「古典的な戦争」を仕掛けるという常識外の事態が実際に起きている。独ソ戦の主要な戦場だったウクライナで、80年経って再び起こった戦争を考える時にかつての戦争理解が大切になる。特にロシアが「イデオロギー」的な動機付け(ウクライナ指導部を「ネオナチ」と決めつけるなど)を行っていることで、「絶滅戦争」的な妥協の余地がない争いになる可能性があるという著者の理解は重大だ。実際に虐殺、児童連れ去りなどが起きているのは、その恐れを否定出来ないということなのだろうか。
(『「砂漠の狐」ロンメル』)
 また、この本にはロンメルを中心に多くの軍人に関する論考がある。僕が知ってるのはロンメルぐらいだけど、ナチス時代のドイツ軍人に関する「歴史修正主義」を実証的に批判する筆致は鋭い。僕は全く知らなかったのだが、日本でもナチスの軍人を史料を無視して英雄視する傾向があるというのである。世界の軍事史的研究の紹介が少なく、最新の研究に学ぶことなくすでに否定されている「歴史修正主義」に安易に拠る人が多いのだという。僕が全く知らなかった本の紹介が多いのも役に立つ。まあ、実際に読むかどうかは判らないけれど、いろいろな立場の本があるんだなあと知ることが出来る。

 大木氏は大学院時代に中央公論社の雑誌『歴史と人物』で働いていたことがあるという。夏冬の年2回、『歴史と人物』は戦争特集を出していたという。そのためにアルバイトが必要で、ドイツ現代史を専攻していた著者が関わったらしい。そのことから、数多くの旧軍関係者と知り合ったことが書かれている。それも面白いんだけど、昔の文章を読みすぎたからか、この人には古風な表現が多い。「さはさりながら」「かような」「かかる」などで、特に「さはさりながら」は現代ではやりすぎじゃないか。「そうではあるけれど」程度の意味だが、もう少し「やさしい日本語」を心がけても良いと思う。僕とは少し立場が違うところもあるんだけど、知らないことを割と気軽に読めるという点で貴重な本だ。
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平山優『徳川家康と武田勝頼』を読む

2023年07月21日 22時32分20秒 |  〃 (歴史・地理)
 大河ドラマの主人公になると、関連の歴史本が大量に出版される。特に戦国時代の場合だと、僕も何冊か読むことが多い。ちょっと前には黒田基樹氏の本を読んで『最新の徳川家康像を探る』(2023.4.23)を書いたが、今度は平山優氏の『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)を読んだ。平山優氏は今年の大河ドラマの時代考証を務めているが、一般的知名度はまだまだだろう。僕も2017年に角川選書から出た『武田氏滅亡』という分厚い本で初めて名前を知った人で、今回初めて読んだ。

 近年になって武田勝頼の評価が高くなってきた。以前は偉大な父親武田信玄の後を継ぐ予定じゃなかったのに、やむなく傍流から後継となって武田家を滅亡させた弱将といったイメージが強かったと思う。しかし、信玄急死の後、古参家臣とのあつれきを抱えながら、武田家最大の版図を実現したのは勝頼時代だった。信玄時代には祖地である甲斐から隣国信濃に領土を拡大させ、さらに駿河西上州に進攻した。さらに勝頼時代に遠江(とおとうみ、静岡県西部)、三河(愛知県東部、徳川家の本国)北部、上野(こうずけ)全域、越後西端部まで領土が広がり、勝頼の統率力が注目される。
(武田勝頼)
 この本を読むまでうっかり気付かなかったが、今まで「織田信長」対「武田信玄」という構図で考えがちだった。しかし、実際の戦闘経過をみると「武田勝頼」対「徳川家康」の戦いというべきだった。もちろん信長あっての家康なのだが、信長が常に前線にいるわけもなく、領地の位置からも武田家に正面から対峙していたのは徳川軍だった。この本を読むと、攻略だけでなく、「調略」(自陣営に寝返らせる謀略)も度々仕掛けられている。一番深刻なのは、1573年に家康の正妻、築山殿まで巻き込まれた謀略である。築山殿に武田の手が伸びていたのは、今は確実とみなされている。

 戦国時代は「政略結婚」の時代である。妻は結婚後も実家を代表する場合が多い。信長の妹「お市の方」が嫁いだ浅井家と、織田家が対立するようになった悲劇は有名だ。今川義元の後を継いだ今川氏真の妻は北条家の出身で、そのためか父の仇織田家と戦うより、上杉に攻められて窮地に立つ北条氏へ援軍に出ることが多かった。その結果家中の信頼を失っていき、それを見た信玄は武田、今川、北条三国同盟を破棄して、今川家の支配する駿河を攻略した。(その時、家康は武田と同盟して、遠江に進攻している。そして攻め取った地域に浜松城を築いた。)

