尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

世界の本源的な「暴力」について

2013年02月25日 01時08分23秒 |  〃 (教育問題一般)
 「暴力は何があっても許されない」という言葉を最近聞いた。「体罰」の問題ではない。これはアルジェリアのテロ事件に際して、菅官房長官が言っていた言葉。僕は、「あれ、こんなことを言っていいのかな」とその時に思った。これでは「テロを強行鎮圧したアルジェリア当局への批判」にもなってしまう。第一、自民党は「自衛隊を国防軍にする」と公約に掲げていたのだから、「暴力は何があっても許されない」と言ってしまうのはおかしいはずだ。ところで、この言葉はどうも官房長官のアタマの中では、テロ組織に対してだけ言っていたものらしい。「正しい側」=「政府側」の使う「実力行使」は、「暴力」とは言わないという大前提が脳内にあるわけだと思う。

 ところで、「暴力」というのは「他者の身体や財産に対する物理的に破壊する力」だとウィキペディアに書いてある。さらに最近は「精神的な暴力も暴力と認知されるようになっている」とある。当然のこととして、テロ活動も「暴力」なら、「テロ鎮圧」も「暴力」である。ただし、国家の行使する暴力は法的追及の対象にならない。国家権力の行使そのものである。僕はだから「どっちもどっち」と言いたいのではなく、「暴力の強制力」というものがどういうものかをもっと考えてみたいということだ。人質を取って要求を突き付けるのは、もちろん暴力。ところで、アルジェリア事件の場合は、南隣のマリに対するフランス軍の介入と言う出来事が直接のきっかけとなった。このフランス軍の行動も暴力である。もっともイスラム勢力がマリ北半部をいつの間にか支配しているのも、暴力による支配だろう。マリではないが、ナイジェリアの北部ではイスラム勢力とキリスト教勢力が暴力的にぶつかって、テロ事件が頻発している。(ナイジェリアは世界有数の産油国だし、アフリカの大国だから、この問題は非常に重大な注目が必要である。)

 このようにアルジェリア問題から見えてくるのは、「暴力の連鎖」が続いてしまうという世界の厳しい状況である。ある時代まで、国家権力というものは「むきだしの暴力」で国民を支配してきた。例えば「万葉集」にある山上憶良の「貧窮問答歌」みたいに、暴力的に税を徴収していたわけである。(もっとも「貧窮問答歌」は必ずしも事実そのままではないとされてきているようだが。)マリ北半部を支配している勢力は、選挙によって選ばれたわけではなく、リビア等から流れたといわれるが、武力をもって事実上の独立状態を作ってしまった。こういうものは、国際的には「支配の正当性」があるとは認められないだろう。日本は、選挙によって成立した政権が選挙によって交代したわけで、安倍政権に「正当性」が存在する。前の野田政権のときに「社会保障と税の一体改革」として消費税アップが決まったけれど、政権が交代したとはいえ、国会で通っている以上、その増税にも正当性がある。皆で選挙し、選ばれた議員が国会で決めて税金を集めているのだから、前近代の年貢の時代ではない。

 そうは言っても、いまだって税の徴収には「強制力」がある。脱税すれば犯罪である。払わないと様々に国家権力が追ってきて、滞納してれば「差し押さえ」になってしまう。そういう風に、「強制力」が発生して「自由選択」が不可能になるのが、そうされる側からすれば「暴力」として機能するわけである。国会で決めたから正当性のある税金だけど、「払わないと犯罪になる」という決まりもあるから、そういう「脅し」で払わせているわけだ。だが現代では、その「脅し」と言う強制力が、「むきだしの暴力」によってではなく、「納得と了解」を得る形で進む。我々は、税は必要だし法で決まってる上、脱税と言われるのも困るわけで、税を「自発的に払う」ことの方が多い。だから、現代では民主主義の体制のもとで、ものごとは「納得と了解」を得る形で進むが、その背景にはやはり「暴力」=「選択の不可能性」と言う現実があることが多いのである

