音楽の喜び フルートとともに

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婦人の指

2023-09-01 21:01:00 | ルネッサンス
オクラができました。
3年連続、筋だらけで失敗。
大きくしようと欲張ったからだめなのか?と早くとってみたりしましたが、それでも筋だらけ。
食べれなくはないですが、残念な食感。

今年はもうオクラはやめた。と、思っていたら、留守の間にオットが植えていました。
「また、あかんのちがう?」と、いったら、「大丈夫。今度はスジ無しのオクラだから。」

そうなのか?と、思いながらセッセと水をやって、ようやく収穫
ピーマンはドンドンなって、ハズレ無しなんだけどなあ!
採れました。
さあどうかな?

さて、オクラは…息子の食べたのは美味しかったそう。
私のは…残念!スジだらけ。
一勝一敗。
初めての一勝!
後一本なっているから、期待できる。

オクラはアフリカ北東部エチオピア原産日本では越冬できないため1年草です。
オクラは英語名で、語源はアフリカガーナのトウィ語のnkramaに由来します。その形状からレディースフィンガー婦人の指とも呼ばれています。

日本に入ってきたのは幕末で、昭和30年代ぐらいになって一般に広く栽培されるようになりました。


レディースフィンガーといえば
この絵
1516年頃描かれたラファエロのラ ヴェラータ


この絵の指の形が美しいとされ、ブロンズィーノのエレオノーラ ディ トレド1543年

指の形を真似ました。
パルミジャーノの長い首の聖母1535年

も指が同じ。
マニエリスムの特徴だそうです。他にもいろいろありますが、
ルネッサンスからバロックまでの間の絵画。
16世紀の絵画を尊敬し、極めようとしてなんだか変になってしまった。
「マニエラ」=手
マンネリという言葉の語源だそうです。

音楽でマニエリスムはいわれていませんが、その頃の作曲といえばアンドレア ガブリエリ(1533?-1585年
ヴェネツィア生没。

聖マルコ大寺院のアドリアン ビラールに師事します。

1557年聖マルコ大寺院


のオルガニストの座を争って敗れたために、ヴェネチア共和国カンナレジオ地区のオルガニストになりました。

1562年ドイツに行き、フランクフルトアンマインとミュンヘンを訪れます。
1566年ようやく聖マルコ大寺院
のオルガニスト

に専任され、終生その地位にありました。

独自の方法の表現を発展させ、次のバロックの音楽用式を部分的に決定づけることになり、
複合唱様式やコンチェルタート様式の発展に多大な影響を及ぼしました。

歴史的に言うと、レバントの海戦における勝利を祝した機会音楽(1571年)その他1585年天正遣欧少年使節の謁見のためにモテット(聖書の言葉を歌詞とする中世の無伴奏多声部合唱曲)を作曲しています。

後半世は教師としても有名になりました。
モテット「大いなる神秘」



古都の作曲家

2023-08-25 21:00:00 | ルネッサンス
木曜日は京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。
近くには町家を改装した家がたくさん残っています。
曲はペリローのバラード。
9月9日〜10日の伊藤公一セミナーのマスタークラスをこの曲で受講するので、また引張り出して来てブラッシュアップ。
絞られた後、プティ ル メックでパンを買って帰りました。
出町柳駅近くのお店
かわいい

出町の柳

そして葵橋からみた出町橋。
ここで終わるかと思ったら、牧野着いて、しばらく歩いたところで、また大雨!
今回はスーツケースを濡らさないように傘をさして歩いたので、楽譜は大丈夫。
代わりに上着、スカートずぶ濡れ。
脱いで乾かそうかと椅子にかけたら大きな水たまりができた!
諦めて服着替えました。
1週間に2度も豪雨に会うなんて…
やっぱりニューノーマルか?!

