尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ポトフ 美食家と料理人』、究極の美食映画

2024年01月12日 22時41分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランス映画『ポトフ 美食家と料理人』は僕が見てきた映画の中でも極めつけの美食映画だ。「美食映画」なんてジャンルはないけど、料理が出て来る映画は多い。食事シーンにまで広げるなら、出て来ない映画の方が少ないだろう。しかし、日本の『土を喰らう十二ヶ月』なんかは、美食じゃなくて「粗食映画」という感じだった。それが悪いわけじゃないが、見てるだけで満腹する映画、美味しそうな香りが客席まで漂ってくるような映画としては、これがベストじゃないかと思う。

 ベトナム系フランス人監督のトラン・アン・ユンが2023年のカンヌ映画祭監督賞を受賞した映画である。監督はパリ育ちということだが、これほど完璧に19世紀末フランスを再現したのは驚き。原題は「La Passion de Dodin Bouffant」で、1924年の小説が原作だという。美食家で有名レストラン経営者のドダンブノワ・マジメル)という人物の料理への情熱を描いている。彼は今では森の中の館に住んでいて、料理人ウージェニージュリエット・ビノシュ)が彼のレシピを完全に実現するのである。冒頭から30分ぐらい、ドダンが友人たちを招く午餐会のシーンである。その間ずっと料理しているウージェニーたちをカメラは追い続ける。

 ある種のドキュメンタリー映画でもあり、最初はちょっとカメラがうるさく感じられるぐらい。キッチンのあちこちで進む調理過程を追うとともに、料理人の方も映し出す。そこで作り出される料理の数々、舌平目のクリームソース、当時創作されたばかりのパイ詰め、仔牛や鶏、ザリガニや数々の野菜などの食材、ハーブやスパイス各種が完璧に再現される。三つ星レストランのシェフ、ピエール・ガニェールが監修していて、実際に作って実際に食べている。多くの料理映画では、レストランを開くとか、なんとか客を増やしたいとかのドラマの方がメインである。しかし、この映画は実際に美食を作って食べること自体を描くのである。

 もちろんドラマがないわけじゃなく、一つはドダンとウージェニーの関係。20年以上料理を続けていて、二人の間には愛情が芽生えている。ドダンは今まで何度も求婚しているらしいが、自由でいたいウージェニーはやんわりと断り続けてきた。(もっとも性的関係は受け入れているようである。)ところで、ウージェニーは時々台所で具合が悪くなることがある。それを含めて二人の関係はどうなるのか。ウージェニーのジュリエット・ビノシュは三大映画祭すべてで女優賞を獲得した大女優だが、ドダンのブノワ・マジメルはそんな人いたなという程度。映画『ピアニスト』でカンヌ映画祭男優賞を得ている。この二人は1999年に『年下のひと』で共演した後で交際が始まり、女児まで生まれたものの破綻したという。そんな二人の息の合った名演である。
(ドダンとウージェニー) 
 もう一つが「ユーラシア皇太子」の晩餐会である。ユーラシアがよく判らないけど、多分原作にある架空の国なんだと思う。美食家の評判を聞いて是非招待したいとなり出掛けたが…。8時間にも及ぶ3部に分かれた大晩餐会。しかし、戻ってからドダン初め仲間たちは、やり過ぎで満腹しただけ、何もかも出すのでは真の美食家ではないという批判が飛び交う。そしてドダンは返礼の晩餐会を企画して、そのメインメニューを「ポトフ」にすると決める。フランスの大衆料理であるポトフは果たして晩餐会のメインになるのか。いろいろと試行してみるが、なかなかうまく行かない。そしてウージェニーが病床につくことになって…。
(トラン・アン・ユン監督)
 トラン・アン・ユン監督(1962~)ももう60歳を超えている。読み方は「チャン・アィン・フン」の方がより正しいらしいが、日本ではトラン・アン・ユンが確立しているだろう。12歳で戦争を逃れて両親とフランスに移住したという。1993年に『青いパパイヤの香り』でカンヌ映画祭で新人監督賞を受賞して一躍世界に知られ、1995年の『シクロ』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を得た。日本で公開された2作品は確かに魅力的だったが、作品数が少なく低迷感もあった。2010年に『ノルウェーの森』を監督している。今回の『ポトフ 美食家と料理人』は久方ぶりの会心作だ。

 中国とフランスに支配されたヴェトナムは世界屈指の美食の国だと言われる。そういう歴史も反映しているのかもしれない。料理映画としては、ジュリエット・ビノシュ主演の『バベットの晩餐会』が素晴らしいと思う。他にいろいろとあるが、美食度と調理過程をじっくり見せる点では、この映画が一点抜けていると思う。ただフランス料理のこってりした味わいやワインが苦手な人は見ていて大変かもしれない。僕も少し満腹し過ぎた感もある。『かもめ食堂』や『土を喰らう十二ヶ月』が懐かしくなるところもある。なお、モーツァルトに「絶対音感」があったように、料理に関しても「絶対味覚」があるらしい。深い味わいを出すスパイスが全部判るような舌を持つ人である。ホントかな。
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「道の駅」を防災拠点にー能登半島地震から10日

2024年01月11日 22時45分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 能登半島地震では石川県を中心に多くの観光、文化施設も大きな被害を受けた。兼六園は1月5日から再開したと出ていたが、隣接する金沢城公園は閉鎖しているとある。近年高い人気を誇ってきた金沢21世紀美術館も臨時閉館している。能登半島地域でも、もちろん文化施設は壊滅的な状況になっている。仲代達矢主宰の無名塾が作った能登演劇堂も閉鎖しているし、金沢城と並んで日本百名城に選ばれている七尾城も立ち入らないようにと告知されている。「輪島の朝市」の場所は周知のように火事で焼失したし、有名な「千枚田」も地割れが生じていて、今後も続いていけるかどうか非常に心配だ。
(千枚田の被害)
 さて、このような観光地(能登国定公園に指定されている)の場合、自分もいつ観光客として被災するかもしれない。能登半島ではかつては輪島や珠洲まで鉄道が通じていたが、とっくに廃線になっている。かろうじて七尾市の和倉温泉まで七尾線が残っている。となると自家用車、レンタカー、バス(観光バスも含め)などで観光することになる。その時に休むところとして「道の駅」がある。全国で1209箇所も整備されている。この「道の駅」を防災拠点として整備するべきだ寺島実郎氏が書いていて、なるほどなと思った。もっとも調べてみると、それは政府もすでに考えていて、今回も「道の駅」が避難所になっているところもある。
(「道の駅千枚田ポケットパーク」から見た千枚田)
 石川県には29も「道の駅」があり、能登半島にも多い。ちょっと書き出してみると、輪島市4(千枚田ポケットパーク、赤神、輪島、のと里山空港)、珠洲市3(すず塩田村、狼煙、すずなり)、七尾市4(いおり、なかじまロマン峠、のとじま、能登食祭市場)、能登町1(桜峠)、志賀町2(とぎ海街道、ころ柿の里しか)、穴水町1(あなみず)、中能登町1(織姫の里なかのと)と能登半島には「道の駅」がずいぶん作られている。
(「道の駅すず塩田村」)
 もっとも「道の駅」にも大小があり、あまり大きくないところもある。だがその地域の中では一番トイレが充実していることが多いと思う。日本各地にたくさんの郷土博物館とか美術館などがあるが、入っても他に見物客はいず、トイレに行っても男子用小が2つ程度というところが多い。公民館なんかは入らないから知らないけど、地元の東京だってそれほどトイレが多くはない。それに比べて「道の駅」はきれいなトイレが整備されていることが多く、安心して利用出来るのである。
(「道の駅能登食祭市場」)
 「道の駅」は1991年に実験的に3箇所が作られ、正式には1993年から全国に整備されてきた。従って2023年で30周年になった。今では有名な「道の駅」そのものを目的に旅行する人もいるし、海外にも広がっている。Wikipediaを見ると、「道の駅」に登録出来る条件として「無料で利用できる十分な容量の駐車場と清潔な便所(トイレ)があり、それらの施設がバリアフリーの経路で結ばれていること」「「子育て応援施設」としてオムツ替え台や授乳スペースなどのベビーコーナーを備えていること」等が定められている。そして、東日本大震災後には防災機能の充実が定められ、「広域防災拠点として、建物の耐震化や無停電化のための非常用電源の設置、衛星電話設備の整備を行う防災道の駅」として39箇所が指定されたという。

 今回の災害を見ていて、当然当初の揺れによる家屋倒壊、大きな津波、火災などから逃げないと行けないわけだが、どんな大地震、あるいは集中豪雨、火山噴火などでも全住民が亡くなるわけではない。生き残って避難所に行くわけだが、まあ「」と「食料」と「電気」が大切である。それは誰でも知っているわけだが、その後「トイレ」という大問題が起きるのである。今はトイレも水道、下水道、電気がないと使えないわけだ。大昔の汲み取り便所なんて日本中どこにもないんだろう。それを考えると、地方でもっともトイレが整備されている「道の駅」の役割は大きいと思う。

 しかし、電気は自家発電や大規模な蓄電施設などで当面の間は賄えるかもしれないが、水道の供給が止まるとなかなか難しい。そこまで整備するのはなかなか難しいかもしれないが、仮設トイレを作るとしても「道の駅」は広いから役立つだろう。公民館、学校なども大切だが、「道の駅」を防災拠点として整備することは今後もっともっと重要になってくるのは間違いない。
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岸田首相と山本太郎、現地視察をめぐる問題ー能登半島地震から一週間②

2024年01月10日 22時40分18秒 | 政治
 岸田首相13日に能登半島地震の被災地を訪問する意向だという。岸田首相の現地視察が遅いのかという問題を考えたい。今回は自衛隊の派遣も「逐次投入」で遅いという批判がある。事実評価の判断は難しいと思うが、自衛隊のことはちょっと置いて首相の問題に絞る。実は今までの大震災と比べて、今回の首相訪問が遅すぎるのは事実である。

 それは1月10日東京新聞掲載の斎藤美奈子のコラムに明示されている。それによれば、阪神淡路大震災(1995年)の村山首相は、2日後の1月19日に現地を視察した。村山首相の対応は遅いと当時批判されたかと記憶するが、2日後には現地に行っているのだ。新潟中越地震(2004年10月23日)では、小泉首相が現地を視察したのは3日後の26日である。熊本地震(2016年4月16日)では、14日に強い地震があり安倍首相は16日に現地入りを予定していたが、その16日未明に「本震」が起こって延期され、結局23日に現地入りしたという。そして、もちろん2011年3月11日の東日本大震災では、菅直人首相が12日に原発視察を強行し、その後三陸沿岸も上空から視察した。その結果翌13日に首相から自衛隊派遣人員を10万人態勢に強化するよう指示があった。
(阪神大震災を視察する村山首相)
 東日本大震災を除いて、僕も詳しい日時は忘れていた。多くの人がそうだと思う。日時が確かなのか確認したところ、その時点の報道写真がネット上ですぐ見つかるので間違いない。一方、東日本大震災の菅直人首相の原発視察は記憶しているが、それは当時から毀誉褒貶がある。自民党は批判したし、保守的な評論家などは今も強く批判していると思う。僕が思うに、自民党には2011年の記憶だけ残っていて、「自縄自縛」になっているのではないか。震度7レベルの大地震が起きた時には、首相は出来るだけ早期に現地を見に行ってきたという「政治の知恵」を忘れているのだと思う。
(原発事故を視察する菅直人首相)
 今回岸田首相の現地視察が遅れている原因は幾つか考えられる。お正月に当たって、現地の自治体も被害規模に応じた情報収集が遅れた。2日夕方に羽田空港で日航機と海上保安庁機が衝突する事故も起きた影響もある。正月の用事も立て込んで、なかなか現地入りの日程確保が難しいのも確かだろう。だが、防災担当相が誰かすぐに言える人がどれだけいるだろう。(松村祥史参議院議員である。)政治からの発信が弱いのは間違いない。僕はやはり岸田内閣の支持率低下安倍派裏金問題などが影響している気がする。例えば、現地入りした日に捜査が大きく進展したりすれば、現地でも記者の質問はそっちに集中してしまう。
(熊本地震を視察する安倍首相)
 また岸田首相は「保守派」の批判を気にしているんじゃないかと思う。支持率が下がって、無党派層の多くは離反している。一方、「超保守派」の中には安倍首相が亡くなり、安倍派も解体の危機にあり、もう義理は済んだ的な思いもあるらしい。岸田内閣の政策を批判する保守派も増えているらしい。保守派なら自衛隊が災害救助で活躍することは大歓迎だろうと思うと、東日本大震災の時に自衛隊を大々的に動員したことに批判もあった。「本来業務」である「国防」に影響を与えてはならないということだ。中国や北朝鮮に備える自衛隊員を災害救助に動員して、「国防体制」に隙を見せてはならないと考える人もいるのである。
(1月5日の与野党党首会談)
 さて、そんな中で「れいわ新選組」の山本太郎代表が1月5日に能登町を視察していたという。この問題をどう考えるべきだろうか。その前提として、石川県は交通渋滞を避けるため県外からの訪問を避けるように発表していたこと、5日の与野党党首会談で「当面の訪問は自粛する」という申し合わせを行っていたことがある。ただし、この与野党党首会談は上記写真のように、自民、公明、立憲民主、日本維新の会、共産、国民民主の6党首が参加していた。この写真は山本太郎議員を激しく非難している「維新」の音喜多駿議員のブログに出ていたものである。だが、「れいわ新選組」はこの会談に呼ばれていない。国会の正式機関で議決されたわけでもないから、呼ばれてない政党を拘束するものではないだろう。

 首相動静を見ると、与野党党首会談は5日午後3時1分から開かれている。時間的にも間に合わない。ただ、山本太郎氏はこの日はケガをして、松葉杖だったという情報もある。それなら無理をして行くのはどうなのかという問題はある。僕は何も山本太郎を絶対に擁護するつもりはないんだけど、ただ「国民は行ってはいけない時期」みたいな言い方はおかしいと思う。むやみに皆が行ってもジャマになるだけだが、国会議員は「一般国民」ではない。上でも下でもなく、「われわれ日本国民の代表」である。「れいわ新選組」を支持しない人にとっても、当選した国会議員は自分たちの代表である。岸田首相を支持しない人にとっても、日本国の行政権の代表者は岸田首相である。
 
 ただの市民は遠慮するべきだろうが、代わりに「われわれの代表」は行ってもよいだろうし、むしろ「現地に出掛ける義務と権利がある」と思う。国会議員が国民の代表という意識がない人が多いのか、実際とんでもない議員が多いからか、民主主義の原則を踏まえてない議論はおかしい。それにやはり災害はそれぞれ違った側面があり、「実際に見る」ことで判ることは大きい。現地の行政担当者も、直接首相に要望を届けられるチャンスは欲しいのではないか。首相が来られなければ、他の国会議員でもよい。

 僕はこの地震をきっかけにして、岸田首相がテレビなどに出突っ張りになって、支持率低下に歯止めが掛かるのではないかと想像していた。しかし、どうもそうでもないようだ。僕はその与野党党首会談をやっていた1月5日の午後が現地訪問のチャンスだったんじゃないかと思う。党首会談とその後の経済三団体新年会を欠席するのである。これが出来れば、党首や財界より被災者を優先したというメッセージに出来たはずだ。そういう判断を出来る体力がもう内閣に残されていないのかもしれない。
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能登半島地震から一週間①ー様々な「想定外」だったけれど…

2024年01月08日 22時31分42秒 | 社会(世の中の出来事)
 2024年1月1日、よりによって元旦に起きた「能登半島地震」から、一週間経った。1月8日夜8時時点で、ネット上では、死者168人、安否不明323人と報道されている。能登半島では2020年12月以来群発地震が起きていたが、この地域には火山はなく地震の原因は「流体の上昇」などと言われていた。2023年5月5日に、マグニチュード6.5、最大震度6強の地震が起きたのを覚えている人も多いだろう。しかし、結局今回の大地震はやはり「断層が動いた」ことで起きたらしい。マグニチュード7.6とされている。

 「マグニチュード7.6」と言われてもよく判らないかもしれないが、これは非常に大きな地震である。もちろん東日本大震災のマグニチュード9.0という超巨大地震とは比べられない。だけど、阪神淡路大震災(1995年)はM7.3、新潟県中越地震(2004年)はM6.8、熊本地震(本震、2016年)M7.3なので、今回の方が大きいのである。一番被害を受けた(と思われる)輪島珠洲(すず)が震度7じゃなかったので、震度7を記録した(原発がある)志賀(しか)町が一番揺れたように思ったけれど、壊れ方を見ると輪島などでの震度7があったかもしれない。震度計が正確に動いていたかという問題がある。

 同じことは津波にも言える。大津波警報が出て、数メートルに及ぶ巨大津波が来ると恐怖を感じたが(2011年のことが思い出されて)、その割に大きな津波にならなかった印象があるのではないか。もちろん大きな津波が来て被害はあったし、行方不明者も出ている。テレビを聞いて逃げたという報道もあるので、今までの経験が生かされたのも間違いない。ただ日本海の対岸でも相当の津波があったので(韓国で80㎝らしい)、震源間近の能登北部で津波が1~2メートルのはずがない。それは地震による地面自体の隆起があった影響があったのだと思う。輪島や珠洲は2メートル程度、最高では4メートルも隆起したというから、地面が高くなっただけ事前予報ほどの高さの津波にならなかったと思われる。(珠洲の津波計は壊れたという。)
(津波)
 これだけのマグニチュードの地震が近いところで起きたのだから、家屋倒壊の被害が一番多いのも当然だ。阪神大震災型の地震である。その後耐震基準が変更されたわけだが、それ以後に建築された家でも倒壊があると言われる。詳しくは今後の調査が待たれるが、今までの地震、特に去年5月の地震でダメージを受けていた影響が大きいと思う。一部損壊では自治体からの補助がなく、また高齢化進行地域で経済的問題もあるし、建設業界の人手不足もあって、修理をしないまま正月を迎えた家が多いという事情があったらしい。しかも正月真っ只中で、帰省中の家族が集まったりしていたのである。
(倒壊した家屋)
 帰省中や旅行中の人がいて、避難所は受け入れ予想を大きく超えた人数を受け入れたとされる。そのため備蓄した食料や水が早めに不足してしまった。今後は大雪も予想されるので、仮設住宅建設などが進む段階ではないだろう。むしろ寒い避難所で感染症が広がり、高齢者に多くの犠牲が出る可能性もある。ここは大胆に「二次避難」を進めるしかないと思う。過去に伊豆大島や三宅島、あるいは原発事故で避難したときのように、大規模な住民避難を行った方がよいのではないか。これは政府も考えているようだけど、他県でもよいし、条件が出来てくれば石川県内の温泉旅館などを大々的に借り上げることも検討するべきだ。

 特に山間部の集落が孤立し、まだ情報が不明なところもあるらしい。輪島市長も道路が寸断されて市役所へ行けたのは3日だったという。さらに通信網も不通で、携帯電話が通じないという。電気が停まればテレビやパソコンも見られない。スマホの充電もいずれ切れる。日本の自然的、社会的条件から、このような高齢者が残る山間集落が大きな被害を受ける災害は、今後もっと増えるだろう。ここは「ドローン」の出番だと思うんだけど、何故無いんだろうか。「空飛ぶ車」なんか要らないから、水や食料を運べるドローンを開発することは日本に必要だろう。軍事費を増やすより、そういう開発に予算を掛けて欲しいと思う。

 今回は様々な「想定外」が重なって、予想以上に多くの被害が起きている。阪神や熊本以上の規模の地震なんだから、大災害が起きることは当然だが、その後の対応には不十分なことも多いのではないか。津波警報など「東日本大震災」の教訓が生かされた点もあるが、全体的には問題点が多いような気がする。それらの問題点は今後も考えて行きたい。

 ところで、僕は特に救助などのスキルがある人以外は、普通の生活を送っていればよいと思っている。救援や復興は税金でやるのに、皆が自粛していたら税収が減るばかり。「ふるさと納税」は以前何回か書いたように、制度自体がおかしくて反対。返礼品も用意出来ないだろうし。それに自分が住んでる自治体の福祉や教育に必要なお金を被災地に回すという発想そのものが理解出来ない。「善意」でやるのなら、幾つもある募金に送ればよい。
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『和田誠 映画の仕事』展と静嘉堂文庫美術館

2024年01月07日 22時21分35秒 | アート
 国立映画アーカイブで、ネオレアリズモの傑作『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)の修復版を見た。前に見ているが、ロケ映像が見事に蘇って見ごたえがあった。今回はその話ではなく、その後で7階の展示室に行って『和田誠 映画の仕事』を見たので、そっちを。和田誠さんのことは、亡くなった時の追悼(『和田誠さんを追悼して』)や大規模な和田誠展(『和田誠展を見に行く』)など、今まで何度も書いてきた。若い頃から見たり読んだりして影響を受けてきた。
(絵は『巴里のアメリカ人』)
 以前まだ「フィルムセンター」だった頃、そこで開かれた『ポスターでみる映画史Part 2 ミュージカル映画の世界』展では、和田氏所蔵のポスターが多数展示された。和田さん自身が解説するのも聞きに行ったが、調べてみると2015年3月14日のことである。ポスターを解説して回る和田さんの姿が目に浮かぶが、もう亡くなってしまった。さて、今回は『映画の仕事』と題されている。いろいろと展示されているが、主に2つ。一つは営々と描き続けた映画のポスターである。これは日活名画座などで描いた主にアメリカ映画のポスターと、『台風クラブ』や『二十世紀少年読本』などの日本映画の公開用のポスターである。
(チラシ裏面)
 なんと言っても楽しいのは、昔の映画のポスターだ。新宿の日活名画座で無償で描いていたもので、前に見てるものも多いけどとても楽しい。元の映画や映画スターを知ってるほど楽しめる。デフォルメされていて、誰だろうという人も多いけど。それにしてもヨーロッパ映画はほとんどなく、アメリカ映画が圧倒的に多い。西部劇やミュージカルも多いわけだが、思い出を読むとビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』と『アパートの鍵貸します』が大好きだったとある。ヨーロッパ巨匠のアートより、ハリウッドが一番元気だった頃の洒脱が好きなのは、和田誠の全仕事に通底するものがある。
(『和田誠 映画の仕事展』)
 もう一つは映画監督和田誠である。和田誠はついに映画監督に進出し、1984年に阿佐田哲也『麻雀放浪記』を完成させた。ちょうど多忙な時代で見逃してしまったが、後になって見たらこれが凄い傑作だった。今回小ホールで上映されるので、見てない人も、もう一回見たい人も是非。ポスターももちろん本人が描いてるが、それよりも絵コンテとか製作ニュースなど貴重なものが出ている。また1970年の羽仁進監督『恋の大冒険』の資料も貴重だ。これは監督作じゃないけど、タイトルだけじゃなくアニメを取り入れたり、脚本(山田宏一、渡辺武信)にも加わっているという。また、初のアニメ短編『MUEDER』が場内で映されている。ところで、最近『怖がる人々』『真夜中まで』の上映機会が少なく、今回もやらないのは残念。
  
 その後、国立映画アーカイブからお堀端まで歩いて、明治生命館静嘉堂文庫美術館にも行った。静嘉堂文庫は三菱の岩崎家の収集品を集めたところで、以前は世田谷区の奥の方にあった。一度行ったときのことは、『静嘉堂文庫と松浦武四郎展』に書いた。2022年に明治生命館に移転し、それからは初めて。明治生命館も重要文化財の建物だが、その横から美術館に入れるようになっている。今は「ハッピー龍イヤー!」と題して、今年の干支にちなんで龍が描かれた陶器や絵が展示されている。一部に古伊万里や日本画もあるけど、ほとんどが中国のもの(景徳鎮などの焼き物)である。それはまあ素晴らしいものばかりだが、あまり関心はない。
(展示物)(橋本雅邦の重文『龍虎図屏風』) 
 橋本雅邦の『龍虎図屏風』は1955年に近代絵画の中で初めて重要文化財に指定されたというだけあって、さすがに立派なものだった。しかし立派というなら、龍とは関係ないけどやはり目玉の「曜変天目」の素晴らしさである。前も見てるけど、飽きないものだ。ところで解説を見ていたら、中国には「龍」の字を二つ並べた字があり、それどころか三つ、さらに龍の字を4つ、二段組み×2個並べた字もあるとのこと。「龍」一字だって結構面倒なのに、それを四つも重ねるとは。一番画数が多い字らしい。ここは地下鉄千代田線二重橋前駅に直結していた。映画アーカイブ展示室はシニア無料、静嘉堂文庫美術館は株主招待券で入ったので、ただでアート気分。もっと歩くかと思ったら、家と駅の往復入れて9千歩ぐらいだったのが残念だった。
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サイ・エンドフィールド監督の2作ー「赤狩り」時代のアメリカ映画

2024年01月06日 22時13分46秒 |  〃  (旧作外国映画)
 シネマヴェーラ渋谷で「Film Gris 赤狩り時代のフィルム・ノワール」という特集上映をやっている。第二次大戦直後のアメリカ映画には社会批判的な犯罪映画が大量にあり、それを「Film Gris」(フィルム・グリ)と呼ぶらしい。ほとんどはB級犯罪映画だが、中にはアカデミー賞作品賞を取った『オール・ザ・キングスメン』やノミネートされた『十字砲火』などもある。しかし、それらは占領下の日本では公開されず、この時期のアメリカ文化受容に欠落が生じることになった。この手のB級犯罪映画は大好きだし、赤狩り時代のアメリカにも関心がある。貴重な機会だから何本か見に行ってみた。

 今回の特集には多くの監督の作品が入っている。その中にはジョセフ・ロージージュールス・ダッシンのように、アメリカを捨ててヨーロッパで映画を作り続けて大成した監督もいる。エイブラハム・ポロンスキーのように、雌伏の後に60年代末になって再び監督に戻れた人もいる。しかし、サイ・エンドフィールドという監督は知らなかった。紹介を読むと、赤狩りでアメリカを追放されたと出ている。全く聞いたことがないんだけど、その後の作品が少しは日本で公開されているようだ。そもそも映画を見ると、クレジットが「サイ」じゃなくて、「シリル」だった。Cyril Endfield(1914~1995)である。
(サイ・エンドフィールド監督)
 日本語の紹介は少ないので英語版Wikipediaを見ると、ペンシルバニア州出身のユダヤ系移民2世で、イェール大学に入学する時に大恐慌で父の事業がつぶれて1年遅れたという。学生時代は演劇と急進的左翼運動に熱中していたらしい。そして演劇では食べていけず、夫婦でハリウッドに赴いた。当時よくある人生行路を送ったわけである。戦後になって短編映画で認められ、長編映画も任されるようになり、1950年に2本の映画で少し注目された。それが『アンダーワールド・ストーリー』と『群狼の街』である。ところが1951年になって下院非米活動委員会で名が挙り、他の人の名を答えることは出来ないと考えてイギリスに向かった。
(『アンダーワールド・ストーリー』公開時のポスター)
 『アンダーワールド・ストーリー』は特ダネ優先で書いた記事がもとで、証人がギャングに殺害された記者が主人公。新聞社をクビになり、そのギャングに金を出させて、小さな町レイクタウンの新聞社の共同経営者になる。到着した日に有力新聞社主の息子の妻が殺害される。そして黒人のメイドが逮捕されるが、地方紙の経営者は父を継いだ若い女性でメイドとも長い知人だった。犯人とは思えないと救援会を立ち上げるが、やがて有力新聞社の手が回って彼らは孤立していく。真犯人は早くから観客に提示され、正義より金で動く主人公がどうなるのかが焦点。黒人メイドも実は白人が演じているが、「ニガー」と表現されている。ラストが甘いが、有力新聞をめぐる権力の動きなどに批判的な眼差しがある。
(『群狼の街』公開時のポスター)
 『群狼の街』はラストの群衆シーンの迫力で忘れがたい映画だ。失業中の主人公は妊娠中の妻と幼い長男と抱えて、何とか仕事を探すが見つからない。ボーリング場で会った男に仕事があると誘われるが、それは強盗の運転手だった。断りたいが他に仕事もなく、引きずり込まれていく。男はついに殺人事件を起こすが、主人公はそんな成り行きを全く想像していなかった。主人公の苦悩、ついに精神的に破綻して捕まるが…。それを新聞のコラムニストが極悪人として告発し、そのため住民の怒りが沸騰して警察に押し掛け、犯人を殺せと要求する。これは1933年に起こった実話で、フリッツ・ラング監督『激怒』という映画にもなっているという。煽動の恐ろしさを描くこの作品は、明らかにマッカーシズム(赤狩り)批判に違いない。

 サイ・エンドフィールド監督は当初イギリスでも警戒されたようだが、結局送還されることはなく、やがてイギリスで映画を作れるようになった。『SF巨大生物の島』とか『ズール戦争』などの作品が日本でも公開された。演劇やテレビでも活躍したようだが、結局はあまり大きな成功を収めたとは言えない人だろう。その中で「民衆暴力」批判映画として、『群狼の街』は再評価されているという。日本で作られた『福田村事件』などとの比較検討なども必要だと思う。
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西木正明、寺尾、竹入義勝、徐京植他ー2024年12月の訃報②

2024年01月05日 21時51分10秒 | 追悼
 2023年12月の訃報。2回目は日本関係者。まず直木賞作家の西木正明が12月5日に死去、83歳。誰もが知る人気作家じゃなかったろうが、僕はずいぶん読んできた。現代史に材を取った「ノンフィクション・ノベル」が持ち味だった。「レポ船」(ソ連に情報を流すスパイ船)を扱う『オホーツク諜報船』(1980)で日本ノンフィクション賞新人賞を受けて注目され、1988年に「凍(しば)れる瞳」「端島の女」で直木賞を受賞した。心に残っているのは1994年の『夢幻の山旅』(新田次郎文学賞)と1999年の『夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯』(柴田錬三郎賞)である。前者は辻潤と伊藤野枝の長男辻まことの生涯を描いて感動的。後者は近衛文麿の長男でシベリア抑留で亡くなった近衛文隆を描き、劇団四季のミュージカル『異国の丘』の原作となった。他に『蛇頭(スネークヘッド)』『ルーズベルトの刺客』『其の逝く処を知らず 阿片王・里見甫の生涯』などがある。
(西木正明)
 元大相撲の元関脇寺尾錣山(しころやま)親方が12月17日死去、60歳。元関脇鶴ヶ嶺(元井筒親方)の三男で、長男鶴嶺山(十両)、逆鉾(関脇)と並ぶ「井筒三兄弟」と呼ばれた。小柄な体ながら闘志あふれる突っ張りで湧かせ、イケメン力士として人気があった。寺尾は母の旧姓である。1979年名古屋場所で初土俵、2002年秋場所まで長く土俵を務めた。85年春場所で新入幕、幕内出場1378回は歴代5位。殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞1回受賞。弟子の阿炎(あび)は新型コロナ対策違反で出場停止になり、処分後の2022年九州場所で優勝した。その頃から不整脈で入退院を繰り返し、その場所も休場していた。
 (寺尾=錣山親方)
 元公明党委員長竹入義勝が12月23日に死去、97歳。正直まだ存命だったのかと驚いた人も多いだろう。僕はこの人のことはよく覚えている。自分が住んでいた旧東京10区(足立、葛飾、江戸川)が選挙区だったのである。1967年に初当選以来、1986年まで連続8回当選。1回を除き、すべてトップ当選だった。1967年2月に委員長となり、1986年12月まで約20年間務めた。1970年に政治評論家藤原弘達『創価学会を斬る』をめぐる出版妨害事件で田中角栄(当時自民党幹事長)に藤原との交渉を依頼した。そこから田中との交友が深くなり、1972年には田中訪中に先立ち周恩来と日中国交正常化をめぐる調整を行った。80年代には社会党、民社党との社公民路線を推進した。ところが政界引退後の1998年に、朝日新聞に政界回顧録を連載し、党と創価学会の政教分離の実情をあけすけに語り、党、創価学会から除名されるに至ったのは気の毒で皮肉なことだった。
(竹入義勝)
 在日コリアンの作家、元東京経済大学教授の徐京植(ソ・キョンシク)が12月18日死去、72歳。70年~80年代に大きな社会問題になった「在日韓国人政治犯」問題の中でも一番最初に起こったのが、徐勝徐俊植兄弟の事件だった。徐京植は二人の末弟で、救援運動においても中心的役割を担った。その中で思索を深め、『長くきびしい道のり 徐兄弟・獄中の生』(1988)以来、多くの著作を発表した。『子どもの涙 - ある在日朝鮮人の読書遍歴』(1995)で日本エッセイストクラブ賞、『プリーモ・レーヴィへの旅』(1999)でマルコポーロ賞。僕はきちんと読んで来なかったので、ちゃんとした評価が出来ないが、上の二人が存命なのに一番若い人が亡くなったのを残念に思う。
(徐京植)
 元NHK記者で「ニュースセンター9時」初代キャスターを務めた磯村尚徳(ひさのり)が12月6日死去、94歳。この人もまだ存命だったのかと思ったが、ほとんど報道されなかったのにも驚いた。いま考えると74年~77年と3年間しかやっていないのだが、「NC9」のインパクトは大きかった。キャスターがまとめる報道番組は今では民放各社にあるが、当時は初めてで新鮮だったのである。それ以前からワシントン特派員などで知名度があったが、これ以後磯村は全国民が知るような人物となった。そのため、1991年に自民党から都知事選に担ぎ出されたが、4選を目指す鈴木俊一に敗れてしまった。その後、97年から2005年にパリ日本文化会館初代館長を務めたが、国内では忘れられた感があった。
(磯村尚徳)
 「アホの坂田」として親しまれたコメディアン坂田利夫が29日に死去、82歳。吉本新喜劇に入門した後、前田五郎と「コメディ№1」(2009年解散)を結成して漫才に転向した。2015年の安藤桃子監督『0.5ミリ』に出演していたのが思い出される。お笑いタレントでは、「ヒップアップ」で活躍した島崎俊郎が6日死去、68歳。「オレたちひょうきん族」で「アダモちゃん」を演じて人気になった。また俳優でスーツアクターの薩摩剣八郎が16日死去、76歳。84年から95年まで『ゴジラ』シリーズで着ぐるみに入って演じた。85年には北朝鮮の怪獣映画『プルガサリ』にも出演している。着ぐるみ以外でも多くの映画、テレビに出ている。 
(坂田利夫)
 女性陶芸家の草分けといわれる神山(こうやま)清子が22日死去、87歳。信楽焼で、釉薬を使わずの昔の自然釉を再現した。長男が白血病で死去し、骨髄バンク設立運動に尽力した。映画『火火』、朝ドラ『スカーレット』のモデルになった。演出家の藤原新平が17日死去、95歳。文学座で別役実作品の演出を50年にわたって担当した。僕もずいぶん見て来たが、こんな年齢になっていたとは驚いた。農民詩人として知られた星寬治が7日死去、88歳。山形県高畠町の有機農業の草分けで、農民詩人としても知られた。『かがやけ、野のいのち―農に生きる』『自分史 いのちの磁場に生きる―北の農民自伝』など多くの著書を残している。
(神山清子)(藤原新平)(星寬治)
 広島商業野球部で選手、監督として優勝した迫田穆成(さこだ・よしあき)が1日死去、84歳。6歳で広島で被爆した。1957年に夏の甲子園で優勝、67年に監督となって73年に優勝した。93年に如水館高校監督となり、同校を8回甲子園に出場させた。
(迫田穆成)
 学者ではイスラム教研究者の中村廣治郎が5日死去、87歳。『イスラム教入門』など。東洋史の池田温(あつし)が11日死去、92歳。農業経済学の暉峻衆三(てるおか・しゅうぞう)が22日死去、99歳。妻は経済学者暉峻淑子。
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イオセリアーニ、ライアン・オニール、ドロール他ー2024年12月の訃報①

