まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

三河田原と豊橋鉄道

2007年08月16日 | 旅行記D・東海北陸

伊良湖岬を出たバスは一路渥美半島を東へ。フェリー乗り場のあたりはマイカーで賑わっていたが、一つ道路に出るとさほど混雑もしておらず、バスは快調に走る。

改めて車窓に目をやるが、このあたりは水田というのがほとんどなく、今は茶色い土が目立つ。あとはビニールハウスかな。何でも渥美半島というのはメロンにキャベツの産地とか。山も目立たずこうした平地にまっすぐに道が敷かれている。一瞬、北海道に来たかのような錯覚を感じる。国民休暇村の前を通る。家族で渥美半島のレジャーを楽しもうという客でこちらも賑わっているが、あいにくバスの乗り降りはなし。

伊良湖岬を出て50分ほどで、田原市の中心部に入る。三河田原といえば豊橋鉄道の渥美線の終着地でもあり、小さいが江戸時代からの城下町という。伊良湖岬周辺のスポットは素通りしただけに、なかなかめったに来ることもないであろうこの田原に少し立ち寄り、渥美半島に来た足跡とする。田原萱町というのが中心部のバス停(もっとも、豊橋鉄道の駅のすぐ近くであるが)であり、地元のショッピングモール前の停留所で降り、ここから歩いて10分ほどの田原市博物館というのを目指す。このあたりは平坦なところ(「海抜2m」という案内もあった)であるが、少し坂をのぼったところに昔ながらの石垣に堀に出会う。ここが元の田原城跡で、徳川幕府の譜代大名であった戸田氏→三宅氏の居城だったところ。石高一万二千というが、伊勢湾を挟んだ東海と関西の間の押さえとしてそれなりに重要な土地だったのであろう。

そして、この田原藩が有名なのは、あの「蛮社の獄」で捕われの身となり、後に自殺する田原藩家老・渡辺華山の存在である。この博物館も城跡の中に立つが、戸田氏や三宅氏の紹介よりは、ほとんどがこの華山についての紹介である。「蛮社の獄」というとイメージ的にはそれほどよろしくないのだが、よくよくこの人の事跡をたどってみると、田原藩家老として飢饉時に餓死者を出さなかったり、国防についての正論を著したという実績があるだけではなく、陽明学を究め、漢学の素養があり、また画家としても優れた才能を持っていたことが強調される。ここには画像は載せられないが、国宝・鷹見泉石像や、寺子屋で騒ぐ子どもたちの様子をリアルに描いた作品などの文人画も数多く残している。江戸時代の小藩にあってマルチな才能を輝かせていた人物である。

私も渡辺華山という存在は知っていても、この三河田原藩の人物とはほとんど意識していなかった。それだけに、博物館の展示を見るだけでも有意義であった。

もう一つ、特別展示として行われていたのが、「須田剋太展」。一瞬「誰?」と考えたが。紹介文に「司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を描いた人」ということで、合点がいった。『街道をゆく』は何冊か読んだが、その最初に出てくる独特な感じの風景画の作者だ。彼自身は別に三河田原の生まれというわけではなく、生誕100周年のイベントとして各地を展示して回っているその一つというらしい。

こちらは何というのだろう・・・・。先に渡辺華山の繊細な画筆を見た後だけに、その大胆かつ奔放な作風というのにうなるばかりである。おそらく学校の美術の先生が見れば、華山の絵が「うまく」、須田剋太の絵は「へたくそな子どもの絵」ということになるのだろうが・・・。それでもこの時に田原市博物館を訪れていた人のほとんどは、こちら須田作品がお目当てのようだった。

油絵から水彩画から、さらには包装紙を貼り付けたコラージュ、生気あふれる書の数々を見る。渡辺華山に須田剋太。二人の異才の業績を見られただけでも、この三河田原の途中下車は成果があった。

城下町の蔵屋敷といったつくりの三河田原駅まで歩き、ここから豊橋鉄道の乗客となる。ステンレスの車体に赤帯、車端部には「TOYOTETSU」というローマ字のロゴである。終着駅であるが何だか中途半端に線路が途切れた感じの駅からガタゴトと発車する。冷房と扇風機で車内は実に涼しい。

この豊橋鉄道、元々は伊良湖岬まで行く計画だったのだが、財政難やら戦争の影響で、三河田原の少し先で工事がストップし、その後、この田原までの区間になったという。線路が途切れたように見えたのもそのため。まあ、渥美半島の古い城下町である三河田原まで敷設しておけば面目が立ったのだろうが・・・。

日中はきっちり15分間隔で走る。2~3駅おきごとに、きれいなタイミングで対向列車と行き違う。途中の無人駅から乗る乗客も多く、そのたびに車掌が昔ながらの車内補充券にパンチを二つ三つくれてやって運賃を収受する。車掌が精算を行っているときは運転手がドアを開けるなど、連携プレーだ。これだけの頻度を維持していれば、地方私鉄としては優秀である。沿線は先ほどから続く畑が中心だが、それでも遠方には火力発電所が見えたり、近くもニュータウンが広がっているようで、豊橋、いやひいては浜松、名古屋へのベッドタウンとしての開発が進んでいるようだ。

豊橋の市街地が近づくに連れ、路地裏のようなところを走るようになる。最後はJR東海道線の線路をまたぎ、これから再開発工事が行われるような雰囲気の豊橋駅の東の端にぽつんと建つホームに到着。階段を2つ3つ降りれば豊橋駅前のロータリーの片隅という場所。

豊橋にも路面電車がある・・・というのはそう知られてはいないのではないだろうか。路面電車に乗ってみるということも考えたが、この時点でちょうど昼。今朝名古屋を早朝に発った割には、ここまで来るのに時間がかかったようにも思う。東京まで戻るのに、もう豊橋かと思うか、これだけ時間が発ってまだ豊橋かよ!と思うか。この先まだまだポイントがあるのに・・・。

結局路面電車は断念して、改札内のスタンドできしめんで昼食として、再びJRの客となる。青春18の利用客が多い中、2つ目の新所原で下車する・・・・。(続く)

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