土曜の朝、実家でレッスンでした。
床の間に活けた南天。
の弟子になろうと1787年ウィーンに出てきます。
ワルトシュタイン伯爵の手紙
に学ぶことを勧めます。
ハイドンの祝賀会
玄関に南天とすすき。
母に聞いたら「裏の庭に生えてた。」
「こっちの南天の実がすごいの。」
床の間に活けた南天。
裏の庭にほっておいたらなっていたそうです。
午後からは梅田で伊藤先生のマスタークラスでした。
スケールとアルペジオ。
下りの上線3のEは右小指をあげるとスラーで音が出ます。
それを標準にするように。
先生の1音の出し方が丁寧で集中していて、全く他の人と違います。
この音を聴くと私の中の背骨がスッキリと整う気がします。
ああ、これこれ!この音!
という感じ。
それから、その音の動き方。
とてつもなく滑らかで正確。
音楽の前にどこまでも真摯で謙虚。
まだまだ及びませんが、希望の星がそこに輝いているので私も諦めないで頑張れます。
ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770ー1827年)
はアマデウス モーツァルト(1756-1791年)
の弟子になろうと1787年ウィーンに出てきます。
しかし、モーツァルトは忙しく、そのうち母が危篤という知らせを受けてボンに帰ります。
その間にモーツァルトが亡くなります。
1792年7月にヨーゼフ ハイドン(1732ー1809年)ローラウ生まれ
(60歳)がボンに滞在します。21歳のベートーヴェンは彼に会いに行き、自分の作曲した曲を見せます。
ハイドンは「僕のところで勉強しないか」と提案し、ベートーヴェンは彼に弟子入することになります。
11月、パトロンのワルトシュタイン伯爵の「君は夢を叶えるためにウィーンへ行くのだ。モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取ってくるのだ。いってらっしゃい!」
ワルトシュタイン伯爵の手紙
という激励の手紙をもらってもう一度ウィーンに行きます。
ところがハイドンの方はロンドンへ演奏旅行に行って大変忙しい時期だったため、ベートーベンのための時間をさくことができませんでした。
ハイドンから出された課題も「どうせ僕の課題を見てくれる時間なんてないだろう。」と半分も手をつけませんでした。
しかし、ハイドンはそれでも何とかベートーヴェンの力になりたいと、自らベートーベンに生活費を支援し、ボン宮廷にもベートーベン奨学金を出すように頼んでいました。
それでも結局ヨハン ゲオルグ アブレヒツベルガー(1736ー1809年)
に学ぶことを勧めます。
当時まだ22歳だったベートーベンは早々に離れ、別の先生のもとで勉強を続けることにしました。
そして、アルブレヒツベルガーから対位法の基礎を学びました。
彼の最後のレッスンのメモに
「我慢すること、熱心であることを頑張ること。正直であること。これらが成功へ導いてくれる。」とベートーヴェンは書いていたそうです。
1795年リヒノフスキー邸で行われたベートーベンのピアノ三重奏曲作品1の初演にハイドンは出席しました。
終演後、ベートーヴェンが意見を求めると、「これは出版しないほうがいい。」と辛口の批評。
しかし、ベートーベンは次作のピアノソナタ作品2をハイドンに捧げました。
1808年のウィーン大学の大ホールの76歳のハイドンの誕生日のコンサートでは、上流階級の人々が集まり、彼の「天地創造」が演奏されました。
ハイドンの祝賀会
サリエリが指揮しハイドンと抱擁しました。
そこにベートーベンが出てきて、ひざまずきハイドンの手にキスをしました。
ベートーベンの目は潤んでいたそうです。
ハイドン亡き後のこと
「私の部屋にはヘンデル バッハ グルック、モーツァルト、そしてハイドンの肖像画がある。彼らは私が求める忍耐力を得る大きな手助けになる。」1814年
とベートーヴェンのメモには書かれていました。
1827年病床のベートーベン56歳を見舞ったディアベッリはプレゼントをします。それはハイドンの生家が描かれたリトグラフ(版画)でした。
ディアベッリの帰宅後、友人たちにそのプレゼントを見せて「見て、今日こんなものをもらったんだ。この小さい家、こんなところから偉大な男が生まれたんだよ!」とベートーヴェンは言っていたそうです。
数週間後、ベートーヴェンは亡くなりました。
その後、ベートーヴェン22歳の頃にハイドンがボンの選定候に書き送った手紙が発見されました。
そこには
「ベートーヴェンはヨーロッパ最大の音楽家になる」と、書かれていたそうです。(note 大井駿)
コメント励みになります。
ドイツで、ピアノレッスンされたのですね!すごいです💖
がんばってくださいね!