家に読んでない本がいっぱいあるから、最近はネットで買わないことにしている。リアル書店を支える気持ちが強いのだが、なかなか大きな本屋に行く時間もない。買いたい本がいろいろあって、少し前にやっと行ったけど、つい歴史系の新書も買ってしまった。すぐに読みふけると、やはり面白いのである。いまや新書といえども千円超えるものが多いし、授業に役立てる意味もない。でも「趣味」なんだなあと思って、時々は買いたいと改めて思った。
買ったのは呉座勇一『動乱の日本戦国史 ― 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで ―』(朝日新書)と瀧浪貞子『桓武天皇 ー決断する主君』(岩波新書)である。呉座氏の本は今まで紹介したこともあるが、とにかく面白い。桶狭間の戦い、長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど、有名な戦国時代の「戦い」に関して通念と近年の新研究を検討している。信長の奇襲(桶狭間)、武田騎馬軍団対織田鉄砲隊の三段打ち(長篠)など、昔聞いたような話はどんどん更新されている。昔読んだり聞いたままになってる人は読んで欲しいと思うが、まあ僕は大体知ってたな。ということで、ここでは簡単な紹介だけ。
問題は瀧波貞子氏の『桓武天皇』である。「桓武」は言うまでもなく「かんむ」と読む。日本史上に名高い「天武天皇」「聖武天皇」などと並ぶ「諡」(おくりな)に「武」(む)が付く天皇である。桓武天皇は日本史上の超重要人物で、絶対に覚えたはずである。何しろ「平安遷都」を行った人で、その年も大体覚えてるだろう。「鳴くよウグイス平安京」で、794年。日本史上最長の都であり、世界的大観光都市でもある「京都」を作った人物ということになる。
(桓武天皇)
瀧浪貞子(1947~)氏は日本古代史が専門で、京都女子大名誉教授。近年女性天皇の評伝などの一般書を多く出している。集英社の「日本の歴史」シリーズで『平安建都』(1991)を執筆し、その本は僕も読んだ。ところが今回の本を読むと、「今まで誰も気付かなかったが」というフレーズが多用されている。以前書いた自分の本の記述も大胆に変更しているのである。ちょっと細かい話になるかもしれないが、以前は桓武天皇の父、光仁天皇の即位をもって「天武系から天智系へ」と理解されていた。教科書には天皇系図が載っていて、それを見れば一目瞭然。天武天皇から直系で続くのは称徳天皇で途絶え、天智天皇の息子施基親王(志貴皇子)の子である光仁天皇が62歳で即位したのである。「天武系から天智系へ」ではないか。
(瀧浪貞子氏)
ところが当時の人々の意識では、光仁、桓武天皇は「天武系」だったというのである。それは施基親王が「吉野の盟約」に参列していたからである。679年、天武天皇と皇后(後の持統天皇)は6人の皇子とともに吉野に行幸し、草壁皇子(天武・持統の子ども)を事実上の次期天皇とし、兄弟が協力するように盟約を結んだ。(しかし、即位前に草壁は死亡し、母の持統が即位する。)その時の6人の皇子は、天武の子の草壁、大津、高市、忍壁と天智天皇の子の川島、施基(志貴皇子と書くことが多いが、この本では施基とする)だった。僕もその盟約は知っていたが、天智の皇子が二人入っていたことは重要視しなかった。
というか、こういう盟約を結んでも、その後よく知られているように大津皇子は反逆の罪に問われ死を選ぶ。その密告をしたとされるのが川島皇子である。そういう意味で、「盟約」は崩れたと思いこんでいた。だが奈良時代を通じて、「盟約」は「伝説」「伝統」とみなされるようになり、施基皇子もいわば「名誉天武系」と扱われていたというのである。施基皇子は陰謀渦巻く奈良政界に背を向けて、歌人として万葉集に載るなど文化人として生き延びた。その第6皇子が白壁皇子(光仁天皇)で、聖武天皇の皇女井上内親王を妻としたのも、そのような「天武系」扱いだったからだ。
聖武天皇の男子が亡くなった後で、未婚の女性だった皇女阿倍(あへ)内親王が即位し、孝謙天皇となった。一時は淳仁天皇に譲位したが、かつての寵臣藤原仲麻呂との関係が悪化し「藤原仲麻呂の乱」が起きる。仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は廃された。その後、前天皇が重祚(ちょうそ=二度即位すること)して、称徳天皇となった。称徳天皇は僧の道鏡を重く用い、道鏡は自ら後継の皇位を望んだという。しかし、天皇は後継を決めずに亡くなり、白壁皇子が62歳(日本史上最高齢の即位)で光仁天皇となった。皇后は聖武天皇の娘、井上内親王で、皇太子は二人の間の子、他戸(おさべ)親王だった。
一方、桓武天皇(山部皇子)は生母の身分が低く(百済渡来系の和=やまと氏)、当初は光仁の後継者とは想定されていなかった。それが(恐らく藤原百川らの暗躍もあって)井上内親王、他戸天皇が廃され、山部が皇太子となった。781年に譲位され山部が即位すると、同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とする。しかし、この早良も785年に廃され、実子の安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。つまり、桓武は皇位を継ぐとは誰も思わないところから出発し、自身の子孫が皇位を継ぐように歴史の流れが変わったのである。しかし、その影で自分の弟二人を死においやった。そのため早良親王の「怨霊」に長く苦しめられる。
何だか長くなってしまった。このことは歴史に詳しい人ならよく知られていることだ。だが、この本は細かく史料を検討し直し、桓武の心情を新たな目でとらえている。かつて原武史『昭和天皇』(2008)を読んだとき、実母(大正天皇の皇后)の干渉や宗教狂いに苦しむ姿が印象的だった。天皇も人間なんだから、家族問題の悩みを抱えている。この本で読む桓武も、身分の低い母から生まれたという周囲の目をいかに意識していたか悩みが伝わる。そこで抜てきした藤原種継とともに、奈良の都を捨て784年に長岡京への遷都を決断した。ところが翌年に長岡京で種継が暗殺されるという大事件が起こる。
(長岡京跡地)
これも「何か起こる」と察知した桓武はその時わざと都を空けていたという。まさか暗殺までとは思わなかったのだろう。そのぐらい長岡京遷都(平城京廃都)への反対が多かったのである。実行犯も特定され、昔から有力な大伴一族などが数多く罰せられた。歌人として知られる大伴家持は直前に死亡していたが、死後に処罰された。そんな中で、桓武は長岡京を捨て、さらに平安京への遷都を決める。その上申を行ったのが、何と和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)だった。和気清麻呂は戦前の教育を受けた人なら、日本史上の大忠臣として誰もが知っていた。道鏡が皇位を望んだとき、宇佐神宮まで神託の確認に行った人である。その時に皇族以外に継がせてはならないという神意を持ち帰った。そのため「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅(鹿児島県東部)に流された。光仁時代になって復権し、民政専門家として活躍したという。
(和気清麻呂)
和気清麻呂は「皇統を守った」として、戦前は10円札の肖像にもなった。各地に銅像も建てられ、上記画像は皇居外苑に今もあるもの。その和気清麻呂の後半生を知らなかったが、実務官僚として桓武朝で重く用いられ、平安京建設の中心となったのである。この人物の再評価も必要だと思う。さて、他にも「蝦夷」との戦争、仏教との関わり(特に最澄)など後の時代に大きな影響を与えた政策がある。また渡来系一族との関係など、今まで知らなかったことがいっぱい。まあ、一般的にはここまで知らなくても良いと思うが、こういうトリビアルな検討から人間や時代の全体像を構想するのが、歴史の醍醐味なのである。その意味で「桓武天皇」という重要人物を身近に見た感じがした。もっとも善し悪しは別であるが。
買ったのは呉座勇一『動乱の日本戦国史 ― 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで ―』(朝日新書)と瀧浪貞子『桓武天皇 ー決断する主君』(岩波新書)である。呉座氏の本は今まで紹介したこともあるが、とにかく面白い。桶狭間の戦い、長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど、有名な戦国時代の「戦い」に関して通念と近年の新研究を検討している。信長の奇襲(桶狭間)、武田騎馬軍団対織田鉄砲隊の三段打ち(長篠)など、昔聞いたような話はどんどん更新されている。昔読んだり聞いたままになってる人は読んで欲しいと思うが、まあ僕は大体知ってたな。ということで、ここでは簡単な紹介だけ。
問題は瀧波貞子氏の『桓武天皇』である。「桓武」は言うまでもなく「かんむ」と読む。日本史上に名高い「天武天皇」「聖武天皇」などと並ぶ「諡」(おくりな)に「武」(む)が付く天皇である。桓武天皇は日本史上の超重要人物で、絶対に覚えたはずである。何しろ「平安遷都」を行った人で、その年も大体覚えてるだろう。「鳴くよウグイス平安京」で、794年。日本史上最長の都であり、世界的大観光都市でもある「京都」を作った人物ということになる。
(桓武天皇)
瀧浪貞子(1947~)氏は日本古代史が専門で、京都女子大名誉教授。近年女性天皇の評伝などの一般書を多く出している。集英社の「日本の歴史」シリーズで『平安建都』(1991)を執筆し、その本は僕も読んだ。ところが今回の本を読むと、「今まで誰も気付かなかったが」というフレーズが多用されている。以前書いた自分の本の記述も大胆に変更しているのである。ちょっと細かい話になるかもしれないが、以前は桓武天皇の父、光仁天皇の即位をもって「天武系から天智系へ」と理解されていた。教科書には天皇系図が載っていて、それを見れば一目瞭然。天武天皇から直系で続くのは称徳天皇で途絶え、天智天皇の息子施基親王(志貴皇子)の子である光仁天皇が62歳で即位したのである。「天武系から天智系へ」ではないか。
(瀧浪貞子氏)