 その時、信玄の駿河侵攻に激しく反発したのが、信玄の長男武田義信だった。妻が今川義元の娘で、武田家中の親今川派の代表だったと言われている。1665年に義信側近が信玄暗殺を画策し、それに加担したとして信玄は義信を幽閉して廃嫡した。(1567年に死亡。)次男は盲目で、三男は夭逝したため、1573年に信玄が急死したときには、諏訪氏の娘に産まれた4男の勝頼が継ぐことになったわけである。いわば外部から乗り込んだとも言え、特に1575年に長篠の戦いで大敗したため、今までは勝頼の武将としての才能には疑問を持つ人が多かった。僕も授業レベルでは、「長篠の戦いから武田家滅亡へ」程度で済ませることが多かった。

 このように武田信玄は長男を排除したわけだが、よく知られているように徳川家康も長男を死に追いやっている。1579年に起こった松平信康事件である。家康の正妻築山殿は今川家の重臣の娘(義元の姪)で、もともと家康の反今川政策には批判的だったのだろう。一方、信康の妻は織田信長の娘で、信康の行状を父信長に伝えたのはその妻だったとされている。戦国時代の武将も妻の実家との関係は難しかったのである。その信康事件の真相はなかなかはっきりしないが、この本では15ページ近くこの問題を考察していて、なるほどなあと納得するところがあった。基本的には信康の行状には問題があったらしいと言うのである。

 一進一退を続けていた武田・徳川決戦が最終局面に入ったのは、1580年に始まった高天神(たかてんじん)城攻防戦だった。と言われても、場所がすぐ判る人は少ないだろう。遠江の海辺(当時)にあって、今の地名で言えば静岡県掛川市になる。家康の本拠浜松城と御前崎の中間あたりである。当時は入江が近く、海からの補給も可能だった。しかし、家康が周囲を取り巻く砦を多数作って包囲戦を開始し、城内は援軍を信じて奮闘を続けたが1582年3月に落城した。勝頼は何で援軍を送らなかったのか。武田勝頼も天下人となりつつあった織田信長に接近を図っていて、その工作が破綻することを恐れたのだという。
(高天神城跡)
 高天神城は武田支配の突端にあたり、第二次大戦で考えればガダルカナル島にあたる。周囲を取り巻かれて補給が続かず、落城するしかなくなった。その時に、やはり第二次大戦中の戦争最終局面で、ソ連の仲介による和平工作を考えた大日本帝国を思い出してしまった。実はソ連は米英に対し、ドイツ敗戦後の対日開戦を約束していたというのに。同じように信長は、出来るだけ武田家中が疑心暗鬼になるように、城内からの降伏申し出を拒絶している。次の武田壊滅戦に有利になるように、勝頼の権威失墜を優先させたのである。実際に武田家中にはこの後勝頼を見限って織田・徳川に内通する者が相次ぎ自壊していった。
(平山優氏)
 著者の平山優氏(1964~)は、両親が山梨出身で早くから武田氏に関心があったらしい。実は立教大学の藤木久志ゼミ出身だということで、へえと思った。年齢が違うので存じ上げないけれど、同じ研究室で学んだこともあるはずだ。山梨県史編纂室、山梨県立博物館、山梨中央高校(定時制)教諭を経て、現在は健康福祉大学特任教授と出ている。本能寺の変以後の織田領国争奪戦は近年「天正壬午の乱」と呼ばれるようになったが、その研究をリードしてきた人のひとりである。武田氏に関する本格的研究書をいっぱい書いていて、最近は一般向けの新書なども多い。これからも読んでみたいと思う。
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最新の徳川家康像を探るー黒田基樹氏の本を読む

2023年04月23日 23時29分52秒 |  〃 (歴史・地理)
 大河ドラマを見なくなって、もう何十年も経つ。自分も幼き頃は大河ドラマで歴史ファンになったようなものである。でも大学生頃からはほとんど見てない。実際に「歴史学」を学ぶようになってしまったから、今さら戦国や幕末のドラマを見ても違和感を感じる部分が多い。それでも大河ドラマをきっかけに、関連人物の研究が進んで新書などで刊行されることが多い。この「大河特需」は研究者にも歴史マニアにもありがたいものじゃないだろうか。

 今年は徳川家康だから、家康本が並んでいる。その中で関東戦国史をずいぶん読んできた黒田基樹氏の『徳川家康の最新研究』(朝日新書)を見つけたので思わず買ってしまった。3月30日付の本で、時に大きな書店に行くとこういう本を見つけられる。早速読んだんだけど、最近では一番面白かった本だ。やっぱり歴史系の本が好きなのである。近現代は読む側に「価値観」が問われるけど、戦国時代はそこまで考えなくても良いから気が楽だ。
(『徳川家康の最新研究』)
 帯には「忍耐の人ではなく、ありえない強運の持ち主だった!」と書かれている。それはその通りだろう。各章を紹介すると、「今川家における立場」「三河統一と戦国大名化」「織田信長との関係の在り方」「三方原合戦の真実」「大岡弥四郎事件と長篠合戦」「築山殿・信康事件の真相」「天正壬午の乱における立場」「羽柴秀吉への従属の経緯」「羽柴政権における立場」「関ヶ原合戦後の『天下人』化」の全10章。最晩年の豊臣氏滅亡に至る問題は触れられていない。

