尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

西田敏行、大山のぶ代、旭國、白井佳夫他ー2024年10月の訃報①

2024年11月05日 21時46分30秒 | 追悼

 2024年10月の訃報特集1回目。何とか一回で思ったけど、挙げていくと案外多くの人が亡くなっていた。まず芸能関係やテレビで見聞きした人を取り上げたい。俳優の西田敏行が10月17日に亡くなった。76歳。死因は「虚血性心疾患」と発表された。当日も仕事が入っていたので、本人にも全く予期せぬ死だった。この日は新潟県の栃尾又温泉に出掛けていた日で、多分テレビで大きく報道されたんだろうけど、全く見てない。もとは舞台出身で、1968年に青年座俳優養成所に入り、71年の『写楽考』で早くも主役を務めた。その当時は中高生で、もちろん全然知らない。では、いつ名前と顔を覚えたのか、全く記憶にないのである。

(西田敏行)

 テレビでは『池中玄大80キロ』や数多くの大河ドラマ、舞台では森繁久彌を継ぎ『屋根の上のバイオリン弾き』、映画では『釣りバカ日誌』シリーズなど数多くの出演歴があって、誰もが何かを見た記憶があるだろう。僕にとっては山田洋次監督『学校』の夜間中学の黒井先生役が一番思い出にある。製作スタッフはよほど念入りに取材したんだろうが、職員室のムードが実に本当らしかった。西田敏行もホンモノの教員っぽかった。とても良く出来た映画なので、僕は定時制高校に勤務していたとき、毎年のようにビデオを見せていたものだ。夜間中学と定時制高校は違うけれども、共通点も多い。生徒も食い入るように見ていた。だから西田敏行と言えば、まずはこの映画を思い出すのである。養護学校を舞台にした『学校Ⅱ』でも主演しているが、やはり第1作。

(映画『学校』)

 西田敏行は1947年に福島県郡山市に生まれた。そのことを強く意識したのは2011年のことだ。福島第一原発の事故に強く怒り、風評被害に抗議し、福島のために多くのテレビに出て発言した。紅白歌合戦にも21年ぶりに出演し、「あの街に生まれて」という曲を歌ったが涙なくして聴けぬ熱唱。大ヒットした「もしもピアノが弾けたなら」も、それまでは不器用な男のラブソングだと思っていたけど、今は大津波や原発事故で苦難の境遇にある人の叫びに聞こえてしまうのである。

 声優の大山のぶ代が9月29日に死去した(10月5日公表)。90歳。1979年から2005年まで『ドラえもん』のドラえもんの声を担当したことで知られる。俳優座養成所7期生で、当初は俳優を目指していたが、次第に声の特質を買われて初期テレビ放送の声優に採用されることが多くなった。それが『名犬ラッシー』とか人形劇『ブーフーウー』って言うんだから、僕は幼い頃に聞いていたはずである。夫は初代「たいそうのおにいさん」の砂川啓介。晩年はアルツハイマー病を公表していた。

(大山のぶ代)

 大相撲の元大関旭國、引退後は大島親方として部屋を起こした太田武雄が10月22日死去、77歳。芸能人じゃないけど、テレビで見ていたという意味で、ここで。174㎝、118㎏の小兵力士ながら、多彩な技を繰り出し、技能賞6回、敢闘賞1回受賞。「ピラニア」と呼ばれ、食いついたら離さない取り口で知られた。当時最高齢の28歳で大関に昇進し、21場所務めた。しかし、優勝が一度もないのは、当時の横綱輪島、北の湖に弱かったのである。1977年9月場所など、14勝1敗の好成績を挙げたが、全勝した横綱北の湖にただ1敗して準優勝に留まった。僕はこの技巧派大関が好きで応援していたんだけど、残念。親方としては、モンゴル人力士を受け入れたことで知られ、最初に来た中の一人旭天鵬が太田姓を名乗って日本国籍を取得し、大島部屋を継いでいる。

(旭國=前大島親方)

 映画評論家の白井佳夫が10月5日死去、92歳。この人は12チャンネル(テレ東)にあった「日本映画名作劇場」の解説を担当して「日本映画の本当の面白さをご存じですか?」という決めぜりふで知られていた。その前にキネマ旬報編集長を1968年から務めていて、高校時代からキネ旬を読んでいたのでよく知っていた。その時代のキネ旬は様々な筆者が登場して非常に面白かった。(前月書いた渡辺武信の日活アクション論も長期連載されていた。)ところが総会屋のオーナーが竹中労の連載などを問題視して、1977年に白井佳夫編集長解任事件が起こった。抗議の支援運動が起こり、北の丸公園のサイエンスホールで行われた集会に僕も参加した思い出がある。そんなこともあったなと思いだした訃報だった。

(白井佳夫)

 ファッション評論家で知られた「ピーコ」(杉浦克昭)が9月3日に死去していた。双子の弟「おすぎ」とともに、同性愛を公表した「おすぎとピーコ」としてテレビで幅広く活躍した。70年代、80年代には多くのテレビ番組に出演し、辛口ファッション批評などをしていたので、多くの人の思い出にあると思う。晩年には認知症などの報道があり、なかなか大変だったようだ。

(ピーコ)

 料理研究家の服部幸應が4日死去、78歳。服部栄養専門学校の校長を親から引き継ぎ、1981年服部学園理事長にも就任。「料理の鉄人」など多くのテレビ番組に出演、料理界のご意見番的存在だった。「食育」の重要性も説き、2005年の食育基本法制定に尽力した。フランスのレジオンドヌール勲章の他内外の受賞多数。

(服部幸應)

・俳優の稲垣美穂子が8月6日に死去していた。86歳。50年代日活映画を見ると、主役じゃないけど2番手みたいな格で出ている若い女優がいて、誰だろうと思ったことがある。それが稲垣美穂子という人だとやがて知ったけど、その後を知らなかった。61年に俳優座に移って本格的な舞台女優を目指し、その後1977年には「劇団目覚時計」を主宰して、親子の絆などをテーマにした家族向けミュージカルを全国で公演したという。60年代から90年代に掛けて多くのテレビも出演していた。

・ジャズドラマーの猪俣猛が4日死去、88歳。日本を代表するドラマーとして活躍し、若手育成にも尽力した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする