息を合わせる。心を一つにする。
いろんな場所で、こんな言葉が使われています。
思春期以上の大人には少し気恥ずかしい思いがするかもしれません。ですが、アンサンブルをする時には、こういう言葉が、ぴったりきます。
考えていては遅い。1分間を160に分けて、それをまだ4つに分ける、つまり0.09秒の音符を4つとか、8つをあわせるなんていうとき、考えていては遅いからです。
指揮者の棒は、棒の動きは確かに、決まった図形を描きますが、カーブのどこで、音を出すかなんていうのは、機械ではかった、等分の位置にあるわけがありません。
振り下ろす瞬間ではなく、振る前に吸い込む呼吸の速度、アウフタクトの全員がここと予測して音を鳴らします。指揮者のいないアンサンブルの場合は、息を吸い上げ吐き出す瞬間に、セーノッと入ります。
おろした位置や、形はあまり意味がなく、やはり息が肝心です。
そしてそれぞれが自分の仕事を、するだけでなく、分子レベル、肌感覚の共感が必要です。
目が棒を追い、意識して、脳が認識し体に指令を届くのを待っていると必ず、遅れます。じゃあ、なぜ合うの?
音楽をみんなで作り上げる、レベルを上げたいと言う意識を脳に指令をだしていれば、勝手に脳が指揮者の表情、隣に座っている人の呼吸を読み取り、体に指令をだし合わせることができます。
相手や、人全般に対しての競争意識や対抗心、反抗心などがあると、少しのずれとなって、すべて表現されていきます。
だから、ギリシャ時代には、音楽が学問の中で最高とされました。
言葉はごまかすことができるけれど、音楽はごまかすことができない。と思われていたからです。
人間は、文明化が進み、感性がよりすぐれたかというと、逆にそういう目に見えないもの、はっきりと数値化できないくらいの微妙な変化に鈍感になりつつあるような気がします。
赤ちゃんは、寝ている場所からは見えない角度の扉から部屋の中に入ってきた人が、母親とそうでない人とは、明らかに反応が違うそうです。そういう共感能力は人間はもともと持っているのだということを示していると思います。
私は、音楽を通して、その共感力の違いをはっきりみました。息が合った演奏というのは、結構いけています。
演奏解釈。曲への共感は、5人いれば5人違います。しかし、それを否定しあうのではなく、力にできたグループの信頼と、尊敬に満ちた演奏は、もっと深いレベルの共感を表現していきます。
それは、演奏技術のレベルといったものとはまた、違うところにあるのだと思いますが、これなくした、心をなくしたレベルの高い演奏というのは、望めないものだと言うことを、また音楽から学びました。
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