 よく知らないだろう言葉を解説しておくと、「大岡弥四郎事件」というのは、長篠合戦(1575)の直前に岡崎町奉行の一人だった大岡弥四郎が、武田軍を城内に引き入れる謀反を企んだが事前に発覚して防いだという事件だという。僕も初耳だったが、当時家康は浜松城を本拠としていて、岡崎城は1571年に成人した長男信康が城主となった。この陰謀は単に大岡一人のものではなく、信康家臣団中枢につながるものだった可能性が高い。武田勝頼は結果的に滅亡したので、何だか弱将だったイメージがある。しかし、信玄没後も広大な領国を長く維持して、当時は東三河に侵攻を計っていた。勝頼の評価は最近かなり高くなってきた。

 1582年に武田家は滅亡する。家康は3月10日に甲府に着いたが、本能寺の変が起こったのは6月2日。武田滅亡後に家康は駿河を与えられたが、甲斐・信濃・上野の旧武田領は織田政権の支配が安定しないうちに崩壊し、その結果、徳川、北条、上杉、また信濃の国衆などが実力本位で争った。それが「天正壬午の乱」で、この名称も近年になって定着したものなので僕は知らなかった。当時の焦点は織田政権の後継の行方である。研究者も中央政界の動向に目が行っていて、地方の事情は軽視されていた。結局、甲斐・信濃は徳川、上野は北条が切り取り次第となって決着した。
(『徳川家康と今川氏真』)
 その後、黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日選書)が出た。4月25日付だから、まさに最新の本だ。これは名前通り、今川氏真(いまがわ・うじざね、1538~1615)との長い関係をていねいに追求し、今までにない史実を豊富に指摘している。前書と合わせて、今川家との関係を見ておきたい。今までは徳川家康は忍耐、辛抱の人生で、まず幼少期に父が死んで、今川家の人質にされたと出て来る。それも一時は間違って織田家に送られたという話もあった。それはどうやら間違いらしいが、今川家に送られ駿府(今の静岡市)に住んでいたのは確かである。しかし、それは人質という性格のものではなかったらしい。

 今川家従属の国衆は原則として駿府在住が求められ、家康も特に扱いがひどかったわけではない。むしろ一門の重臣関口家の娘(築山殿)と結婚を許され、一門衆扱いされていたらしい。1560年の桶狭間の戦い今川義元が敗死して、すぐに家康は従属関係を解消し信長と同盟したというのも間違い。織田・徳川の清洲同盟は翌1561年のことである。当初はまだ今川家に従っていたのだが、次第に独立志向を強くしていき、三河(愛知県東部)の統一を目指し始める。1563年に名前を改め、今川義元から一字を貰った「元康」から「家康」とした。これが今川との公式的な手切れだろう。

 当時の関東情勢のベースは「甲相駿三国同盟」だった。武田信玄北条氏康今川義元の間で相互の婚姻関係を結び、1554年から1567年まで継続された。しかし、義元死後に武田信玄は駿河を狙う素振りを示した。1567年に信玄は嫡子義信を幽閉し、義信は後に自害する。真相はよく判らないが、今川義元の娘と結婚していた義信の親今川路線が父と対立したものだと言われている。実妹がないがしろにされた今川氏真は、怒って同盟を破棄していわゆる「塩止め」に踏み切った。この氏真の妹・貞春尼は後に家康の三男、秀忠(二代目将軍)の上臈(じょうろう=女性家老・後見役)を長く務めた。これはこの本で初めて紹介された新事実で、徳川、今川の秘められた深い関係を明かしている。

 もうかなり長くなっているので、その後のことは簡単に。結局、武田軍は駿河を制圧し、さらに家康支配下の遠江(とおとうみ=静岡県西部)、三河にも攻撃の手を伸ばす。今川氏真は妻の実家である北条氏のもとに身を寄せて再起を目指した。その後、上杉と同盟していた北条氏が武田と再同盟すると、氏真は一家で家康の元に移った。家康は織田信長に従っていて、織田は父義元の仇敵である。しかし、現に旧領池の駿河を支配しているのが武田氏である以上、武田氏と戦っている家康と協力するしか今川家再興はないと覚悟したのだろう。家康としても旧領主を担ぐことは有利となる。氏真は一城を与えられ、武田滅亡後には氏真に駿河半国を与えるよう家康は信長に進言したという。だが信長は今川勢の力を評価せず、駿河全国を家康領とした。
(黒田基樹氏)
 ここにおいて戦国大名としての今川家は完全に没落した。しかし、秀忠との関係を軸にして徳川と今川の関係は続いた。今川家の中央(朝廷や幕府)とのつながりは徳川家にも必要だった。江戸時代になっても、今川家は高家として生き残っていった。高家とは吉良家が有名だが、朝廷関係の儀式などを担当する名家である。

 ところで、家康最大の幸運は武田信玄が行軍中に陣没(1573年)したことだろう。戦国時代のいろんな本を読んでいて、とにかく武田信玄は強かったと思う。どうにも好きにはなれない点が多いけど、とにかく信玄が生きていれば、徳川家の滅亡もあり得なくはなかったと思う。だからこそ、徳川家の中にも武田の調略に応じるものも出て来る。家康が妻と長男を殺害した有名な「築山殿始末」は、今までの小説や映画などでは信長に命じられて苦悩の内に「お家のため」に家康も踏み切ったのだとされてきた。しかし、黒田氏の本では、そういう性格のものとは言えないと書かれている。築山殿には実際に武田家との関係があったらしい。

