■ パソコンの更新
今日は、10年近く使い不具合になったパソコンを変更。
軽くなり処理が速くなり、よく見え、目も気持ちも疲れない。
快適だ~!!
ついでに、10月中旬に(明後日から大会参加で新潟県にいくので)ADSLから光回線に変更する。
■ 親鸞と恵信尼、55年ぶりの直江津
きのう宿に電話をし、前の日に1泊を追加できるか聞いたらOK、大会行きの行程を2泊から3泊に変更した。
JRの「大人の休日倶楽部ジパング」会員割引(30%)で切符を買った。
コースは、私の生まれ故郷である北信濃の県境の山を越えた、上越市・新井市付近(越後)にある。
せっかく縁のある土地に行くのだからと、大会前に、配流から7年「親鸞と恵信尼」が暮らした、ゆかりの寺社名所を尋ねることにした。
思えば、流罪にともない親鸞が上陸した直江津の海辺は、小学校6年の修学旅行で訪れた時以来、55年ぶりになる。(どんよりとした空と、はじめて見た海の、遠い記憶が残っている)
初日の10月4日(木)は、直江津到着後、新井駅まで行き、親鸞の妻・恵信尼が晩年を過ごした「板倉」の地、その山里に行く。
田畑や緑の山並み、大気、土地の人々などに触れ、j時空を超えて室町・鎌倉時代の昔、恵信尼消息(親鸞亡き後、1263年~1268年にわたって、板倉の地から京都にいる末娘の覚信尼あてに書き送った八通の手紙)に想いをめぐらし、時代、歴史や風土を感じてきたい。「えしんの里記念館」に寄ってみる。
『…建保二年(1214)親鸞は越後から関東へ移ったが、その途次に信濃を経由したとみられ、それは越後中頸城郡の新井から富倉峠を越えて信濃に入り飯山を通って、上野・武蔵への旅路をたどったといわれる。飯山の北の富倉峠を下りたところに藤ノ木御旧蹟(旧水内郡藤ノ木村、現飯山市旭)というのがあり、古来から親鸞ゆかりの地であると伝えられ、後に下総磯部勝願寺門徒がこの地を顕彰して掛所を造り、江戸時代には藤ノ木道場に西本願寺から本尊が下附されている。…
上のことを含め、小冊子「勝願寺の歴史」(現茨城県古河市磯部)には、勝願寺の教線が信州の須坂、中野、飯山・南条村正行寺(旧勝願寺)・藤ノ木旧蹟跡~越後高田の瑞泉寺、浄興寺などに展開している模様が記されていた。
続いて、… 明性の門流が信濃に入ったのは貞治六年(1367)を史料上の初見とする。その後、勝願寺と長沼の浄興寺が連絡をとり、信濃の真宗を発展させた。六か寺の成立は、室町時代中頃からであり、藤ノ木(現飯山市旭)の影響が大きい。勝願寺十二代住職慶順は蓮如の弟子となり、文明年間(1469~1486)蓮如を親鸞ゆかりの藤ノ木旧蹟に迎えて人々を教導し、藤ノ木を中心に門徒の教化につとめ、信越地方に磯部系の門流を伸張させた。…やがて勝願寺は主力を信越教化におき、慶長五年(1600)、藤ノ木旧蹟の隣り南条村(現飯山市旭)に森忠正から寺地を寄進されてここに移転した(現南条の正行寺)。しかし、松平忠輝の越後高田への入城に際し、招かれて再度移転した。有名な高田の瑞泉寺がこれである。…』
板倉地区から新井駅に戻り電車に乗る。
高田駅で降りる。
駅前の浄興寺を見学後、高田城、瑞泉寺とまわる。
10月4日は以上、高田駅に戻り、直江津駅から徒歩で宿にチェックイン。
10月5日(金)の午前中は、港町直江津をぶらり歩き、親鸞ゆかりの寺社・名所をまわる。
「居多ケ浜」(承元元年(1207)、専修念仏停止の法難を受けて越後国府へ流罪となった親鸞。その旅の途中、木浦(現糸魚川市能生)から船に乗り居多ケ浜に上陸したと伝えられている)~「居多神社」(越後流罪後初めて訪れた神社仏閣)~「五知国分寺」(配流後の最初の庵・竹之内草庵があった越後国府)~「本願寺国府別院」(恵信尼と暮らした二つめの配所) など。
このあと昼過ぎに直江津駅に戻り、シャトルバスに乗り、受付会場の「リージョンプラザ上越」に行く。
生まれ育った小さいころは、正行寺の大きな銀杏の木の下で遊びまわったけれど、藤ノ木旧蹟のことも、親鸞、蓮如のことも、ましてや勝願寺、浄光寺、瑞泉寺なども知らなかった。
50代初めころ、偶然にも古河市磯部(当時は、総和町磯部)に転居し、磯部の勝願寺を知り、北信の須坂、中野、飯山~上越市(越後)の直江津・高田・板倉へと、浄土真宗の歴史と系譜 を知った。田舎の寺と関係があることを知って衝撃的なビックリ!!!!
飯山市旭の藤ノ木~富倉~新井~直江津または板倉は、今は、一日で歩けない距離ではない。
道路事情が悪く、履物のわらじなど、はるか昔の山道であればどうだったか?
マリンスタジアム 12km
当月累計 12km 当年度累計 2332km