2024年01月04日 22時23分18秒 | 追悼
 2023年12月の訃報特集。一般的には12月に亡くなった人をあまり思い出せないんじゃないかと思う。今回は一回で終わると思っていたが、振り返ると特に日本で「忘れられていた」(高齢により活動期から時間が経ってしまったため)訃報が結構多かった。まず外国人の訃報から。ジョージア、フランスの映画監督オタール・イオセリアーニが、12月17日にトビリシ(ジョージアの首都)で死去、89歳。2023年に日本でほぼ全作品上映の映画祭が行われた。とぼけたユーモアや人生賛歌が人気で、今後の上映も期待したい。ソ連の「グルジア」時代に作った『落葉』『田園詩』などが岩波ホールで上映され、我々はその名前を知ることになった。しかし、社会風刺の効いた作品が疎まれ、ソ連で上映出来なくなり、1979年にフランスに移住して映画を作り続けた。
(オタール・イオセリアーニ)
 フランスに移っても作風は全然変わらず、『蝶取り』(1992)『素敵な歌と舟はゆく』(1999)、『月曜日に乾杯!』(2002)、『ここに幸あり』(2006)など、人生を肯定する映画を作った。深刻にならず、好きなように生きる人物を描くことが多く、それが理想だったんだろう。その反面、登場人物のドラマ的な葛藤には乏しく、計算された映像でつづる詩のような作品が多い。2010年の『汽車はふたたび故郷へ』で自伝的にジョージア時代を描き、2015年の『皆さま、ごきげんよう』は再びパリの人々を温かく描き遺作となった。まあ、作風が似てて飽きるところもあるが、ほのぼのしてて気持ちが晴れる。
(イオセリアーニ監督『落葉』)
 アメリカの俳優ライアン・オニールが12月8日に死去、82歳。もうほとんど70年代の人で、昔の人気を知らない人が大半だろう。テレビで活躍後、70年に大ヒット作『ある愛の詩』(Love Story)に主演した。「アメリカン・ニュー・シネマ」全盛期に真逆の大恋愛+難病ドラマが大受けしたのである。オニールの「愛とは決して後悔しないこと」というセリフも有名。(なお、「詩」を「うた」と読ませるのもこの邦題から。)続いて、娘のテイタム・オニールが10歳でアカデミー賞助演女優賞を獲得(最年少記録)した『ペーパー・ムーン』(1973)、キューブリック監督の大作『バリー・リンドン』(1975)の18世紀ヨーロッパを渡り歩く主人公などで知られる。その後は度重なる恋愛遍歴や闘病(白血病やガン)が話題になった。21世紀になって、テイタムが自伝を発表し父親に虐待されたと告発したが、子どもたちは薬物中毒で苦しむことが多く、父親の責任を否定出来ない。
(ライアン・オニール)
 俳優では韓国のイ・ソンギュンが12月27日に死体で発見された。薬物疑惑が取り沙汰されていたため自殺と見られている。48歳。『パラサイト 半地下の家族』で、主人公一家が取り入る社長を演じていた人である。他に映画『キングメーカー 大統領を作った男』、テレビドラマ多数。
(イ・ソンギュン)
 イタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリが12月15日死去、90歳。アメリカの哲学者マイケル・ハートとの共著『〈帝国〉』や『マルチチュード』でグローバル化時代に多国籍企業や国際機関が権力を持つ世界秩序を論じて、大きな影響を与えた。一方で、1979年にモロ元首相暗殺事件などテロ事件の指導者とみなされ逮捕・起訴されたことでも知られる。事件への直接的関与はなかったものの、過激な言論活動の責任に関して有罪となった。1983年に獄中立候補して国会議員に当選、不逮捕特権で釈放され、フランスに亡命して活動した時期もあった。マルクスやスピノザの研究者としても知られ多くの邦訳もあるが、全然読んだことはない。
(アントニオ・ネグリ)
 フランスの政治家ジャック・ドロールが12月27日死去、98歳。フランスのミッテラン政権で財務相などを務めた後、1985年から95年まで欧州委員長となり、欧州単一通貨「ユーロ」導入を進めて「ユーロの父」と呼ばれた。93年には欧州連合条約が発効し、EU(ヨーロッパ連合、それまではヨーロッパ共同体=EC)となった。ヨーロッパ統合に夢を求めた時代の代表的政治家である。
(ジャック・ドロール)
 アメリカ初の女性最高裁判事サンドラ・デイ・オコナーが1日死去、93歳。1981年にレーガン大統領によって指名され(上院で承認)、2006年に引退するまで務めた。それ以前はアリゾナ州議会議員やアリゾナ州裁判所判事などをしていた。最高裁内では次第に保守派から中間派に移り、キャスティングボートを握ることが多かったとされる。
(サンドラ・オコナー)
ファニータ・カストロ、12月4日没、90歳。キューバ革命指導者のフィデル・カストロ、ラウル・カストロの実妹で、7人の兄弟姉妹の中でただ一人革命反対派となり、1963年にアメリカに亡命した。
ロバート・ソロー、12月21日死去、99歳。アメリカの経済学者。1987年にノーベル経済学賞。ハーバード大学でサミュエルソンと共同で研究した。
レファト・アラリール、パレスチナの作家、詩人で、12月6日にイスラエルのガザ空爆で死亡した。44歳。ガザ・イスラム大学教授。没後に彼の詩「If I must die」(もし私が死なねばならないなら)が世界に知られるようになった。
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『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読む