 黒田基樹氏(1965~)は実に多くの一般向け著作を書いている。特に関東の戦国大名の研究が多く、特に後北条氏研究の第一人者。そこから進んで最近は武田氏、今川氏、徳川氏なども対象にしている。駿河台大学教授だが、それはどこにあるのかと思ったら埼玉県飯能市だった。お茶の水の駿台予備校をやってる駿台学園が開いた大学である。
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「清張史観」の克服をー池上彰・佐藤優『日本左翼史』三部作を読む③

2023年04月10日 22時45分42秒 |  〃 (歴史・地理)
 池上彰・佐藤優両氏の『日本左翼史』三部作をもう一回。この本は対談なので様々な話題に飛んでいるが、中にはちょっと議論が粗いかなというところもある。(いくつかの重要な点は大塚茂樹著『「日本左翼史」に挑む』で検討されている。)ここでは自分の問題関心にそって、「下山事件」評価に関わる問題、松本清張の著作に顕著な「陰謀史観」の克服という問題を書いてみたい。
(松本清張)
 僕は子どもの頃から歴史に関心があって、小学校6年の時にどこかのデパートで開かれた「金印展」に行った記憶がある。例の「漢委奴國王」の金印が展示されたのである。どこのデパートかは忘れた。もちろん自分一人で行ったのではなく、親に連れて行ってもらったのである。そこでは様々な本を売っていたが、松本清張古代史疑』(1968)という本を買ってもらった。その時にはすでに中央公論社『日本の歴史』シリーズを読んでいたので、邪馬台国論争の基本はおおよそ知っていた。で、難しいながら松本清張の古代史論に熱中したのである。

 松本清張(1909~1992)は没後30年を過ぎても未だに読まれ続けている。さすがに映画化は2009年の『ゼロの焦点』以後はないようだが、テレビドラマは2020年代になってもかなり作られている。日本人の「庶民感覚」にフィットする部分があるんだろう。『古代史疑』の時はよく知らなかったけれど、その後「社会派ミステリー」の大家だと知って小説も読むようになった。

 多分高校生の時に「新潮日本文学」という大きな全集の一冊を買って、『点と線』『ゼロの焦点』、多くの短編などを読んだ。その時点でさすがに『点と線』のトリックは見抜けたけど、ホントにそれでいいのかと思いつつ読んだ。『日本左翼史』の中では佐藤氏が70年以後はこのトリックは不可能と述べていて、なるほどと思った。ただ生誕100年の時に読み直してみたら、トリックは別にして今読み直しても面白いのに驚嘆した。

 だから文春文庫が創刊され(1974年)、しばらくして『日本の黒い霧』上下2冊が収録されたときには早速買って読んだのである。ウィキペディアで文春文庫を調べてみたら、刊行当時は紙質が悪かった(オイルショック後のため)とあった。そうだった。『日本の黒い霧』も電話帳と同じ変色しそうなレベルの紙だった。ものすごく面白くて熱中して読みふけったが、全部を鵜呑みにしたわけではない。だけど、基本的には「占領下の怪事件=米軍謀略説」になるほどそうだったのかと納得させられたと思う。
(『日本の黒い霧』上巻)
 その頃はアメリカ軍はヴェトナム戦争の悪いイメージが強かった。一方で中国の文化大革命や「北朝鮮」内部の事情などはまだ報じられてなく、革命幻想のようなものが強かった。米軍がこのような謀略を企んで、朝鮮戦争を起こしていったのかと歴史の闇がつながった気がしたのである。様々な怪事件(下山事件、松川事件、白鳥事件、鹿地亘事件などなど)を通して、最終的には「謀略朝鮮戦争」につながっていく。見事な構成である。今は怪事件の中身には一つ一つ言及しないが、「革命を売る男 伊藤律」を読むと、戦前から共産党にはスパイが紛れ込んでいたのかと衝撃を受けた。

 しかし、その後僕はちょっと待てよと思う本に出会った。佐藤一氏の『下山事件全研究』(1976)である。これを素直に読めば、松本清張説は成立が難しいと思うようになった。清張本に憶測で語られていた論点を一つ一つ実際に取材をして確認している。佐藤一氏は松川事件1.2審で死刑判決を受けた人である。その後、無罪判決が確定し(1963年)、以後下山事件研究会の事務局長を務めていた。当然、その時点では共産党員で、その立場で事件を調べていったわけである。
(佐藤一氏)(『下山事件全研究』)
 佐藤一氏については、かつて「佐藤一という人ー映画「黒い潮」と下山事件」(2013.4.9)という記事を書いたので、今は詳しくは書かない。しかし、その後も下山事件に触れる人のほとんどは、佐藤氏の本に触れない。佐藤氏の「自殺説」に反証しないまま、「他殺説」を語っている本が多い。佐藤氏が党を離れ、下山事件研究も無視され続けたことから、清張批判のトーンが段々高くなっていき、読む側も「奇人」「奇書」扱いしてしまったのかもしれない。だが、一番最初の『下山事件全研究』は、この問題を論じるときの必読前提書に違いない。

 『日本左翼史』の中でも、下山事件に触れた箇所がある。佐藤氏は今では自殺か他殺かは「永遠に不明」と述べている。しかし、矢田喜美雄氏(他殺説に立って本を書いた元朝日新聞記者)の本は名を挙げているのに対し、佐藤一氏には触れない。それでは「他殺説」に傾いたスタンスだと思われても仕方ないだろう。『日本の黒い霧』で触れられた「謀略説」はその後どんどん崩れていった。もうどこかで死んでいると思われた伊藤律が中国で生きていたと1980年に判明し、帰国したのは驚いた。自分はスパイではないと主張し、今では文春文庫版には注記がなされているという。

 白鳥事件(1952年に札幌で警察官が殺害された事件)に関しても、謀略ではなかったという主張がなされ、僕もそれが正しいのだろうと思う。それより何より、ソ連崩壊で大量の秘密文書が明らかになり、朝鮮戦争は中国、ソ連の了解のもと、「北」側から侵攻したことが証明された。そうすると、『日本の黒い霧』の全構図が変わってくるはずだ。もちろん米軍が企んだ謀略もなかったわけではないだろう。しかし、「社会主義国」を一方的に「平和勢力」と前提するわけにはいかない。

 下山事件の詳細については、ここで触れなかった。過去の記事を当たって欲しい。ただちょっと追加しておく。下山事件というのは、いうまでもなく、1949年7月に当時の国鉄総裁だった下山定則氏の轢死体が見つかった事件である。下山総裁の存在が占領軍のジャマになっていたわけではない。ジャマなのは国鉄の人員整理に強く反対する国鉄労組内の共産党系組合員の方である。従って、米軍が謀略を企むとすれば、「下山総裁を殺害したとして共産党員に罪を負わせる」というものになる。しかし、自殺か他殺か決着せず、結局誰も起訴されなかった。

 つまり「失敗した謀略」だったことになる。清張説によれば、下山氏は「血を抜かれて殺害され」、その後「列車に轢かせた」というのである。なんでそんなことをするんだろうか。そのため、自殺か他殺か判らなくなってしまったではないか。「怒れる共産党員が総裁を殺した」にしたいのである。殴り殺して国鉄が関係する場所に死体を放置して置けば良いではないか。そうすれば、アリバイが成立しない共産党系組合員の一人や二人見つけられただろう。清張説を読んで納得してしまいがちなのは、「下山総裁殺害」そのものが目的のように思い込んでしまうからだ。しかし、「謀略」であるならば、共産党員に罪をなすりつけやすいように計画するはずだ。プロなんだから。一番おかしいのはその点だろう。
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「講座派」「労農派」論争を越えてー池上彰・佐藤優『日本左翼史』三部作を読む②

2023年04月09日 23時17分28秒 |  〃 (歴史・地理)
 戦前に行われた「日本資本主義論争」というものがある。近代史、経済学に関心が深い人には有名な論争だが、今さら一般向けにはそれほど意味がある論争でもないだろう。しかし、『日本左翼史』三部作ではかなり触れられている。特に佐藤優氏が「労農派」の影響を強く受けてきたらしいことに驚いた。佐藤氏は1960年生まれだというのに、若い時に社青同(日本社会主義青年同盟=社会党系の青年組織)に加盟していたのである。そのため、社会党と「新左翼」との関係に詳しく、一部新左翼党派が社会党への加入戦術を取るなど「社会党が新左翼の傅育器(ふいくき)だった」という興味深い指摘をしている。

 「日本資本主義論争」とは、文字通り日本の資本主義発達史をどのように理解するかという論争である。簡単に紹介しておくと、1932年から33年にかけて岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』で主張された見方が「講座派」と呼ばれた。執筆者には共産党系の理論家が集結し、明治維新で成立した体制は「半封建的主義的な絶対主義天皇制」であり、従って社会主義革命に先だって「天皇制を打倒するブルジョワ民主主義革命」が必要になると主張した。

 一方、非共産党系の学者、運動家が1927年に創刊した雑誌「労農」では、違った主張がなされた。そこでは「明治維新は不徹底ではあるがブルジョワ革命」とし、当時の日本の支配者は「金融資本・独占資本を中心とした帝国主義的ブルジョワジー」だとする。そのため、日本ではすぐに社会主義革命が可能だとした。そのような考えを「労農派」と呼ぶ。革命論では講座派が「二段階革命論」、労農派が「一段階革命論」となる。労農派の人々は戦後には社会党左派系の活動家になった。
(当時の雑誌「労農」)(復刻された「日本資本主義講座」)
 この論争はある時期まで非常に重要な意味を持っていた。戦後に再建された共産党は講座派、社会党は労農派の理論的影響下にあったということも大きい。共産党は戦後になっても、日本は基本的にはアメリカに支配されていると主張し、アメリカからの「民族独立革命」という「二段階革命論」を主張した。経済史以外の学問にも、日本の特徴をどのように理解するかという点で大きな影響を与えてきた。今になって、当時の論争としてはどちらが正しい理解だったという判定には興味がない。論争になったという時点で、双方にそれなりに「そう見える論拠」があったと思っている。