ジョバンニ ダ パレストリーナ(1525-1594年)イタリア パレストリーナ生まれ、イタリア ローマ没
パレストリーナに生まれ、1537年サンタ マリア マジョーレ大聖堂


の聖歌隊に名前が載っています。
ピエルルイジが本名ですが、生まれた土地にちなんでパレストリーナと呼ばれています。

この時にローマに来たと思われます。
1544-1551年サンタ ガービタ大聖堂のオルガン奏者を務めます。
ミサ曲を出版します。イタリア半島初の出版となります。

1550年パレストリーナ教区の司教は後のローマ教皇ユリウス3世

となった人物でミサ曲集に良い印象を持っていて、教皇になった時にパレストリーナをジュリア聖歌隊の楽長を指す「マエストロ ディ カペッラ」に任命しました。

パウルス4世


の時代になると状況が変化します。
カトリック教会の改革を目指し、妻帯者であったパレストリーナは教義上の理由で解雇されました。
その後、15年ほど他の教会で楽長を務めました。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂

サンタ マッジョーレ大聖堂

パウルス4世が亡くなると、1571年、サン・ピエトロ大聖堂

に呼び戻され、生涯そこで務めました。
1570年代の10年間に、身内に不幸が続きました。
1572年弟、1575年音楽家として成長していた2人の息子、そして、1580年妻をベストの大流行で失いました,
パルストリーナは落ち込み、一時は僧侶になることを考えました。

しかし、その後裕福な毛皮商人の未亡人と再婚しました。そのため、経済的な自立を得ることができ、亡くなるまで生活に困ることなく作曲し続けることができました。
1577年当時の教皇からグレゴリオ聖歌の改革を命じられます。
ローマで1594年に胸膜炎で亡くなりました。

「泉の水を求める鹿のように」(Sicut servus desiderat)
1564年に出版されたパレストリーナの最も人気のあるモテットです。
聖書の詩篇42 1-3

泉の水を求める鹿のように
わが魂は神なる御身を慕い求める









庭園の秘事

2023-08-05 08:50:00 | ルネッサンス
出張から帰宅途中、

横浜の焼売弁当の写真を送ってきた夫に、「食べたい。」と書いたら、
京都で私と次男の分を買ってきてくれました。
パッケージは京都で薄味。
スーパーで買ったお弁当とはやっぱり違います。
美味しかった!
でも、実は大阪で作られたお弁当でした。
美味しかったから良し!

替わりに石清水八幡宮駅までお迎え頼むって、特急が止まるわけでもないし、「なんでその駅?」って聞いたら、「段差が少ない。」って、そうなのかな?
だいぶお疲れらしい。
出張お疲れさま。



京都八幡市には、石清水八幡宮があり、神仏習合でそこの中にあった男山四十八坊の阿闍梨にまでなった松花堂昭乗(1582-1639年)


が、1637年弟子にすべて譲り、「松花堂」と名付けた方丈を建て、そこに移り住みました。

松花堂昭乗が隠居後に住んだ草庵・松花堂=2020年7月28日、京都府八幡市八幡女郎花、小西良昭撮影

風雅を愛された人で書道では寛永の三筆(近衛信尹、本阿弥光悦と)と称され、人物画や花鳥風月

を描いた絵は高く評価され、茶会では広い交流があり、「八幡名物」
奈良文琳 写し
と言われるお道具が伝わっています。

昭乗は、農家の種入れに使っていた箱を十字に仕切った器にヒントを得て、茶会で使う煙草盆や、絵の具箱を十字に仕切って使っていました。

松花堂昭乗が好んだ四つ切り塗箱。松花堂弁当のヒントになった=松花堂美術館提供
昭和の初め、吉兆の創始者が松花堂を訪れ、昭乗の好んだ「四つ切箱」を見初め、煮物、焼き物、お造り、ご飯を入れて蓋を被せて茶会に出されたのが「松花堂弁当」の始まりです。
(松花堂庭園、美術館hpより)

ちなみにお庭(20000㎡)


も見れますし、吉兆が中にあってお食事もできます。「松花堂弁当」

も食べられます。
食べたこと無いけど…。前を通るばかり。一度くらい行きたいけど。

チプリアーノ・デ・ローレ(?ー1565年)


ネーデルランド出身
イタリアで活躍したフランドル楽派の作曲家です。
フランドルのロンセに生まれたと推察されます。
アントウェルペンで音楽教育を受けたと思われます。
パルマ公妃マルゲリータ