2024年01月03日 22時20分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波ブックレットの『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著、岩波書店、820円+税)を読んだ。2023年7月に出たもので、評判になっていることは知っていたが、なかなか本屋で見なかった。ネットで買えばいいわけだが、できるだけ本屋で買うようにしている。高い本じゃないからわざわざネットで取り寄せるまでもない。授業で使うわけでもないから緊急に読む必要もない。偶然にある書店で新書コーナーの近くに置いてあったので、早速買ってきて読んだ紹介。

 この手の歴史評論みたいなのを読んでない人には、多少取っつきにくいところもあるかもしれない。でも同じような新書などに比べても、抜群に読みやすくて判りやすいと思う。もっとも上下2段組、115ページもあるので、結構分厚い。その代わり構成が工夫されていて、まず「ナチズムとは?」「ヒトラーはいかにして権力を握ったか?」「ドイツ人は熱狂的にナチ体制を支持していたのか?」と最初の三章で前提を押える。続いて「経済回復はナチスのおかげ?」「ナチスは労働者に味方だったのか?」「手厚い家族支援?」「先進的な環境保護政策?」「健康帝国ナチス?」と5つの具体的テーマを深掘りしていく。

 とても理解しやすく、「歴史を調べるとはこういうこと」のお手本みたいである。中で著者も言及しているが、高校の授業に教科「探求」が設置されるようになった。そこでネットを「駆使」して、一方的な主張ばかりを見つけてきて「探求学習の成果」と称する生徒がいっぱい出て来ると思われる。それに対して「歴史的文脈」をしっかりとふまえて議論することの大切さを、この本(ブックレット)ほど教えてくれるものも少ない。ナチスやヒトラーにあまり関心がない人でも、政治や経済について考える意味「学問」とはどういうものかを教えてくれるので、是非読んでみる価値がある。

 ところで、個別論に入る前に「ナチス」ではなく「ナチ」、「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」と表記するべきだと書いている。前者はナチスは複数形なので、集団じゃなく思想や運動を呼ぶときは「ナチ」がふさわしいという。また、後者は昔の教科書には「ナチ党」の訳として「国家社会主義ドイツ労働者党」とあったが、近年は「国民社会主義ドイツ労働者党」と書くことが多いという。これは自分の経験でも確かだけど、変更の理由までは考えたことがなかった。詳しくは著者の一人小野寺拓也氏の「なぜナチズムは「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」と訳すべきなのか」(現代ビジネス)がネット上にある。

 簡単に書けば、ナチはそれまでにあった「国家社会主義」じゃなく、あくまでも「民族共同体」ファーストであり、「国家」よりも「民族」なのである。だからこそ、「優れたアーリア人」の共同体たるドイツでは「劣ったユダヤ人」を排除しなければならない。国家経済的観点からは損になる場合であっても、民族共同体の純化の方が優先するわけである。そういう思想は「国民社会主義」と呼ぶべきで、そうじゃないと「ソ連とナチは同じ国家社会主義」などと粗雑な議論になりやすいというのである。
(アウトバーン)
 個別的議論を全部書いてると終わらないし、この本を読む楽しみを奪うことにもなる。いくつかだけ触れると、イタリアのムッソリーニ政権も同様だが、ヒトラー政権が経済を立て直したという議論はよくある。特に高速道路網(アウトバーン)を建設することで景気回復につながったという話を聞いたことがある人も多いと思う。そのナチ経済のからくりをこれほど簡潔に説明してくれるものはない。そもそもが借金頼りの経済運営で、さらにユダヤ人や女性労働力を奪う(女性は家庭にいるべきだとした)ことにより、失業率が改善したように見えた。例の「フォルクスワーゲン」に至っては、何十万の労働者が積立金を払ったにもかかわらず、開戦後にすべて軍用車生産に変更され一台も納車されなかったというから驚き。
(「健康大国ナチス」という本)
 近年注目されているのが、ナチの環境政策健康政策だという。僕も詳しく知らなかったので、非常に勉強になったところが多かった。そもそもナチ党の政策にはオリジナルなものがほとんどないらしい。それでも「動物保護」や「禁煙」をこれほどうたっていたとは知らなかった。ただし、である。「動物保護」を言い出しても、それは結局「反ユダヤ」なのである。目的は「ユダヤ人排撃」と「戦時体制確立」なのであって、個別的には今見てもオッと思う政策があったとしても、全体的文脈で見れば「不健全」であり、かつ戦争激化で結果を残さずに終わったことばかり。

 最後にそもそも「ナチスは良いこともした」と言う主張をする背景も検討される。それはネット内にある「反PC」(政治的公正さ)的なムードである。学者が反論しても「マウント」と批判されてしまう。だが、このブックレットを読むと、「きちんと学ぶこと」の大切さを痛感するのではないか。何もシロウトは口を出すなということではない。ネット上にはいろんな情報があるが、マジメに調べれば極端な主張をぶち上げるなんて出来ないはず。何でもマジメがベースにないとまずいという話である。
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ネタニヤフは「ヒトラー」なのかーむしろ「プーチン」だろう

2024年01月02日 22時16分33秒 |  〃  (国際問題)
 「ガザ戦争」について、あるいは「ハマス」や「イスラエル」をどう評価するか。問いが大きすぎて、なかなかまとまって書く気が起きないまま年を越してしまった。そこでここでは、年末に起こったトルコ大統領エルドアンイスラエル首相ネタニヤフの「口論」をもとに、この問題を違った観点から考えてみたい。
(左=ネタニヤフ、右=エルドアン)
 12月27日、エルドアン大統領はトルコの首都アンカラで開かれた式典で演説した。そこでイスラエルによるガザ地区への軍事作戦に関して「イスラム教徒としてわれわれはこの弾圧を止められないことを恥じている」と述べた。そして、さらに「ネタニヤフのしていることはヒトラーがしたことと何か違うのか。いや、何ら変わらない」と主張したという。ユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツのヒトラーと比べるというのは、イスラエルの指導者にとって最大の侮辱と言えるだろう。
(エルドアン大統領)
 これに対しイスラエルのネタニヤフ首相は「クルド人を虐殺し、政権に批判的な記者を投獄するエルドアンがわれわれに道徳を説けるはずがない」と強く反発した。そして「イスラエル軍はエルドアンが称賛する残忍なテロ組織、ハマスと戦っている」と主張したという。エルドアンの所属する「公正発展党」は、その前身の「福祉党」「美徳党」以来イスラム政党色は薄めているが(世俗主義を国是とするトルコ共和国ではあからさまな宗教政党は結成できない)、本質的にスンナ派の「ムスリム同胞団」との類似性が強い。「ハマス」はムスリム同胞団の組織だから、ガザ地区が大規模な攻撃を受けるたび、トルコは支援を続けてきた。
(ネタニヤフ首相)
 この「口論」に関しては、どっちもどっちというか、イスラエルにもトルコにも問題があるというしかないだろう。ただし、一番最初の「ネタニヤフがしていることはヒトラーと何が違うのか」というのを、マジメな歴史学上の疑問と考えるならば、大きな違いがあると言うしかない。ナチス・ドイツは戦場から多くの捕虜を強制的に連行してきたが、イスラエルはガザ住民を捕虜にしているわけではない。住民の生命を軽視するムチャな攻撃を続けているという意味でイスラエルは非難されるべきだが、それは戦争をしている指導者にはおおよそ当てはまる。