 ただ、労農派の中心になった社会主義者、山川均(1880~1958)はもっと知られるべき思想家だと思う。山川らは1922年に「第一次共産党」を結成したメンバーだが、その後解党して第二次結党(1926年)には加わらなかった。共産党からは批判されたが、一貫して合法的な共同戦線党を主張し、大衆運動との結びつきを強調した。またレーニン主義を信奉せず、日本の革命は日本の現実から出発するべきで、ロシアやドイツなど外国をまねるべきではないとした。世界的に左翼陣営ではソ連の影響力が圧倒的だった時代に、これほど自立的な立場を貫いたのは珍しい。戦時中もウズラを飼って生き抜いている。
(山川均)
 社会党系の社会主義協会などの理論的な歩みが三部作では細かく言及されている。あまり類書がないと思うし、僕も興味深い点が多かった。しかし、ここではちょっと違った視点から日本資本主義論争を振り返ってみたい。戦前はもちろん、戦後も70年代ぐらいまでは、日本は「欧米以外で唯一近代化に成功した国家」だった。「近代化」とは工業化でもあり、戦前においては「植民地を有する帝国主義国家」でもあった。どうして日本は「近代化」を曲がりなりにも成し遂げられたのか。また何故第二次大戦で敗北し、占領下で民主主義国家になったのか。これは革命党派以外にも切実な問いだった。

 だから経済学以外でも、欧米諸国と日本を比較検討し「日本の特色」を探し出す試みは多くなされた。精神科医の土居健郎の『「甘え」の構造』はその代表である。その時に日本と近隣アジア諸国との比較はなされなかった。だから、後に韓国の李御寧氏から韓国にも「甘え」に似た言葉があると指摘されている。当時の日本人は左右を問わず、日本を欧米諸国と比べていた。「日本はすごい」と見るか「日本は遅れている」と見るかは分かれても、欧米と比較することは誰も不思議に思わなかった。

 しかし、80年代になって韓国、台湾、香港、シンガポールの工業化が進展し「アジアの四つの龍」と呼ばれた。その後の東南アジア各国や中国、インドの経済成長は著しく、それにアフリカ諸国も続いている。「欧米のような高度に発達した工業国家になったのは、非欧米世界では日本だけ」という認識はもはや全く成立しない。文明史数千年の流れの中で、西欧から始まった工業社会化は数百年のタイムラグはあったが、全世界に広がりつつある。イギリスのような「国内は議会制民主主義、国外は帝国主義的侵略主義」という近代化の方がレアというべきではないか。

 日本の明治維新は「不十分なブルジョワ革命」というよりは、「伝統的な価値体系を残しながら、上からの近代化を推進する」という開発独裁に見えてくる。韓国やインドネシアの軍事独裁に先駆けて成立した開発独裁である。ロシアや中国で共産党がなしとげたことも、一党独裁での工業化ではないか。もっとも毛沢東時代は特別な例外である。その後の「改革開放」を主流と考える。

 そういう見方をするなら、「日本資本主義論争」をどう考えるべきか。日本の近代化こそ、伝統(天皇制)と結びついた、「人権宣言抜きの議会政治」なのである。「一段階」でも「二段階」でも、革命は難しかった。工業化はなしとげたが、社会の中に「人権宣言」がなかった。革命勢力もそのマイナス面を引きずり、人権上問題のある内部闘争が頻発した。しかし、このタイプの近代化こそ、アジア諸国のモデルタイプだったのではないか。中国やインドネシアの現状を見るとそう思えてくる。「日本資本主義」はむしろ標準事例だったのではないか。
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「左翼」は復活するのかー池上彰・佐藤優『日本左翼史』三部作を読む①

2023年04月08日 23時20分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 先日、大塚茂樹さんから近著『「日本左翼史」に挑む』(あけび書房)を贈って頂いた。早速読んでみたのだが、その感想はもう少し後で書きたい。なぜなら、その本は池上彰佐藤優両氏の『日本左翼史』三部作(講談社現代新書)を受けて書かれたとあるからだ。その3冊が「未読でも読んでいただける」と書かれている。確かにそうだったが、自分の性分としてやはり池上、佐藤氏の本を先に読んでおきたい。入手が難しい本じゃないし、対談なんだから読みにくい本じゃないだろう。
(『真説 日本左翼史』)
 その3冊を僕はこれまで読んでなかった。というか、池上氏や佐藤氏の本を今まで買ったことがないのである。(佐藤氏のデビュー作『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』は読んでるが、勤務先の学校図書館でリクエストしたのである。)池上、佐藤両氏を特に忌避しているわけじゃない。単に僕もあらゆる本を買って読むわけにはいかないだけである。この本の存在は知っていたが、まあ大体知っている内容だろうなあと思ったから、別にいいやと買わなかったのである。で、確かに「大体」の流れは知ってたことだった。しかし、「大体じゃない部分」には知らないことがいっぱいあった。そして、そこが面白いのである。

 様々なテーマを縦横無尽に語れる佐藤氏に、テレビで博識を誇る池上氏の顔合わせである。実に面白かったけれど、存分に語られる二人の「自分史」こそ興味深い。池上氏は東大入試が中止された年の受験生で、「マル経」(マルクス主義経済学)を勉強したいと慶應大学に進学したとか。またNHK入局後は当然労働組合(日放労)に加盟し上田哲の選挙運動をしたなどのエピソードが出て来る。また佐藤氏お得意の理論面の分析が豊富で、その方面が苦手な僕には大変役に立つ本だった。ということで「戦後左翼史」には関心のない人も多いだろうけど、他のテーマも交えながら何回か続けることにしたい。

 その理論面の話などは後に回して、まず三部作の構成を紹介しておきたい。
①『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945~1960』(2021.6.20、229ページ)
②『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960~1972』(2021.12.10、266ページ)
③『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972~2022』(2022.7.20、187ページ)
(『激動 日本左翼史』) 
 ページ数を見れば判るように、三部作の中でも2巻目「60年安保から「新左翼」の「壊滅」まで」が一番長い。語るべき出来事が多いのは間違いないが、同時代人として知ってる人が多い割りに若い世代には継承されていないという思いもあるだろう。ところで「左翼」とは何だろうか。定義次第で様々に変わってしまう言葉だが、もともとはフランス革命にさかのぼると言われる。革命後の議会で、議長席から見て左側に王政反対派、右側に王政擁護派が着席した。当時は「王政の是非」こそが左右の分岐点だったのである。しかし、現在のフランスで「極右」とされる「国民連合」も、別に王政復活を掲げているわけではない。
(フランス革命時の左翼・右翼)
 もうフランスでは共和政が定着していて、「左右」の定義も変わっているのである。19世紀半ばにカール・マルクスが現れ、『資本論』などを著した。そして、資本主義の搾取社会から、やがては社会主義へ、そして最終的には搾取なき共産主義の社会へと人類史が進んで行くとした。その思想に基づき「社会主義社会を目指した革命を実現する」というのが、「20世紀の左翼」と考えて良いだろうと思う。様々な社会主義の考え方もあり続けたが、一応「マルクス主義」が優勢だった。三部作が対象とする時代、敗戦から72年までの日本でも同様である。

 つまり、「日本共産党」、「日本社会党」、そして共産党を批判してさらに左側に作られた「新左翼諸党派」が、この本で語られる「左翼」である。他にも左翼、もしくは左派的な組織、理論はあったし、政治闘争を抜きに直接共同社会の実践を行う「コミューン」もあったけれど、それは語られない。実際、この時代の日本社会史を語る時には外しても良いだろう。もっとも立場によっては、新左翼の扱いが大きすぎるという人もいるかもしれない。だけど、当時の世の中では組織的、理論的な実態を越えて、新左翼諸党派には大きな存在感があったのも間違いない。大規模な街頭闘争が頻発していたからである。
(『漂流 日本左翼史』)
 この三部作では「左翼」はいずれ復活すると佐藤氏が指摘している。新自由主義的なグローバリズムによって、「格差」が激しくなってしまった。フランス革命の「自由」「平等」「友愛」というスローガンにある、「平等」「友愛」の価値が見直されるときが来るということだろう。「歴史は繰り返す」という言葉もある。その時に近過去の日本で起こった「左翼の間違い」を総括して、次世代に伝える必要がある。それがこの本のスタンスである。僕もその考えは理解出来ないわけではない。マルクス主義ではないだろうが、「左派」的な思潮が蘇ってくる可能性もあるだろう。

 だけど、と僕は思うのである。「日本右翼史」は振り返らなくて良いのだろうか。戦後左翼史では確かに多くの悲劇的なケースがあり、何人もの人命が失われた。間違いを繰り返してはならない。だが、近代日本史総体を見るとき、むしろ「右翼」のもたらした悲劇の方が深刻だったのではないか。右派論者の中にはアカデミズムが長く左翼に支配されていたかのように言う人がいる。局地的にそういう面があったとしても、近代日本では右派が支配していた時代の方がずっと長かったはずだ。

 「左翼が復活する」という期待(または心配)よりも、僕は右派的なテロリズムが復活する心配をした方がいいのではないかと思う。「左翼」は革命を目指すので、議会によるか「暴力」によるかは別にして(まあ、「暴力革命」はもう不可能だが)、強大な革命党派が必要だ。それがもう現代の若者には面倒なんじゃないか。労働組合にも加盟せず、選挙にさえ行かない世代から、新しい革命党が生まれるだろうか。その「革命」が環境保護とか動物の権利とかのテーマだったとしても。

 日本の右翼は、伝統的に「破壊」だけで良しとする。日本には「天皇」がいて、フランス革命時の定義からしても「天皇制擁護」が右翼になる。天皇がいて「国体」が護られるならば、それ以上考える必要がない。自分の役割は「余計な悪を除去する」ことに絞られる。それで社会を良く出来る(と信じられる)んだったら、左翼より右翼の方が「コスパが良い」というもんじゃないか。実際に山上徹也容疑者の銃弾によって、日本の政治状況は大きく変わってしまった。武器でさえ自作したらしい。