 僕たちは様々な自由を保障されているが、特に「経済活動の自由」が根本にある。会社で生産するのも自由だし、消費者が製品を選ぶのも自由である。休日にデパートに出かけるとする。何かを買うも買わぬも自由であるが、お腹はすくので昼か夜を食べることにする。蕎麦でもいいし、パスタでもいいし、カレーにしようか…。こうして僕たちは自由の中で暮らしているように思うわけだけど、でも今蕎麦かパスタかカレーと書いたのは、自分の選択に多いからだが、デパートという設定にしている以上、デパートの上には天ぷら屋とか鰻屋もある。でも、僕は高いからいかない。鰻は好きだけど、ずいぶん食べてない。もちろん車やマンションじゃないから、その気になれば食べられるけど。大体デパートがあるような町だったら、近くにマクドナルドや吉野家もあるはずだし、コンビニなら確実に一つは見つかるだろう。そっちにすれば、ぐっと安くなる。何が言いたいかと言うと、僕らは自由で民主的な社会に暮らしているけれど、そのときの自由と言うものは、「貨幣に支えられた自由」であって、お金がない人がデパートに行っても楽しめない。この「貨幣の偏在という選択不可能性」は、人間にとっては「暴力」として働くということだ。最終的に暮らしが立たないところに追い込まれれば、家を失い「ホームレス」化するし、人とのつながり、社会とのつながりを失ってしまう。そうして健康を失い、生命まで奪われてしまうとなると、もう直接的に生命・財産を奪う暴力というしかない。

 こうしてみると、テロも暴力で、鎮圧も暴力だが、どちらが正しいという以前に、ある国は貧しさから抜け出せないと人々が考え、ある国は豊かな社会に生きているという状況そのものが「暴力」なのではないか。貧しい国の人々が、自国の地下資源が「豊かな社会」の豊かさを増すために使われること自体を、それが正当な商取引であるにもかかわらず「本源的な暴力」だと認識することはないだろうか。僕はそういうことまで考えると、世界は「憎悪と暴力」という「選択不可能性」が広がっているのではないかと認識せざるを得ない。

 「貨幣の偏在による選択不可能性」と言っても、では「お金があれば何でもできる」のかと考えると、「お金で出来ることは、お金で何とかできることだけ」である。お金をかけて若さを買うことはできるが、老化と死を永遠に防ぐことはできない。そういうことを考えると、「自分が生まれたという事実」「自分の性別や民族」「自分の親」などは、どうやっても変えられない、本質的に選択不可能な事柄である。だから、我々には「完全な自由」などと言うものはなく、ある意味では、「生まれてしまうという暴力」でこの世に誕生した。多くの場合は望まれて生まれるわけで、「世界への祝福」として生を得たのだろうが、子ども本人が選んで生まれることはできない。子どもは自分の親を選べず、自分の家庭環境や才能や容姿なんかを選べない。少しは変えられるけど、根本は変えられない。多くの人は何となく、いつのまにかそういう自分と折り合いをつけ、仕事や家庭を持って自分に自信を持って生きて行くんだろう。でも「まだ何者でもない」青少年の時期だと、自分がそのまま周りの人間の中に放り込まれてしまい、「自分は一体何なのだろう」と思うことがある。そういう時に「自分が生まれたこと自体が間違い」「自分の存在価値はない」などと思い込む。そうすると自殺と言う選択を取ってしまうかもしれない。自分が生まれたこと、自分の家の経済や自分の性格などは変えられないけど、「自殺と言う手段なら、自分の選択可能性を手にできる」と思うこともあるだろう。

 「体罰」や「いじめ」の問題から「暴力」を考えている。今まで関係のないことを書いているように思うかもしれないが、そうではない。学校で「いじめ」で自殺する生徒がいたり、「体罰」に苦しむ生徒がいるのは大問題だが、「いじめ」や「体罰」を無くせばそれだけでいいのか。若い時期には「自分が存在するだけで、辛い」と思っている人もいる。自分の人生には何の楽しいこともなく、「生きているだけで暴力にさらされている」と感じているのではないか。単に「いじめ」「体罰」を無くしましょうと言うキャンペーンに止まるではなく、生徒一人ひとりの「自尊感情」を高める教育を行うことが大切だ。そのためには「生徒の納得と了解」の領域を広げていく試みがなければならない。最大の「暴力」は、生徒の意向を無視して「親と教師で生徒の進路を決めてしまう」という場合だろう。その過程で現実の物理的暴力は振るわれていないとしても、それは生徒に取っては「暴力」として機能してしまう。学校と言う場所は未熟な未成年を集めて成立しているから、様々な問題も起こる。生徒同士、教員と生徒の間の「暴力」も起こるわけだが、生徒は「人間存在としての本源的暴力」にさらされているということを社会の側が認識していることが大切だと思う。
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