と繋がりがあり、1533年彼女のナボリ行きに随行し、そのままイタリアに住んだと言われています。

1536年マルゲリータがアレッサンドロ ド メディチ

と結婚します。
その頃までにローレはイタリアで音楽教育を受けています。
ヴィラールト

と近しい関係にあり1545年には彼の住むプレーシャに滞在しています。

ヴェネツィアの出版社スコットに支持され、マドリガーレ集を出版。
1544-45年には2巻のモテット集が出版され、2年後には重版されています。
1546年フェラーラのエル コレ デステ2世に宮廷楽長に任命されます。
ここで多くの曲を残しました。

1556年エル コレ デステ2世


により功労により聖職禄を賜っています。
1559年デステ2世が亡くなり、ローレはフェラーラを去ります。

1563年ブリュッセルでマルゲリーテ公妃に再び仕えます。その後パルマで彼女の夫に仕えます。
次には1563年、サン・マルコ寺院の楽長になります。
が、俸禄の低さからここも辞めパルマに戻ります。その1565年に亡くなりました。

マドリガーレ集から、「遠くの東の国から」Da le belle contrade d'oriente, madrigal
東洋の美しい王国から
清らかで楽しいバラのヴィーナスと明けの明星と私の神聖な愛する人の腕の中で楽しんで
その喜びは人間の頭では理解できません。
熱烈なため息をついた後、彼女が言うのを聞いた
「私の心の希望、甘い願い、あなたは行き​​なさい、ああ、あなたは私をここに一人にしておきます。さようなら!
ここで私はどうなるのでしょう、悲しくて孤独になるのですか?
ああ、残酷な愛よ、あなたの楽しみは確かに
不確実で短い、私はまだあなたを楽しんでいますが、最大の幸福は涙で終わる。」
それ以上何も言えずに、彼女は私を強く抱きしめ、
もっと絡み合う抱擁を繰り返して
これまで以上にツタやアカンサスにように。







スペイン初の練習曲集

2023-07-17 20:59:00 | ルネッサンス
土曜は、京橋から、西九条までJRに乗って阪神電車で今津まで、今津公民館で西宮ギター練習会でした。

途上、西九条駅でUSJ列車に遭遇。
すごい人混みでした。

私は阪神電車にのりかえで、今津でした。
ギターのみなさんは練習熱心で、最近は一部屋では収まらなくて、2部屋に分かれてやっています。


私はギターの川原久美子さんとカルリの「2つのデュオ」から1番と、イペールの「間奏曲」
そしてピアソラの「オブリビオン」を演奏しました。

ルイス デ ナルバエスの「皇帝の歌」を演奏した人がいました。素晴らしい演奏でした。

ルイス デ ナルバエス(1500-1555年)は1538年デルフィンスペイン初の変奏練習曲「ビウエラ奏者のためのデルフィンの6部の譜本」を出版しています。

第1部ファンタジア8曲
第2部ファンタジア6曲
第3部インタプラシオン(声楽の編曲)7曲
第4部ディフェレンシア(変奏曲)2曲
第5部歌とビウエラ7曲
第6部ディフェレンシア3曲
の33曲からなっています。

「皇帝の歌」はその第3冊No.20にあたります。

彼は1526年にスペイン国王カール5世治下のカスティーリャ王国の国務長官兼評議員であるフランシスコ・デ・ロス・コボス・イ・モリーナの家庭で記録に姿を現します。
スペインの当時の首都バリャドリードに住んでいました。
ここで曲集を出版しました。

次に1548年スペイン摂政フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)


に雇われています。

スペイン黄金時代を代表するビウエラ奏者。スペインで盛んに演奏されたギターの先祖に当たる楽器です。

ビウエラを演奏する吟遊詩人

「皇帝の歌」はルネッサンス時代最高の作曲家と言われるジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」をビウエラ用に編曲したものです。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)(1500-1558年)


が好んだのでこの名で呼ばれています。

ジョスカン・デ・プレ「千々の悲しみ」

「皇帝の歌」ナルバエス


最古のオペラ

2023-06-21 21:00:00 | ルネッサンス
月曜日、地域の会館トノ2で8月にする世代間交流会のイベントの試作をしました。
今年は吊りしのぶをしようと言うことで、準備。
しかし肝心の常磐シノブが、市内のコーナンやデーツーを探してもありません。
結局、吊り観葉にすることにしました。
土も観葉植物の土でできるし、ほぼ同じ材料でてきます。

うちにたくさん生えているアイビーと

折り鶴蘭を入れてすることになり、



いい感じにできました。

土を混ぜたり、握ったりすると、心が落ち着いてきます。
これなら子どもたちも、地域の人たちも喜んでくれるでしょう。
すぐに飾れるし、その後育てる楽しみもあります。

ヤコポ ペーリ(1561~1633年
教皇領ローマ生まれ、トスカーナ大公国フィレンツェ没

ダフネの衣装をつけたペーリ
ペーリは1583年までにクリストファー マリヴェッイの後援で器楽作品とマドリガルを出版しています。
オルガン奏者、歌手を経て1588年メディチ家の宮廷雇われ、1600年以降はマントヴァの宮廷にも関わりました。

歌手、キタローネ奏者としても活躍していたと言われています。

16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)でジョヴァンニ デ バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まりました。

伝統的な複雑なポリフォニーの様式ではなく、ギリシャ悲劇を模範に歌うようなセリフを用いる劇が考えられました。カメラータという歌を中心にした様式を推す人々が集まりました。
これが、現代の歌に通じる始まりです。

この運動の中で、1597年頃にペーリがギリシャ神話を題材にした「ダフネ」を作曲しました。

これが今日オペラとみなされる知られる限りの最古の作品です。

台本は全て現存しますが、音楽は断片のみが伝わっています。後のペーリの作品である「エウリディーチェ」は1600年以降に作曲されました。
これは現存する最古のオペラ作品です。


「ダフネ」
は、ギリシャ神話の神アボロンがニンフのダフネと恋に落ちる話です。
ダフネは、彼を避けるために助けを求めますが、それは叶えられますが月桂樹に変身してしまいます。
断片から再演されています。






哀しみの時代

2023-05-07 21:00:00 | ルネッサンス
土曜はギターの川原久美子さんと合わせ。

14日13:00開演、池田ギター練習会でカルッリのフルートとギター「2つの二重奏」からDuo1と、ドビュッシーの「夢」をバスフルートとギターで演奏します。

川原さんのお嬢さんの東京土産。
ピーターラビットのくるみのクッキー。
せっかくなのでイギリスっぽいお皿…実はソーサーで頂きました。
紅茶はいつものウェッジウッドのワイルドストロベリー。紅茶はルピシアのマスカットダージリン。

イングランド気分盛り上がって、イギリス…と言うわけにはいかず、
カルッリはイタリア生まれ、パリで活躍した作曲家。ドビュッシーはフレンチ。

確かに古典派、ロマン派のイギリスのギター作曲家など、きいたことがありません。

ギターはスペインのビウエラから始まり、イタリアや南米で流行りました。
オーストリアやフランスにはイタリア人の作曲家が多く渡っています。

しかし、当時ヨーロッパの辺境であったイギリスにわざわざ渡った人は少なかったのです。

だからといってイギリスに撥弦の文化がないかといえば、そういうわけではなく、リュートや、小型のハープが人気がありました。

イギリスの撥弦楽器の偉大な作曲家にはジョン ダウランド(1563〜1626年


がいました。
と言ってもギターは当時はなく、リュート全盛時代。

リュートのために書いた曲が、編曲されて多くのギタリストによって演奏されています。

彼の作品の1番の特徴は、世俗曲が多いこと。
それは、彼がエリザベス一世


のもとで宮廷リュート奏者を望みますが採用されませんでした。
宮廷の予算縮小や、彼が女王に献呈する曲を怠ったせいだと言われていますが、本人は一時期カトリック教徒だったために、イングランド国教会の女王から排斥されたものと信じていて、ずっとぼやいていました。

そのため、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクなどヨーロッパを遍歴しながら、世俗曲を作曲したものと思われます。

自分の曲を売り込まなければならなかったダウランドはその頃ヨーロッパで流行った哀しみを演出し、

「涙のジョン ダウランド」と自称。

イタリアに渡ると
「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ デュランデ」
と、名乗りました。

そして「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」
「運命の女神(フォルトゥーナ)の祝福を受けざりしものは
ただ憤るか、泣きはらすのみ」

というモットー(キャッチフレーズ?)までありました。

「常にダウランド、常に嘆いている」(Semper Dowland Semper Dolens)ダウランドとdolens嘆きと韻を踏んでいるという題名の曲を書いたりもしています。

1595年エリザベス女王暗殺計画を持ちかけられ、これを密告します。

1598年にはデンマークでクリスチャン4世


のリュート奏者を務め、1606年イングランドへ戻ります。

1612年45歳で、念願の国王ジェームス一世

付きのリュート奏者になり、晩年は不満を口にしなくなり、幸せに暮らしたのではないかと言われています。

「彼女は僕を受け入れてくれるのだろうか?」

あのこはぼくの苦しみをどう言い訳できるのか、可愛いフリをして?
彼女が冷たいとわかったのに、ぼくは彼女を素敵だと呼べるだろうか?
それって煙となって消えてしまう炎なのだろうか?
ぼくは実りのない木を褒め称えなければならないのだろうか?

いや、影がそこにいる人と間違えられるようなところだと
ぼんやりしてたらだまされるんだ
冷たい愛なんて、砂に書かれた言葉のようなもの
それとも水に浮かぶ泡

お前はまだ愚かにすがりつくのか
あのこは決してお前に優しくないのに?
あのこの心を勝ち取らなければ
お前の愛が実ることはないのに

ぼくはそんなにダメなやつだったのか、高望みしなかったことが
あのこがぼくに求めただけの大きな喜びを
そいつがでかければでかい分、ぼくの願いも大きいのに
あのこがそれを否定するなら、いったい何を受け入れてくれるのか?

もしもあのこが真面目に考えてるのなら
愛することが真っ当なことなのに
ねえ、この愛を受け入れてぼくをシアワセにしてよ
でなけりゃ今すぐに死なせてくれよ

死んじまった方が何千倍もいい
愛するためにずっと苦しむよりは
愛しい人よ、でも忘れないで、それはぼくなんだ
君のために、満ち足りて死んでいった男は








涙の流行した時代に

2023-01-21 08:52:00 | ルネッサンス
京都知恩寺の近くに多肉植物専門のお店がありました。

店先にサボテンの自販機。
手作りの売れる街はこうやっておもしろいチャレンジが赦されています。

うちの多肉ちゃんも育っています。
近所の縁日で買ってきたものです。
商店街の中にある陶芸と多肉が趣味の方の手作り。
器を作っているうちに合体して作ることを思いついたそうです。
うちの小さなサンルームで何年もそのままで生きています。

多肉植物は寒いヨーロッパでは戸外では育ちません。
温室ができたことで普及しました。

紀元前48-33年の元帝(前漢)で使われていた記録があります。
季節を外れた頃に温室でできた植物を食べるのは健康に悪いので温室に使う燃料を削減してください。と言う上奏が残っています。

ヨーロッパではローマ帝国紀元前1世紀
透明石膏(セレニウム)

で作った家に油を塗ってきゅうりの苗を寒い夜に入れて育てた。と言う記録があります。

本格的な導入は17世紀以降、ガラスの技術が向上してからです。

上流階級が熱帯の果実を育てたもの
野菜を育てたウィンターガーデンでした。

最も古いのはイギリスのオクスフォードの植物園1621年

薬用植物の研究のために建てられました。
1673年にはチェルシー薬草園

と大学に属する研究施設として建てられました。
1759年にはキューガーデンが宮殿併設温室として建てられました。


熱帯植物マニアのケーブル卿が建てたものをオーガスタ妃が拡張しました。

1873年ベルギー ラーケン温室


ベルサイユ宮殿のオランジェリー1684-1686年


などなど、世界中の植物を集めました。

17世紀のイギリスは、ジョン ダウランド(1563-1623年)
イングランド生まれ、不明没


1588年にオクスフォード大学で音楽博士になりました。
エリザベス女王の宮廷楽士になろうとしましたが、なれずに、海外に職を求めて放浪。
フランスにも行き、一時期カトリック教徒になります。
そのためプロテスタントが主流のイングランドでは宮廷で務めることが難しく、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクを放浪しました。

1598年ー1606年デンマークのクリスチャン2世の宮廷楽士として務めます。
イングランドに戻り、1612年リチャード1世のリュート奏者になりました。

「涙のジョンダウランド」と自称。
イタリアでは「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ デュランデ」と名乗りました。

「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」
「運命の女神の祝福を受けざりし者はただ憤るか泣きはらすのみ」
をモットーにしました。
「常にダウランド、常に嘆いている」
と自分の名前にかけた曲も書いています。

しかし、トーマス フラーは87曲の現存する曲のうち14曲しか明確に厭世的な曲はなく、実は快活な人だったのではないかと言っています。

16世紀からイタリアで神秘思想が流行し、大陸での流行をいち早く取り入れ、またパトロンのルーシー ラッセル(ベッドフォード伯爵夫人)もそういう思想を好んだのでダウランド自身が作った人物像だと言っています。

ボールトンによれば
資料の事実的根拠はなく、1595年イングランド政界の重鎮ロバートセシル
に宛てた手紙ではリュート奏者になれなかった不満が噴出し、宗教のせいで拒まれたと信じ込んでいて、そう明るい人物ではなかったと書いています。

リュート歌曲集から
Time stand still 時が静止する









世俗のアート

2023-01-17 09:00:00 | ルネッサンス
日曜に行った知恩寺手作り市の収獲の一部です。
全長3cm位、とかげの木工と、それをくり抜いた時の枠。
なんだか使い道意味不明なアート!って感じの作品が好きです。

他の作品はこれ。

全部もらったらカレーができるぽち袋や、リコーダーケース(笛入れにします。)あみぐるみのキラキラトカゲ、スマホケース、スタンプ(ケーキ)、トリケラトプスクリップ、ポーチ大小、福助バッチ。他に椎茸の佃煮買いました。

福助バッチとポーチ大は夫にプレゼント。
実用品はポーチ小、印肉とハンコ両方入れます。
スマホケース。カバン変えたら前に使っていたのが合わなくなりました。
あおりの中に入れて使いますがトカゲバッチをつけて使おうっかな?
つけてみました。

おかしいかなぁ〜?

ジョスカン・デ・プレ(1450.55?-1521年)フランス北部サン=カンタン近郊生まれ、フランスオー=ド=フランス地域圏コンデ=シュル=レスコー没

少年聖歌隊から、作曲家になりました。詳しいことはわかっていませんが、生前から有名な作曲家でした。
オケゲムに学びました。

1475年エクス・アン・プロヴァンスのアンジュー家のルイ善良王


の音楽団の一員であったことがわかっています。
1480年にルイ善良王が亡くなると、フランス王ルイ11世に財産ごと引き継がれます。

1481年この王は脳卒中で倒れ、8人の声楽家に毎朝7時にミサ曲を歌わせました。この中に彼も入っていたと思われます。
1484年に枢機卿アントニオ スフォルツァの庇護を受けていたようです。

1484年にはミラノ公ジャン ガレッツオ スフォルツァの地位を得ていました。
然し充分ではなく安定した教会の役職を願って訴訟を起こしたりしていますが、うまくいきませんでした。

ローマでフィリップ美公に近づくためにスターバト・マーテルを送っています。

1500〜1502年にはルイ11世に雇われていましたが、未払い報酬があり、思い出してもらうためにモテット「御言葉を思い出し給え」と「人慈を持ってあしらいたまえり」を送っています。
1503年フェラーラの宮殿楽長職につこうとしていましたが、ペストの流行がはじまり、公爵も移住し、ジョスカンもフェラーラを去りました。
晩年のことはよくわかっていませんが、1509年、1513年と教会と俸禄のことで交渉しています。

彼の不安定な身分のせいで、教会音楽ばかりでなく世俗曲を多く残すことになりました。

これは世俗曲の1つで夫婦喧嘩の一シーンでしょうか?