 その後「被疑者死亡」のため真相不明ながら、宮台真司氏襲撃事件も起きている。そういう「個別決起」で、社会を変えようという発想が広がる可能性はないだろうか。どちらの事件も狭義の「右翼」の事件ではないだろう。だが「個別決起」を実践したケースではある。左翼の失敗を振り返り、左翼の再生を考えるのも大切だろう。でも、「日本右翼史」を振り返ることはもっと大切だと思う。いかにして戦争への道が切り開かれ、誰も止められなかったのか。今緊急な問いだと思う。
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竹生島は島じゃないのか?ー日本の島の数が「倍増」した理由

2023年02月16日 22時44分39秒 |  〃 (歴史・地理)
 日本の島の数が倍になったそうである。具体的に数を示せば、これまでの「6852」から「14125」になった。エッと思うけど、そもそもなんで数え直したのか。それは自民党の有村治子参議院議員が「島の数を正確に把握することは国益に関わる大事な行政だ」と指摘したのがきっかけだという。計算のベースは、国土地理院の2022年の「電子国土基本図」で、コンピュータで自動計測した。ただ人工的な埋め立て地などを除外するため、過去の航空写真と照合したという。
(島の数倍増を伝えるテレビ)
 ところで、そもそも「島ってなんだろう?」問題がある。「島」を定義しないと、数えようがない。それを授業などで考えてみるのも面白いだろう。まあ、ここでは話を進めるために答えを書いておくと、定義の根拠は国連海洋法条約である。
 ①自然にできた陸地 ②水に囲まれている ③満潮時でも水面上にある

 なるほどと思う定義だろう。だけど、疑問もある。それでは満潮時でも海面の上にちょっと出ている岩も島なのか。「島」ならその周囲は領海、あるいは排他的経済水域の基準となる。しかし、ただの「岩礁」(がんしょう)なら、そうはならない。人が住めないような「岩礁」では権利を主張できない。これが南シナ海をめぐって争われた国際司法裁判所の判断である。

 日本では「外周が100メートル以上の島」を数えることにしているという。正方形の島だとすると、一辺が25メートルである。大きいような小さいような…。ただ人が住めるような面積じゃない。なんで100メートル以上なのか書かれてないけど、これまでの島の数は海上保安庁がその基準で手作業で海図から数えたものだという。だから、以前と同じ基準なのである。電子地図をコンピュータで検索したことで、小さな島まで自動的にリストアップされてきたということのようである。

 都道府県別に、多い順に示すと以下の通り。
長崎県 1479
北海道 1473
鹿児島 1256
岩手県  861
沖縄県  691
宮城県  666
和歌山  655
東京都   635
島根県  600
三重県  540
(都道府県別の島の数)
 一方、少ない方の県はと考えて、そうか「海なし県」は島がない。埼玉県奈良県に島があるわけないだろう。海に面した都道府県で島がないのを探してみると、大阪府だけがゼロである。関空や夢洲はあるが埋め立て地。ところで、海なし県は軒並みゼロになっているが、琵琶湖のある滋賀県はどうなんだろう。ここもゼロである。えっ、おかしくないだろうか。

 国宝の島として知られる竹生島(ちくぶしま)は島じゃないのか。あるいは近江八幡市にある沖島はどうなんだ。ここは人口250人程度が住み、日本唯一の淡水湖中の有人島である。(また猫の島としても有名。)このように湖の中の島は全国に見られる。島根県の中海にある大根島。北海道の洞爺湖にも島があるし、日光の中禅寺湖にも島がある。長野県の野尻湖には琵琶島があって、昔作家の中勘助が暮らしていたことがある。
(竹生島)
 先に見た島の定義からしても、まあ湖だと湖水の干満はないけれど、自然にできた陸地なんだから、島の数に入れなくて良いのだろうか。ただ昔のように、数えるのが海上保安庁なら海上交通の保安面からして湖の島を数える必要がない。だけど、我々の文化的、自然景観的な常識からして、湖にある島も「日本の島の数」に入れるべきではないだろうか。

 一方、「外周100メートル以上」条件のために、到底普通は島とは言わないような所までリストアップされている。それは上記都道府県リストで、長崎、北海道、鹿児島はいいけれど、第4位に岩手県が入っていることでも判る。上位3道県は有名な島の名前がすぐ思いつくけど、岩手県に島があるのか。地図がある人は見て欲しいけど、とても861個も島があるとは考えられない

 それは首都圏でみても同様。伊豆諸島、小笠原諸島を管轄する東京都は理解出来るが、茨城県が13千葉県が244神奈川県が97って、ほんとにそんなにあるのかなあと疑問に思う。江ノ島とか幾つかあるのは知ってるけど、こんなにあるのはよほど小さいのまで数えているわけだ。国境地帯などは別だろうが、人が住んでいない島の数がいくつかなど、これほど細かく調べても「国益」に関係ないだろう。むしろ湖の島なども入れて、「常識的な数字」を出した方が良い。
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