ところが当時の人々の意識では、光仁、桓武天皇は「天武系」だったというのである。それは施基親王が「吉野の盟約」に参列していたからである。679年、天武天皇と皇后(後の持統天皇)は6人の皇子とともに吉野に行幸し、草壁皇子(天武・持統の子ども)を事実上の次期天皇とし、兄弟が協力するように盟約を結んだ。(しかし、即位前に草壁は死亡し、母の持統が即位する。)その時の6人の皇子は、天武の子の草壁、大津、高市、忍壁と天智天皇の子の川島、施基(志貴皇子と書くことが多いが、この本では施基とする)だった。僕もその盟約は知っていたが、天智の皇子が二人入っていたことは重要視しなかった。
というか、こういう盟約を結んでも、その後よく知られているように大津皇子は反逆の罪に問われ死を選ぶ。その密告をしたとされるのが川島皇子である。そういう意味で、「盟約」は崩れたと思いこんでいた。だが奈良時代を通じて、「盟約」は「伝説」「伝統」とみなされるようになり、施基皇子もいわば「名誉天武系」と扱われていたというのである。施基皇子は陰謀渦巻く奈良政界に背を向けて、歌人として万葉集に載るなど文化人として生き延びた。その第6皇子が白壁皇子(光仁天皇)で、聖武天皇の皇女井上内親王を妻としたのも、そのような「天武系」扱いだったからだ。
聖武天皇の男子が亡くなった後で、未婚の女性だった皇女阿倍(あへ)内親王が即位し、孝謙天皇となった。一時は淳仁天皇に譲位したが、かつての寵臣藤原仲麻呂との関係が悪化し「藤原仲麻呂の乱」が起きる。仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は廃された。その後、前天皇が重祚(ちょうそ=二度即位すること)して、称徳天皇となった。称徳天皇は僧の道鏡を重く用い、道鏡は自ら後継の皇位を望んだという。しかし、天皇は後継を決めずに亡くなり、白壁皇子が62歳(日本史上最高齢の即位)で光仁天皇となった。皇后は聖武天皇の娘、井上内親王で、皇太子は二人の間の子、他戸(おさべ)親王だった。
一方、桓武天皇(山部皇子)は生母の身分が低く(百済渡来系の和=やまと氏)、当初は光仁の後継者とは想定されていなかった。それが(恐らく藤原百川らの暗躍もあって)井上内親王、他戸天皇が廃され、山部が皇太子となった。781年に譲位され山部が即位すると、同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とする。しかし、この早良も785年に廃され、実子の安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。つまり、桓武は皇位を継ぐとは誰も思わないところから出発し、自身の子孫が皇位を継ぐように歴史の流れが変わったのである。しかし、その影で自分の弟二人を死においやった。そのため早良親王の「怨霊」に長く苦しめられる。
何だか長くなってしまった。このことは歴史に詳しい人ならよく知られていることだ。だが、この本は細かく史料を検討し直し、桓武の心情を新たな目でとらえている。かつて原武史『昭和天皇』(2008)を読んだとき、実母(大正天皇の皇后)の干渉や宗教狂いに苦しむ姿が印象的だった。天皇も人間なんだから、家族問題の悩みを抱えている。この本で読む桓武も、身分の低い母から生まれたという周囲の目をいかに意識していたか悩みが伝わる。そこで抜てきした藤原種継とともに、奈良の都を捨て784年に長岡京への遷都を決断した。ところが翌年に長岡京で種継が暗殺されるという大事件が起こる。
(長岡京跡地)
これも「何か起こる」と察知した桓武はその時わざと都を空けていたという。まさか暗殺までとは思わなかったのだろう。そのぐらい長岡京遷都(平城京廃都)への反対が多かったのである。実行犯も特定され、昔から有力な大伴一族などが数多く罰せられた。歌人として知られる大伴家持は直前に死亡していたが、死後に処罰された。そんな中で、桓武は長岡京を捨て、さらに平安京への遷都を決める。その上申を行ったのが、何と和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)だった。和気清麻呂は戦前の教育を受けた人なら、日本史上の大忠臣として誰もが知っていた。道鏡が皇位を望んだとき、宇佐神宮まで神託の確認に行った人である。その時に皇族以外に継がせてはならないという神意を持ち帰った。そのため「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅(鹿児島県東部)に流された。光仁時代になって復権し、民政専門家として活躍したという。
(和気清麻呂)
和気清麻呂は「皇統を守った」として、戦前は10円札の肖像にもなった。各地に銅像も建てられ、上記画像は皇居外苑に今もあるもの。その和気清麻呂の後半生を知らなかったが、実務官僚として桓武朝で重く用いられ、平安京建設の中心となったのである。この人物の再評価も必要だと思う。さて、他にも「蝦夷」との戦争、仏教との関わり(特に最澄)など後の時代に大きな影響を与えた政策がある。また渡来系一族との関係など、今まで知らなかったことがいっぱい。まあ、一般的にはここまで知らなくても良いと思うが、こういうトリビアルな検討から人間や時代の全体像を構想するのが、歴史の醍醐味なのである。その意味で「桓武天皇」という重要人物を身近に見た感じがした。もっとも善し悪しは別であるが。