三声の世俗音楽より
Mon mary m'a diffamée
夫は私を侮辱した。




分割合唱をドイツに広めた男

2022-12-31 08:55:00 | ルネッサンス
萩原天神いつもの処の招き猫さん。
5歳児くらいの大きさです。

兄弟(姉妹?)もいます。


萩原天神のすぐそは。
鎮座地の日置荘は奈良古墳時代の窯跡が多く残る荘園だったそうです。
古代太陽信仰の日置部が置かれていたそう。

今年最後、なんだか縁起のよい吹き納めでした。

ジョバンニ カブリエーリ(1554?-1612年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生没

作曲家、オルガニスト。
海洋国家で覇権を誇ったヴェネツィアの衰退期。

オスマン帝国と闘い、100年の間に徐々に破れて行った頃の作曲家です。

5人兄弟の一人でおじアンドレーアに音楽を学びました。
バイエルン公アルブレヒト5世の宮廷で後期ルネッサンスフランドル楽派の作曲家、オルランド ディ ラッソ(1532-1594年)に学びます。

1584年ヴェネツィアに帰国。
1585年ヴェネツィア 聖マルコ大寺院

の主席オルガニストに就任します。

翌年おじアンドレーアの死でその地位主席作曲家の地位も手に入れます。

ガブリーリはこのおじの作品を編集、校正整理して出版しています。
そのせいでアンドレーアの作品は散逸せずにすみました。

サン ロッコ大同信組合のオルガニストに就任し、ここは


聖マルコ大寺院に継ぐ大きな組織で、ガブリエーリは終生作曲に務め、多くの作品を書くことができました。


また、ヨーロッパで最も有名な、作曲家と成りました。
1597年宗教曲集「サクレ シンフォニエ」を出版するとヨーロッパ中でヴェネツィアに留学することが流行りました。
特にドイツ出身の音楽家が、熱心でした。
ガブリエーリは弟子たちにマドリガーレを研究させ、ヴェネツィア楽派の複合唱、マドリガーレ様式を母国に持ち帰らせました。

1606年頃から体調が悪くなり、1612年腎結石で亡くなりました。

ガブリエーリの功績は分割唱、空間的に離れた場所にいる2つ以上の合唱隊が交互に歌い継ぐという様式を広めました。
それはおそらく聖マルコ大寺院の建築様式バシリカと言って細長い教会堂で向かい合わせに分割された合唱隊の配置によって得られました。









ネーデルランドの黄金の日々

2022-12-18 08:58:00 | ルネッサンス
今朝は伊藤公一先生のマスタークラスでした。
音階とアルペジオだけでほとんど終わりました。
本当に細かい。奥深いです。


今日は、午後から牧野で発表会前最後のレッスンなので、写真を撮る間もなく帰りました。
クリスマスや新年にふさわしいハレの日ワンピースや、ボレロが気になったけど、強い意志で帰宅。

雨が降ってきました。
聖ニコラウスのお祭りは、1665年ネーデルラントの中流家庭のクリスマスを描いています。

女の子にはお人形のプレゼント、男の子には、しつけ用の鞭が入っていました。不平の声を上げる男の子に祖母が手招きします。
ここには本当のプレゼントが入っていますよ。と

作者のヤン・ステーン(1626-1679年) ライデン生没

聖ニコラウスのお祭り
1665制作アムステルダム国立美術館蔵
裕福な醸造家で宿屋を経営する父の元に生まれます。
グラマースクールに通い、ユトレヒトでドイツうまれの画家クニュヒパーに学びます。
1648年画家の聖ルカ協同組合を作りました。
有名な画家ホイヘンの助手になり、娘のマルグリットと結婚します。
8人の子どもをもうけます。
1672年災いの年に絵画市場が落ち込んだので宿屋を経営します。
1673年再婚。
1679年ライデンで亡くなります。

災厄の年は、スペインとの覇権争いが終結。ネーデルランド連邦共和国が認められ、オランダ東インド会社の黄金時代がやってきますが、イギリス東インド会社ともめ、1656年兵器製造所、造船所を作ります。
1662年イギリスと宣戦布告します。
同じ年フランスからも宣戦布告され、この年をオランダの災厄の年と呼ばれています。

これからの戦争の日々でついには1821年、黄金の日々は終わり、覇権を失い、オランダ国旗を上げているところは長崎の出島とアフリカ西海岸のエルミナ要塞のみになっていました。

ヤン・ピーテルスゾーンスウェーリンク(1562-1621年)
デーフェンテル生まれ、アムステルダム没
オルガニストで作曲家。
鍵盤楽派ともいわれ、和声や対位法に精通していました。
ルネッサンス後期からバロックに位置づけられています。

ネーデルランド黄金期の作曲家。

モテット「今日キリストは生まれた」