 イスラエルは一党独裁体制になっているわけじゃやないし、国内で人質解放を優先せよという反政府デモはひんぱんに起こっている。アラブ諸国でこれほど自由なデモが許されている国はないだろう。その意味で「ネタニヤフはヒトラーとは言えない」ということになる。だけど、エルドアン大統領も厳密にネタニヤフがヒトラーと同じだと言ってるのではなく、「歴史的に極悪認定を受けているリーダー」を引き合いに出しているだけだろう。それに対し、ネタニヤフ首相もトルコ内の言論弾圧というトルコが触れられたくない部分を指摘した。イスラエルの方が民主主義社会だと言いたいのだろう。

 ナチスによる虐殺を経験したイスラエルが、なぜガザ地区で住民を虐殺するのか。そういう問いを発する人が結構いるけど、それはむしろ「よくあること」だと思う。イスラエル国民には、歴史的経験から「自国の安全」を何よりも重視する心性が強い。それは中国共産党政権が何よりも「国家の統一」を重視して、国民の人権をないがしろにする姿勢にも通じる。日本社会だって、例えば先輩にいじめられた後輩たちが、自分が先輩になったら今度は率先して後輩をいじめるなんて、珍しいことじゃない。ナチスによる極限的な虐殺を受けたからこそ、イスラエル国民は周囲のアラブ人を信用できず「共生」より「弾圧」を選ぶのだろう。

 ところで、ネタニヤフ首相と最も似ているのは、何も歴史をさかのぼって探す必要などない。クリスマスも正月もなく(まあ、暦自体が違っているわけだが)、戦争を持続する無慈悲な指導者なら同時代にいるではないか。もちろんロシアのプーチン大統領である。トルコはNATOの一員ではあるが、ロシアとの関係も深い。ウクライナとロシアの和平を模索する立場でもあり、プーチンを引き合いに出す発想がないんだろう。でも客観的に見れば、イスラエルとロシアは似たことをしている
(ナゴルノ・カラバフから避難する人々)
 また、もう一つ重大な問題がある。それは「ナゴルノ・カラバフ」問題の無視である。マスコミの10大ニュースなどでも取り上げられていない。アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ地区で、多くの人命が失われるなどの人道危機が起きなかったからである。それは「自発的」に10万人近くの人々がアルメニア本国に避難したからだ。ナゴルノ・カラバフに住んでいたアルメニア系住民は古くから住み着いていた人々で、近年になって移住してきたわけではない。これほどキレイさっぱりと「民族浄化」が実現したことは歴史上ないのではないか。その結果、世界はこの問題を忘れている。

 アゼルバイジャンが戦争に完勝したのは、紛れもなくトルコの支援のおかげである。イスラエルがトルコを批判したいならば、この問題を取り上げれば良かったのに。イスラエルでも忘れられているのだろうか。世界各国の指導者が他国を批判する場合、大体は批判している側の国にも問題があることが多い。そう考えれば間違いないだろう。
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「大津波警報」から始まった2024年

2024年01月01日 22時21分31秒 | 社会(世の中の出来事)
 2023年12月31日、大みそかの日に何を書こうかと思って、結局何も書かず、紅白歌合戦も見ず、音楽を聞きながら本を読んでいた。それで「ガザ」も「ウクライナ」もその後の総括・展望を書かずに終わってしまった。まあ、僕は自分の頭をクリアーにするために書いてるんで、自分が何かを書いても世界を動かすわけじゃないから、また後で書いてもいいだろう。

 大みそか、元日と今年は家で過ごしたが、「相続事務」や「母の部屋の片付け」をしていた。サッカー日本代表戦(タイとの練習試合)のテレビを点けながら、その後は「笑点」から「充電バイク旅」か「芸能人格付けチェック」か、まあ、たまには民放テレビをハシゴしながら過ごそうかと思っていた。そうしたら、16時10分頃に石川県能登地方沖合で大地震が起き、その後「大津波警報」が発令された。それで全テレビ局の番組が地震・津波関連に替わることになった。

 今回は「震度7」が観測され、これは7回目のことだという。阪神淡路大震災で初めて震度7が適用され、新潟県中越地震東日本大震災熊本地震(2度)、北海道胆振地震、そして今回の能登地震である。そして「大津波警報」となると、2011年を思い出してしまうが、当時は正式にはこの名前の警報はなかった。2013年から大津波警報が正式に使われるようになったという。つまり、今日初めて発令されたのである。だからテレビ、ラジオなど放送局は今回が頑張りどころなのである。

 せっかく用意した正月特番をさしおいて、ずっと報道特別番組を放送している。休んでいた報道関係者も呼ばれたことだろう。もっともテレビ東京の充電バイク旅は早めにやっていた。それでいいのかというと、それでいいのである。先々週に石川県に行ってきたばかりで、石川県にはテレ東系列のテレビ局がないことを知っているのだ。だから一生懸命緊急特番をやっても、現地では見られないのである。旅番組は地方局にも売れているみたいだけど、やはり関東ローカル色が強いのである。
(倒壊した家)
 現時点(21時半過ぎ)では大津波警報は津波警報に切り替わり、それもあってか民放局は通常の番組に戻りつつある。被害の全容は判明していない。当然のこととして津波からの避難が優先され、倒壊家屋などの情報が伝わりにくい。ただ道路が寸断されていたり、また輪島市では大きな火事が起こっているようだから、大きな被害が起きていても不思議ではない。北陸、上越新幹線などが不通となり、石川県の空港も使えないらしい。能登半島では最近地震が頻発していたから、この地域で大地震が起きたことは意外じゃない。ただ正月早々というのは驚いた。地球には暮れも正月もないからやむを得ないんだけど。
 
 今回の報道の特徴として、英語での呼びかけもあり、「外国人にも声を掛けて避難を」と言っていた。金沢方面は今外国人観光客が多いことは、僕もちょっと前に実見している。また内外問わず能登半島を訪れていた観光客も多かったと思う。時節柄、帰省中の人も多いだろう。新幹線などは乗客を乗せたまま停まっているようだ。時間が経てばスマホの充電も切れてしまう。ある程度食料を持って乗るようにするべきなんだなと思う。
(輪島市の火災)
 いつ地震が起きても不思議じゃない国だと判っていても、普段はなかなか意識しないものだ。地震のニュースを見るたびに、「原子力発電所」の状況が報道される。いつも原発が多い地方で地震が起きる印象があるが、今回こそまさに原発地帯のど真ん中で起きた。震度7を記録した志賀町には、志賀原発がある。異常はないということだが、同じようなニュースを繰り返すたびに原発廃止が必要だなと思う。地図を見れば、東京も震度2か3ぐらい揺れたらしいが、自分は全く気付かなかった。
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