私のふるさとは静岡県西部、天竜川の東に広がる丘陵地帯、当時中泉と呼ばれていました。中泉には10ぐらいの町があり、府八幡宮を中心にまとまっていました。長い歴史のある地域で、府八幡宮に隣接して広大な遠江(とおとうみ)国分寺跡があります。昔、国分寺と八幡宮が併設され、この地域の開発が行われました。府八幡宮は、徳川家康が、中泉に御殿を設け、よく滞在し、丘陵地帯で軍事訓練をやっていたので八幡宮の維持管理修復はきちんとなされ、今はちょっと本殿に変形がありますが、特に倒壊の恐れはないということで現在も維持管理されています。
八幡宮の歴史が長かったのでお祭りが発展してきました。奇祭ではなく、山車・屋台を主とする標準的なお祭りです。戦中、アメリカ軍から激しい攻撃を受け、中泉駅の周辺は破壊され、山車・屋台を失った町が出ましたが、ほとんどの町が戦前の山車・屋台を残すことに成功したのは驚きです。山車を破壊された町や戦後誕生の新町は貧困で豪壮な山車をつくれず、装飾がない小型の白木の屋台をつくってお祭りに参加しました。
私の父は、中泉の石原という町に育ち、若い時はお祭り大好き人間で石原で大活躍をしていたそうです。石原は豪壮な屋台を持っていました。父は結婚すると中泉の坂の上という町に住みました。坂の上も屋台でしたが、石原の屋台より構造、彫刻などがちょっと見劣りがしました。父は、幼児の私を石原に連れて行き、大きな顔をして私を石原の屋台にのせていました。
父の影響で私はすっかりお祭り大好き人間になり、小学生高学年になると自分の町「坂の上」の小太鼓をうつようになりました。若い衆(青年)が大太鼓をうちました。小太鼓は同じリズムで打ち続けなけらばなりません。お祭りの前、若い衆と練習しましたが、乱れるとよく怒鳴られました。
私は大太鼓がうちたくて、若い衆が休憩のとき、大太鼓をうったらもっと激しく若い衆から怒鳴られました。太鼓がくるうと言われました。大太鼓は非常に高価なものが使われ、皮の状態やはりは音色に関係していたので若い衆は大太鼓の扱いにうるさかったのです。
お祭りの時、小太鼓は屋台の一番前にあり、見晴らしがよく、うっていると誇らしく感じ、小太鼓うちが好きでした。交代になると、しぶしぶ屋台を降りたものです。大太鼓がうちたかったので、屋台の後ろを歩いて若い衆の大太鼓うちを見ながら屋台の後を歩き続けました。
このような訳で私はお祭り大好き人間になってしまいました。
西洗自治会の夏祭りでは2020年まで、10年間、テント張りなど公園での会場設定を担当させていただきました。ボランティアの方々、模擬店担当の方々、役員の方々の協力を十分に得て、一度も不自由を感じたことはありません。楽しく、無事故でやってきました。
2020年のお祭りだったと思いますが、夏祭り実行委員会のある幹部が、当日、突然、会場設定を指揮するという予告なしの行動に及んだので引退すべき時がきたと判断しました。当時80歳でした。
しかし、私のお祭り好きはやまず、2022年、老朽化した子供用山車の台車作りかえ、2023年の二代目子供用山車の設計制作、2024年、子供用山車の台車改良を担当させていただきました。
また、夏祭りではゲートボールのゲート通しの部分を活用し、ゲート通し遊びを10年続け、昨年も無事実行しました。ボール拾いが重労働ですので、ボール運搬装置など工夫し、ゲート通し遊びをやっていいます。今年もやります。
明日、私は85歳になります。確実に老化しているのに心がお祭りに動いてしまいます。すると体まで動いてしまいます。人生って面白いですね。
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